アモーレ・カンターレ・マンジャーレ

自称イタリア人のオヤジが、好きなサッカーやらグルメやら、何でも不定期に気まぐれに書き綴るサイトです。

小諸の懐古園

2012-07-25 06:00:07 | つれづれ
先日、高峰温泉に出かけたことを紹介したが、東京からどこにも寄らずに・・・というのも悲しいので、一箇所どこかに・・・というので懐古園に立ち寄った。



 歴史マニアの小生としては恥ずかしながら、懐古園=小諸城址と知らず、ナビで誘導されるまま、あら・・・そうだったのって。
 そう、ここが島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」で名高い小諸のお城のあったところだ。現在、遺構としては大手門(左写真)と三の門くらいで、後は石垣を残す程度だが、この二つの門は重文となっている。

 このお城、徳川秀忠が関が原の合戦の際に、逗留したことが有名だが、現在遺構として残っている城郭の形を作ったのは仙石秀久という。
 豊臣秀吉の一の家来が作った城に、秀忠が逗留したというのも歴史の妙であるが、このお城、なかなか興味深い。

 そもそも武田信玄の東信制圧の拠点として、山本勘助の手によって縄張りがされ、天然の地形を生かした穴城としてスタートしたのが走りという。もっとも山本勘助自体が実在が微妙な人物だが・・・
 穴城とは聞きなれない言葉だが、このお城、小諸の市街より低いところにあり、市街から見ると上から見下ろせる形なのだ。



 ただし、こちらの図を見ていただくとわかりやすいが、城を囲む谷(図の緑の部分)が複雑に入り込み、しかも垂直に切り立っていて見事な要害となっている。
 また、石垣も初期の頃の野面積みであり、彦根城のそれとよく似ている。残念ながら天守閣のあったところは今はトップ写真のような感じだが、なかなか立派だ。

 敷地の一部は、動物園や遊園地にもなっているが、見晴台からは、千曲川もよく見え、からめ手からの攻略はほぼ無理だろうと思わせてくれる。
 千曲川が、外堀くらいの感じになっていた。

 興味深いのは、大手門と三の門の間を小海線が分断していることと、この大手門が明治になって民有化され、一時料亭として使われていたということ。
 平成になって、大手門は市に寄贈されて現在のように整備されたというから、これもまた・・・歴史の妙か。




 歴史といえば、城址の一角に冷やしあめの看板を見つけ、ついつい頼んでしまった。水あめ、蜂蜜に加え、しょうがなどを混ぜたもので、懐かしい味のするドリンクだった。
 昔は、どこの家でも作っていたという滋養強壮ドリンクみたいなもの。これまた歴史を感じるひとときとなった。
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