高野山に一泊二日で出掛けた小生、ますますもって高野山のすごさを知ったような気になったが・・・改めて弘法大師について整理してみると、本人の業績として確認できるものだけでもすごい。
31歳で遣唐使船で唐に渡り、33歳で帰国。基本はその後だが、東寺を真言宗のお寺として京の守護になったほか、高野山の開山、満濃池の整備、四国八十八箇所の整備。
さらに、京都五山の送り火の実施、文化人として綜芸種智院の開設や各種書物の編纂、さらには三筆として偉大な書家でもあった。
また全国各地の温泉の開拓や寺院の開山伝説など、伝説的なものを含めると、ものすごいものがある。
62歳で没したことになっているが、帰国してからわずか30年でどれだけの業績をあげたことだろう。
そんな中、高野山の位置を改めてスマホで確認したところ、トップ写真のような地図が・・・これを見て、ハッと気付いた。
高野山の参道の町石のスタートの慈尊院は紀の川のところにある。空から見れば高野山も紀の川沿いといってもいいくらいだろう。
そして紀の川は日本最大の断層帯である「中央構造線」の上を流れている。その中央構造線をきれいに結ぶ対岸には徳島の吉野川が流れている。
そして吉野川の河口近くに四国八十八箇所の一番札所の霊山寺があるのだ。弘法大師は高野山を嵯峨天皇から下賜されたのだが、弘法大師はここがほしいと言ったのでは・・・
それほどにこの高野山の位置は四国八十八箇所とのつながりを感じさせてくれる。もちろん弘法大師が四国・讃岐の出身というのもつながりを強調するだろう。
実際、弘法大師の母は慈尊院に来て、女人禁制の高野山には行けなかったため、この地にとどまったと。大師は九回母に会いに来ていて、そこから九度山の名前が出ていると。
中央構造線は、諏訪湖からスタートし、渥美半島から伊勢周辺を通過し、紀の川から吉野川、さらに佐田岬を経て、九州に至っている。
パワースポットと言う点でも一級である。
と、ここまで書いて思い出したのが、弘法大師が本四連絡橋を予言していたとされること。伝説ではあるが、伊予の殿様を化かしていたキツネを四国から追放した大師は、「将来、本州と四国がくろがね(鉄)の橋でつながったら、戻ってもいい」と約束したというのだ。
実際四国にはキツネはいないとか・・・それよりも平安時代初期に、鉄の橋で四国と本州がつながるなんてことを、ほんとに想像したとしたら、ものすごいことだ。
そんな大師なら、高野山が中央構造線沿いにあり、かつ唐で修行した長安の「青龍寺」と同緯度にあることくらいは容易にわかっていたはず。ちなみに空海の御生誕所とされる「善通寺」も同じ緯度になる。
こうしてみると、弘法大師はやはり千年に一人の天才であったというべきだろう。
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