【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第6章)
第六章 愛の生活と信望愛
〈永遠の愛を信ずること〉
霊的幼児の道は本質的には愛の生活である。この愛の生活を確信をもって実行し、実り豊かなものにするために、まず必要なことは、永遠の愛を信ずることである。神の大きなみわざである創造、ご託身、救世、霊魂の成聖などにおける御愛を信ずるだけではなく、人類の歴史、個人の生活の喜び、苦しみにおいても、神の御愛の働きを認め、信ずることである。神が人々を懲らしめる時にも、その御愛は働き、輝いている。それらの懲罰は心を清めるために必要であり、霊魂と世界を救うために役だつのである。
─イエズス─「コンソラータ、私は犠牲となる霊魂が必要である。世界は破滅へ向かって進んでいる。しかも私は世界を救いたい。コンソラータ、悪魔は、ある日、あなたを破滅させようと誓った。だが私は、あなたを救おうと誓った。どちらが勝ったか?……悪魔はまた、世界を破滅させようと誓った。そこで私は世界を救おうと誓う。私は世界を、私の慈悲と愛との勝利によって救うだろう。そうだ、私は世界を、私の深い慈愛によって救う。……このことを書いておきなさい。」
全世界の苦難において神の御愛が働いているように、個人の困難にも絶えず神の御愛が働いている。ある日、コンソラータの幼友だちがやっと九才になるかならぬ子をかしらに四人の子どもを残して突然なくなった。コンソラータが悲しんでいると、イエズスは仰せられた。
「チェレステ・カンダは、今天国で永遠の至福を楽しんでいる。そして地上にいた時よりもはるかに優しく四人の子どもたちの霊魂を天からじっと見守っている。」
このことばは、愛する者をなくした家族にとって、なんという甘美な慰めであり、天上的な光だろう!
愛を信ずるとは、イエズスが、私たちを愛し、救いたいと望んで、全人類と、ひとりひとりの霊魂の世界になしたもうことはすべて私たちにとって最善のものであると信ずることである。しかし信者の間にすらこの愛に対する生き生きとした実践的な信仰を持つ霊魂は少ない。持ったところで、その信仰は弱く、神なる芸術家が御手のわざなる作品を完成されるために振るうのみの一打ち一打ちに震えて、成聖の道になかなか進まない。多くの霊魂は、神を優しい父と見るよりも、むしろ残酷な主人と見たがるものである。
このような霊魂のために、一九三五年十一月二二日イエズスは仰せられた。
「私をきびしい神と認めないで、愛の神とみなしてほしい。」
ゆえに愛の道を歩みたいと望む霊魂は、神があらゆることにおいて私たちを愛したもうという事実を堅く信じ、日常生活における無数の微細なことに、それを実行しなけれはならない。あらゆる人々と、できごとのうちに、神とその御愛を見、幸福の時も逆境の時も、平和の時も嵐の時も、不動の信仰をもって常に「イエズスの聖心よ、私はあなたの御愛を信じます!」と祈らなけれはならない。愛の使徒が言っていることは、全くそれである。「私たちは神の私たちに対する愛を知り、それを信じた。」(ヨハネ第一の手紙4-16)
〈永遠の愛に希望すること〉
私たちに対するイエズスの愛を信じ、ますますイエズスを愛することにより、霊魂は高められてもっと完全な希望に達する。聖トマスのいわゆる「愛の介在により希望はますます完全になる。」聖パウロの「愛はすべてを希望し」(第一コリント13-7)とはこの完全な希望を指している。愛と同じく希望は、どんなにあふれてもあふれすぎることなく、多けれは多いほどよいのである! この愛と希望は、罪のない者にも罪人にも、すべての人に必要であるが、ことに後者に必要である。イエズスの御あわれみは、すべての霊魂にかけられるが、特に主の御慈悲を最も必要とするところに、より多くそそがれるからである。
コンソラータの使命は、イエズスの聖心の無限の御あわれみを世に伝えることである。それをまず、コンソラータの霊的兄弟姉妹である、罰の暗やみに迷っている聖職者たちに伝え、それからすべての霊魂に伝えるのである。
コンソラータはイエズスの聖心に型どって、自分の心を練磨し、常にあわれな罪人に対して心から同情し、彼らをイエズスの聖心に呼びもどしたいと熱望していた。「時々、イエズスは聖心を打ち明けて、ある霊魂についての御嘆きをもらされます。私はその時イエズスを慰めて、あの霊魂はそんなにひどくありません、と弁解します。するとイエズスは晴れ晴れなさりご満足なさるのを心に感じます。そのあとで、その霊魂のために祈ります。イエズスの聖心は母の心のようです。ある母がむすこの忘恩的な行ないにすっかり悲しんでいるといたします。そのことを親友に打ち明け、親友のロからむすこさんはそれほど悪くないと慰められると、むすこはまだ善良なのだと考えて、どんなに喜ぶでしょう。母は親友のことはが信じたくて、それをささえとして、むすこを信ずるのです。イエズスの聖心の写しである母の心よ! その母にはむすこの心を変える力はありません。けれどもイエズスは、もし私たちがお願いしさえすれは、聖心にそむいた不忠実な霊魂を改心させるでしょう。」一九三五年十二月五日、コンソラータはこのように書いたが、二日後イエズスはご自身の心の愛から、この信仰的な考え方をコンソラータにお与えになった証明として、次のように文字どおり確証してくださった。
─イエズス─「実の母は、どんなにその子どもが醜くとも、醜いとは考えない。母の心にとって、その子は常に美しく感じられるものである。私が霊魂に対して感ずるのも、全くそれと同じで、どんなに醜く、汚れ、不潔であっても、私の愛はいつも美しいと感ずるのである。霊魂の醜さを確証されると私は苦しむが、一方だれかが、私の母のような心と同じく感じて、彼らを弁護し、その霊魂は醜くない、美しいのだと断言してくれると、非常に喜ぶのである。霊魂はみな私のものである。だから私は霊魂のために、私の血のすべてを流し尽くしたのだ!
