#024の続き。
安倍首相の歴史認識について。
いわゆる「村山談話」の「何処を認め、何を引き継ぐのか?」
談話が出された戦後50年以降には、
内外の機密文書が公開され、
埋もれていた自叙伝、回顧録が公刊され、様々な新事実が明らかになっています。
それでも自分の(本当はGHQや中共の、なんですが)歴史認識を全く「修正」出来ない人々が、
十年一日の如き議論を続けています。
衆議院予算委員会(2月4日)で、
民主党の細野豪志さん、辻元清美さんがモーレツにこだわっていたのが、
談話の第5段落、次の部分です。
引用
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
引用終わり
そもそも、村山さん自身は此処をこそ言いたかったのでしょうから、
辻本さんがこだわるのは、まあ分からないでもない。
の、ですが、細野さんまで
「指導者が国策を誤ったことを認めるのか、認めないのか」
と何度も繰り返したのには、正直、辟易しました。
ちょっと勉強すれば、
当時の日本には「国策」と呼べるようなものが無かったと、
むしろ、そのことの方が重要だと理解できると思うんですが・・・
いわゆる東京裁判でも「共同謀議」は立証できなかったし。
ちなみに談話の同じ部分、外務省が用意した英文ではこうです。
引用
During a certain period in the not too distant past,
Japan, following a mistaken national policy, advanced along the road to war,
only to ensnare the Japanese people in a fateful crisis, and, through its colonial rule and aggression,
caused tremendous damage and suffering to the people of many countries,
particularly to those of Asian nations.
引用終わり(改行引用者)
“following a mistaken national policy”は、主語“Japan”にかかる形容詞句ですね(たぶん)。
文法的には、削ってしまっても構わない部分です(たぶん)。
「戦争指導者」が国策を誤ったとは言ってませんね。
原文(日本語)でも「我が国は」と言ってるだけですし。
(細野さんも、こだわるのなら、こういう所にこだわって欲しい)
ところで、辻本さんは、
安倍さんが出すであろう談話は外国でも関心を持たれている、と言ってます。
その通りでしょう。
けれど、辻本さんと同じ様相で関心をもっているのは、
おそらく半島と大陸の国に限られると思います。
他の国々はもはや過去のことではなく、現在と未来の話を期待しているんです。
一体いつまで謝り続ける気なんだと、逆に不思議がられてるくらいです。
『国家の復権−アメリカ後の世界の見取り図』橘明美(訳)草思社(2009)で、
フランスの元外相ユベール・ヴェドリーヌという人が、
「そもそも、自分たちの祖先の行為に対して現代の誰かに謝罪を求めることにどういう意味があるのだろうか。どう責任をとれというのだろうか。法の原則に反してそのような集団責任を認めるべきなのか、しかもそれは子孫に受け継がれるというのだろうか」(P146)
「しかし歴史は歴史である。歴史とはあるがままに知り、理解し、乗り越え、そして受け継いでいくべきものであり、その際に気をつけるべきことは、無分別や自画自賛、そして無用な自責に陥らないことである」(P148)
と述べて「歴史の道具化」を戒めています。
予算委員会の席で
「歴史の修正主義者だという批判を免れないと思います」
などと、定義もしないままにレッテルを貼るような捨て台詞を吐く前に、
細野さんには、
自分にとって「歴史」とは何なのか、
という部分をまず「修正」してもらいたいですね。
安倍首相の歴史認識について。
いわゆる「村山談話」の「何処を認め、何を引き継ぐのか?」
談話が出された戦後50年以降には、
内外の機密文書が公開され、
埋もれていた自叙伝、回顧録が公刊され、様々な新事実が明らかになっています。
それでも自分の(本当はGHQや中共の、なんですが)歴史認識を全く「修正」出来ない人々が、
十年一日の如き議論を続けています。
衆議院予算委員会(2月4日)で、
民主党の細野豪志さん、辻元清美さんがモーレツにこだわっていたのが、
談話の第5段落、次の部分です。
引用
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
引用終わり
そもそも、村山さん自身は此処をこそ言いたかったのでしょうから、
辻本さんがこだわるのは、まあ分からないでもない。
の、ですが、細野さんまで
「指導者が国策を誤ったことを認めるのか、認めないのか」
と何度も繰り返したのには、正直、辟易しました。
ちょっと勉強すれば、
当時の日本には「国策」と呼べるようなものが無かったと、
むしろ、そのことの方が重要だと理解できると思うんですが・・・
いわゆる東京裁判でも「共同謀議」は立証できなかったし。
ちなみに談話の同じ部分、外務省が用意した英文ではこうです。
引用
During a certain period in the not too distant past,
Japan, following a mistaken national policy, advanced along the road to war,
only to ensnare the Japanese people in a fateful crisis, and, through its colonial rule and aggression,
caused tremendous damage and suffering to the people of many countries,
particularly to those of Asian nations.
引用終わり(改行引用者)
“following a mistaken national policy”は、主語“Japan”にかかる形容詞句ですね(たぶん)。
文法的には、削ってしまっても構わない部分です(たぶん)。
「戦争指導者」が国策を誤ったとは言ってませんね。
原文(日本語)でも「我が国は」と言ってるだけですし。
(細野さんも、こだわるのなら、こういう所にこだわって欲しい)
ところで、辻本さんは、
安倍さんが出すであろう談話は外国でも関心を持たれている、と言ってます。
その通りでしょう。
けれど、辻本さんと同じ様相で関心をもっているのは、
おそらく半島と大陸の国に限られると思います。
他の国々はもはや過去のことではなく、現在と未来の話を期待しているんです。
一体いつまで謝り続ける気なんだと、逆に不思議がられてるくらいです。
『国家の復権−アメリカ後の世界の見取り図』橘明美(訳)草思社(2009)で、
フランスの元外相ユベール・ヴェドリーヌという人が、
「そもそも、自分たちの祖先の行為に対して現代の誰かに謝罪を求めることにどういう意味があるのだろうか。どう責任をとれというのだろうか。法の原則に反してそのような集団責任を認めるべきなのか、しかもそれは子孫に受け継がれるというのだろうか」(P146)
「しかし歴史は歴史である。歴史とはあるがままに知り、理解し、乗り越え、そして受け継いでいくべきものであり、その際に気をつけるべきことは、無分別や自画自賛、そして無用な自責に陥らないことである」(P148)
と述べて「歴史の道具化」を戒めています。
予算委員会の席で
「歴史の修正主義者だという批判を免れないと思います」
などと、定義もしないままにレッテルを貼るような捨て台詞を吐く前に、
細野さんには、
自分にとって「歴史」とは何なのか、
という部分をまず「修正」してもらいたいですね。
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