自分は誰なのか?
佳有は何なのか?
いつもそれを考えたり、話してみたり、ときには悩んだりしている。
なにをしていても、それでどんな心境になっていても、いつもどこかの部分で「わたしは誰?世界はなに?」と考えている。そういう思考と意識がある。意識というよりは眼といったほうが近い。身体の眼と心の眼と俯瞰の眼がいつもある。
その三つの眼の、ものの見かたや態度がぴったり一致したときに、すべてがうまくいっていると気づいている状態なんだろう。
佳有の身体の眼がなにかを見て、衝動を起こし、それを心の眼が見て態度を起こし、でもそんなときも俯瞰の眼は静かにただ眺めている。ということは、逆から捉えると、佳有という身体の眼が、俯瞰の眼と同じように静かにただ眺めているとき、心はその態度を体験し、身体の眼は衝動を手なずけている、ということになるんだろう。
ただあるがままを愛するというのは俯瞰の眼で、そしてそれに従った態度と衝動だ。ならば、その眼と態度と衝動でそれに気づいてしまうしかない。
なにかの本を読んだり、書いてみたり、どこかの集まりに参加してみたり、誰かに教わってみたり、人を相手に説教してみたり、どこかに籠ってみたり、いろんなやりかたがあるんだろうけど、真実はそれらの《やりかた》とは無関係だ。自分の問いをごまかすテクニックでしかない。
意識と態度と衝動なのだから、ただハッと気づいてしまうしかないのだ。知ることも、わかることも、そのふりをすることも、無関係。
ただハッと気づいてしまう。
だけど、自分のなかに生まれながらに備わっているその推進力に従いつづけるのは骨が折れる。「自分にはまだなにかが欠けている」「わたしにはあれが必要だ」「人にはやるべき試練がある」という幻想がそれを邪魔する。欠乏感や不足感だ。だから自分の全体性を補うために人間関係があるんだろう。家族や恋愛がそれを補ってくれる。
だから相手にはいつも心を開いていなくてはならない。
どんなテクニックよりも、目の前にある事実や世界は自分の全体性を補ってくれるのだ。