実際にはそうであっても、あらゆるきびしい非難、罵倒、叱責が、どんなに母としての私の心を傷つけるか、一方寛大、同情、あわれみが、どんなに私の心を慰めるかを、今あなたは悟っただろうか? あなたは決して、一度も、だれをも、批判してはいけないし、まただれに対してもきびしいことばをかけてはいけない。その代わりに、私の心を慰め、私から悲しみを取り去って、熱心な愛によって罪人のよい面だけを私に見せなさい。私はあなたを信じよう。そして罪人のために祈るあなたの祈りを聞き入れよう。正義の罰を与えねはならぬ時、私がどんなにいやがっているかを、あなたが知ったら! 私の心は人々の忘恩を信じたくないと熱望しているから、あなたがある霊魂はそんなに悪くない。不忠実でない、忘恩でない、と信仰深く、愛深く私をだましてくれたら、すぐに信じる。そのようにして私の心は慰められたいと期待していることをよく覚えておきなさい。私の心は、罰ではなく、あわれみを与えたいと望んでいる!」
このような神の御ことばは新奇に思われ、驚異の念を起こすかもしれない。イエズスにとって霊魂が、罪に汚れているのに美しく見えるのは、もちろん罪のためでなく、その霊魂を創造し、罪をあがない、どうしても救いたいとの無限の愛のためである。またイエズスは、罪人によってだまされることは不可能だが、イエズスと罪人の間に仲介者としてよい霊魂がはいれば、そのよい霊魂の愛によってだまされることを、お喜びになる。そして償う愛により罪人を弁護し、仲介するそのよい霊魂は、十字架上で、天の御父と罪の渕に堕ちた人類の仲介者として、「父よ、彼らをゆるしたまえ。彼らは何をなしつつあるか知らないからであります。」(ルカ23-34)と仰せになったイエズスの模範に従わねばならない。
罪人に対する愛についてイエズスは仰せられた。「コンソラータ、私が常に人々に対して親切であわれみ深く、特に今生きているあわれな罪人に対して、山のような恵みを与えることを忘れてはいけない。」罪人に対してばかりではなく、あまり心配しすぎて、永遠の幸いに達し得られないのではないかと恐れている人にも、イエズスは希望をとりもどさせ、大きな慰めを与えるであろう。キリスト教的希望の欠如は霊魂にとって損害であることばかりではなく、あわれみに満ち、救霊を深く望んでおられるイエズスの聖心に対して非常な侮辱となる。だからコンソラータの心を去りたもう前晩(一九三五年十二月十五日)イエズスは、すべての霊魂のために、希望徳について次の美しい1ページを書かせたもうた。
「コンソラータ、善良で信心深い霊魂、あるいは私にささげられた霊魂すら『私は救われるでしょうか』という疑いのことばをもらして、私の心を底の底まで傷めることがしばしばある。聖福音を開き、私の約束を読みなさい。私は私の羊たちに約束した。『私は彼らに永遠の生命を与えるから、彼らは永遠に滅びることなく、また私の手から彼らを奪うものはないであろう。』(ヨハネ10-28)コンソラータ、わかりましたか? だれも私から一つの霊魂も取ることができないのだ! 次を読み続けなさい。『私の父が私に与えたもうたものは、すべてにまさってとうといものである。だれもそれを私の父の御手から奪うことはできない。』(ヨハネ10-9)
コンソラータ、わかりましたか?だれも私の手からひとつの霊魂も奪うことができない……永遠に至るまで彼らは滅びないであろう……なぜなら、私が彼らに永遠の生命を与えたからである。だれのために私はこれらのことを言ったのだろう? すべての羊のため、すべての霊魂のために! それなのになぜ『私は救われるでしょうか。』という侮辱的なことをいうのだろう。私は聖福音の中でだれも私からひとつの霊魂も奪うことができない。そして霊魂に永遠の生命を与え、霊魂は滅びることができない、と確証している。コンソラータ、私を信じなさい。地獄へは、ほんとうに行きたい者だけが行くのだ。なぜならだれも私からひとつの霊魂も奪うことができないが、私の与えた自由意志により、霊魂は私からのがれ、私にそむき、私を否定し、自分の自由意志のままにサタンのもとに行けるからである。
