投手の継投については、今でこそ「スターター(先発)」→「セットアッパー」→「クローザー」というメジャーリーグで主流の図式が日本でも定着している感があるが、私が現役の頃は「先発」→「リリーフ」というのが継投の基本であった。
リリーフが最後まで投げ切ることもあるし、また登板するタイミングも流動的でかなり早めのイニングから投げることもあった。
もちろん経験の浅い新人の頃から、勝っているゲームを引き継ぐことはしない。最初はいわゆる「敗戦処理」として経験を積まされる。もちろん投げる立場としては、「敗戦」が濃厚だからといって手を抜くことはしない。結果、負けであったとしても自分が登板して以降、追加点をゼロに押さえることができればそれは自分の評価となるからだ(勝ちには貢献しないが「防御率」という成績は残る)。
そして次の段階としては「近差で負けている」ゲームに登板のチャンスが与えられる。ふんばり、追加点を押さえかつ味方チームが逆転などに成功すればまたひとつ段階があがる。
いよいよ同点のゲームの1イニングのワンポイントなどとして起用されるようになる。「自分が押さえる」ことを信頼されているからだ。
そしてここまでの段階で結果をうまく残すことができなかった場合は、不運にも逆戻りし、極端な話「敗戦処理」からやり直すこともある。
そして「安定した結果を出せる」と評価が定まってから、いよいよ勝ちゲームの中継ぎとして登板のチャンスが与えられるようになるのである。
当時ほどではないが今でも「リリーフピッチャーのメンタリティーとはどういうものですか?」などと聞かれることがあるが、振り返ってみると私の場合、さほど気持ちの浮き沈みはなかったように思う。
特別、プレッシャーに感じることはなかった。「仕事の場」が与えられることに喜びを感じ、“押さえる”という役割を完遂しようと奮起していたと思う。もちろん危機感はあったが「仕事がある喜び」の方がうわまっていたと思う。
ただ、特別な緊張感があったシーズンもある。それは1985年で阪神のランディ・バース選手がホームランの快進撃を続けていたシーズンだ。外国人本塁打新記録を達成し、自分のチームの監督、王監督が持つシーズン最多本塁打数「55本」に迫った年である。
監督の記録を塗り替えられてはいけないという緊張感があった。シーズン序盤では対戦することもあったし、記録更新がかかる終盤でも対戦する可能性はあった。もちろん登板すれば押さえようと思った。
こういった緊張感はチームの勝敗からくる緊張感とは違うため、今でもそのシーズンのことは思い出すことができる。
結局のところ、左バッターであるバースに対する自分の登板はなく、私は事なきを得たのだ(バースも54本にとどまり記録の更新はなかった)。
もちろんバースに打たれ、記録更新なんてことになっていれば、私は歴史に名を残すピッチャーとなっているはずであり、それはそれでひとつの野球人生だったのだろう。