例えば福島瑞穂ちゃん(再び)。
思春期の頃、
気になるアイツに壁ドンされ、耳元で、
「瑞穂・・・」
なんて囁やかれてドキドキした、とか、
いけ好かないバカ男子に馴れ馴れしく肩をたたかれ、
「なあ瑞穂〜」
なんて呼びかけられてムシズが走った、とか、
そういう青春の一コマはないんですかねえ。
ちなみに私、
高校時代、スラリとした女性の先輩に、
「よしのり〜」
なんて呼ばれてクラクラしたことあります。
いや、それはともかく、
このてのエピソードは、
いわゆる「下の名前」だからこそ意味があるんです。
分かりますよね。
さて、
この度の最高裁判決を受けて、
「私は、福島瑞穂。福島瑞穂以外の何者でもない」
式のコメントをする人が結構いて、
私、ある意味、衝撃を受けました。
皆さん、姓について、
思い入れが強いというか、
思い込みが激しいというか・・・
いわゆる「姓」っていうのは、
とある血筋であったり(氏:うじ)、
とある職業であったり「姓:かばね)、
とある土地であったり(名字、苗字:みょうじ)、
(外国の例だと、父親の名前であったり)
要するに属性を示すものであって、
もともと個人の名前じゃないんですけどねえ。
姓と名は、それぞれに役割が違うし、
だからこそ存在しているわけでして。
社会性に乏しい子供のうちは、
互いに(下の)名で呼び合うわけですが、
長じるにつれて、徐々に姓で呼ぶようになります。
一定の距離を保つためです。
そして、
特に親しい人(や恋人!)とだけ名を呼び合います。
つまり姓というのは、
気安く個人名(下の名前)を呼ばなくて(呼ばれなくて)済むように、
そのために用いられてきた知恵なんです。
それを日本では、
「〇〇さんちの」というふうに、
家族単位で使ってきたわけですね。
そういう意味では、
そもそも仮名と言っても良い姓を含めて、
命そのものと言ってみたり、
アイデンティティーに係ると叫んでみたり、
一体誰にノセられちゃってるんだか。
「姓は個人の人格の象徴」とか
「選択的夫婦別姓制度の採用は世界の潮流」とか、
今や世界中が(!)勘違いしてます。
あ、いや、大きく出過ぎました。
少なくとも日本では、
命そのものである「名」を隠しておくために「姓」がある(あった)んです。
人を呼び、人に呼ばれる「姓と名」について、
もう少し冷静に考えてみたら如何かと思いますね。
いきなり「瑞穂さん」と呼びかけたらビックリでしょうし、
いちいち「福島瑞穂さん」とお呼びするのも変でしょう。
万葉集一首目に次の歌がある、
その意味を考えてみてくださいな。
「こもよ みこもち ふくしもよ みふくし持ち この岳に 菜摘ます子 家のらせ 名のらさね」
(桜井市観光情報サイト:ひみこの里・記紀万葉のふるさと
→http://www.city.sakurai.lg.jp/kanko/manyokahimeguri/chiku/asakurahatsuse/1395996887695.html)
*以上、一般的な個人の、呼び名としての「姓」について、でした。
代々受け継ぐべき家名としての「姓」や、
身を立て名を挙げ社会的認知を受けた「姓」については、また次の機会に。
思春期の頃、
気になるアイツに壁ドンされ、耳元で、
「瑞穂・・・」
なんて囁やかれてドキドキした、とか、
いけ好かないバカ男子に馴れ馴れしく肩をたたかれ、
「なあ瑞穂〜」
なんて呼びかけられてムシズが走った、とか、
そういう青春の一コマはないんですかねえ。
ちなみに私、
高校時代、スラリとした女性の先輩に、
「よしのり〜」
なんて呼ばれてクラクラしたことあります。
いや、それはともかく、
このてのエピソードは、
いわゆる「下の名前」だからこそ意味があるんです。
分かりますよね。
さて、
この度の最高裁判決を受けて、
「私は、福島瑞穂。福島瑞穂以外の何者でもない」
式のコメントをする人が結構いて、
私、ある意味、衝撃を受けました。
皆さん、姓について、
思い入れが強いというか、
思い込みが激しいというか・・・
いわゆる「姓」っていうのは、
とある血筋であったり(氏:うじ)、
とある職業であったり「姓:かばね)、
とある土地であったり(名字、苗字:みょうじ)、
(外国の例だと、父親の名前であったり)
要するに属性を示すものであって、
もともと個人の名前じゃないんですけどねえ。
姓と名は、それぞれに役割が違うし、
だからこそ存在しているわけでして。
社会性に乏しい子供のうちは、
互いに(下の)名で呼び合うわけですが、
長じるにつれて、徐々に姓で呼ぶようになります。
一定の距離を保つためです。
そして、
特に親しい人(や恋人!)とだけ名を呼び合います。
つまり姓というのは、
気安く個人名(下の名前)を呼ばなくて(呼ばれなくて)済むように、
そのために用いられてきた知恵なんです。
それを日本では、
「〇〇さんちの」というふうに、
家族単位で使ってきたわけですね。
そういう意味では、
そもそも仮名と言っても良い姓を含めて、
命そのものと言ってみたり、
アイデンティティーに係ると叫んでみたり、
一体誰にノセられちゃってるんだか。
「姓は個人の人格の象徴」とか
「選択的夫婦別姓制度の採用は世界の潮流」とか、
今や世界中が(!)勘違いしてます。
あ、いや、大きく出過ぎました。
少なくとも日本では、
命そのものである「名」を隠しておくために「姓」がある(あった)んです。
人を呼び、人に呼ばれる「姓と名」について、
もう少し冷静に考えてみたら如何かと思いますね。
いきなり「瑞穂さん」と呼びかけたらビックリでしょうし、
いちいち「福島瑞穂さん」とお呼びするのも変でしょう。
万葉集一首目に次の歌がある、
その意味を考えてみてくださいな。
「こもよ みこもち ふくしもよ みふくし持ち この岳に 菜摘ます子 家のらせ 名のらさね」
(桜井市観光情報サイト:ひみこの里・記紀万葉のふるさと
→http://www.city.sakurai.lg.jp/kanko/manyokahimeguri/chiku/asakurahatsuse/1395996887695.html)
*以上、一般的な個人の、呼び名としての「姓」について、でした。
代々受け継ぐべき家名としての「姓」や、
身を立て名を挙げ社会的認知を受けた「姓」については、また次の機会に。
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