このような不信頼によって私の心を傷める代わりに、あなたたちはもう少し天国について考えなさい! 私はあなたたちを地獄へ行くため、悪魔の仲間に入れるために創ったのではなく、天国へ行くため、永遠の愛の中で私と一致して楽しむために創ったのである! わかりましたか?コンソラータ、地獄へは行きたい者だけが行くのだ……地獄へ行くのではないかとあなたたちが恐れるのはなんと愚かなことだろう。あなたたちの霊魂を救うために私の血を流し、全生涯ちゅう恵みにつぐ恵みを注いだのに……私のあがないの果実をとり入れようとするまさにその時 ── つまり霊魂が私を愛そうとしている時である臨終にあたって、最大の敵サタンが、私から霊魂を奪い去るのをどうして許せようか? 聖福音の中で、私が霊魂に永遠の生命を与え、だれも私の手から奪い去ることができぬと約束しているのに、どうして私があえてそんなことができようか? コンソラータ、どうしてそんなひどいことが信じられるのか?
わかりましたか? 最後の最後まで改心しないのは霊魂がわざわざ地獄へ行きたいと望み、どうしても私のあわれみを拒む場合だけだよ。私はどんな人でも決してゆるさぬことはないから! 私はすべての人々に無限のあわれみを贈る。私の血はすべての人々のために流されたのだから!
すべての人々のために! 霊魂を永遠の災いに堕すのは犯した罪の多いためではない。悔い改めさえすれば、私は何もかもゆるすのだから。むしろその霊魂が、どうしてもゆるしてもらいたくない、地獄へ行きたいと望むからだ!十字架上の盗賊聖ディスマスは、非常に多くの罪を犯したが、私に対してただ一度信頼の心を起こしたために、瞬間的にゆるされ、その改心したちょうどその日に、天国へはいり、聖人のひとりとなった! 私のあわれみと、私への信頼の勝利をこれによって悟ることができよう! コンソラータ、私にすべての霊魂を賜わった父なる神は、すべての悪魔よりもずっとずっと偉大で、全能である。私の父の御手から、だれも霊魂を奪い去ることはできない!
コンソラータ、私を信頼しなさい! いつも私を信頼しなさい! 私が必ず成し遂げることを盲目的に信じなさい。私は限りもなく優しく、あわれみに満ち、『悪人の死を望まず、かえってその罪人が改心して、生きることを望む』(エゼキエル33-11)のだから。」
コンソラータはイエズスのこの御招きに心から従い、全生涯のあらゆる困難、悪魔の攻撃にもかかわらず、この信頼を忠実に保った。「神に信頼すること!それのみが私に翼を与えます。恐れは私を凍らせ麻痺させて、あらゆる行動を封じます。・・」と自分の経験を言い表わしている。(一九三五年十一月三日)
一九三六年七月、初金曜の前夜の聖時間を守るため、聖堂にはいる前に入り口のところで、祈りの意向の札を一枚とった。
「私は聖櫃(せいひつ:注)のそばに近寄って読みました。『われらの主はあなたを愛し、惜しみなくご自分をお与えになったのに、あなたは心の全部ではなく、ある部分だけささげたいのですか?』聖時間の一時間は私にとってイエズスの臨終の御もだえのような時間になりました。神の御愛とその御示しを考えると、私はたまらなく恥ずかしくなりました。イエズスの聖心より雨と降りそそぐ賜ものと御愛は、重石のように私を圧倒しました。いいえ、それどころか! 神さえもこれ以上のことをなさることはできない──イエズスはこれ以上私を愛することはおできにならないのです。それなのに、私はといえば、それほどの御愛にどのようにおこたえしたでしょうか?……沈黙を守ることもたびたびできなかった私の不忠実さが極悪非道に思われてきました。いいえ、私は神をあますところなく愛していたのではありません。私は神にすべてをささげていたのではなく、もしささげたとしても、すぐにまた取りもどしておりました。わが神よ、なんという忘恩でしょう!……そのもだえの重みが私をおしつぶし、心の苛責で死なんばかりでした。そのひどい苦痛の中で私は限りなく慈悲深いイエズスの聖心に全く信頼して、自分の身をゆだねるほか、なにも残っていないと考えました…… イエズスはそれを待ち望んでいられたのでしょうか? 心に平和と愛がもどってまいりました」
コンソラータはこれに負けず劣らずの苦しい試練にもあわねばならなかった。それは「あわれな兄弟たち」が永遠の地獄におちないように、この地上で自分が彼らに代わって地獄の責苦を忍ぶことを誓ったためである。この英雄的な誓いは、神が強襲しようとしている打撃に備えてコンソラータを強めるために求めたもうたのだが、それを守りとおすことができた。
─イエズス─「完全な信頼によって神に光栄を与えなさい。あなたの霊魂がどんな状態におかれようとも、天国があなたのために開かれているという確信を失わぬ、と私に誓いなさい。」(一九三四年十月八日)
イエズスはまたたびたびコンソラータが煉獄を通らずにまっすぐ天国へ行くとはっきり約束された。
─イエズス─「心配しないで、コンソラータ、煉獄へは行かず、死んだへやからまっすぐ天国へ行くだろう。」(一九三五年九月十九日)それより以前、犯した罪のためにあんまり心配していると、仰せられた。「よく聞きなさい、コンソラータ。よい盗賊が自分の罪に加えて、あなたの罪も全部犯したとしても、はたして私が他の判決をしただろうか?」「いいえ、イエズス、あなたはやっぱり『きょうあなたは私と共に天国にあるであろう』(ルカ23-43)
と仰せになったでしょう!」「では、いつか私はそれと同じことばをあなたに向かっていうであろう。」
〈永遠の愛に信頼すること〉
信頼はキリスト教的希望徳の花である。聖トマスによれば、信頼の徳は、希望徳をある程度前提としている。希望徳によって人は永遠の生命と、それをうるに必要な恩恵を神の約束によって、受けることを希望し、信頼の徳によって喜んで天国という故郷に向かって努力し、成聖への道を飛ぶように早く進むのである。
愛と信頼とは両翼となって霊魂を最も大胆に飛翔させ、飛翔ごとに勝利をおさめ、ますます高く、より高く昇らせるのである。信頼が弱まれば愛もまた衰え、霊魂はただ、のろのろと足を引きずって進むほかない。事実信頼の不足は、自己心の次に、霊魂の中で神が御働きになるのに最大の障害となる。多くの場合、自分にあまり頼みすぎるために、神に信頼しないのである。だからよいことをしようとして自分の力だけではできないことがわかると、自分の無能さに心を乱して、非常に悲しむのである。ちょうどその反対に、自分により頼まぬ者は幼児のようである。幼児が母にささえられる権利をもっているのは、幼児が弱いからであるが、幼児のように弱い霊魂をもっている者こそ、神の全能に信頼する権利をもっている。私たちが数えきれぬほど多くの弱点をもっている時、イエズスの聖心は自然に引き寄せられるのである。だから聖人になるために多くの罪や欠点を利用し、罪を犯すたびに痛悔すると同時に、ますます信頼を強めてゆかなければならない。
一九三五年九月十七日コンソラータはイエズスと親しく会話した。
「私のイエズス、あなたが私の哀れな霊魂に語りかけ、畏れおおいことに、いろいろ教えてくださるということは、ほんとうに何にもまさる喜びの筈です。それなのに私はあまりに貧しいものであることを苦にして、ほとんどものもいえずに気兼ねをしておりました。あなたの神としての御目をひきつけるものは、私には何もありません。それを知りすぎるほど知っておりますから、心の中で、ひどい思い違いをしているのではないか、という疑いがおきます。イエズス、どうぞ私をゆるしてください。はい、私は必ず、あなたが限りなく慈悲深いことを信じます!」
─イエズス─「コンソラータ、考えてごらん。あなたの貧しさには限りがあるが、私の愛には限りがない!」
二日後の一九三五年九月十九日、
「イエズス、あなたが純白で汚れない白百合の花をお愛しになることは信じられます。けれども私のようなものをお愛しになれるとは……どうしてもわかりません!」
─イエズス─「私が、正しい者ではなく、罪人を招くために来たことを思い出せば、すぐにわかるだろう? コンソラータ。」(マタイ9-13)
コンソラータは書いている。「ある晩、私は心細くなって聖ひつの前ですすり泣いていました。『イエズスよ、私はいつも同じです。お約束しては、すぐにまた……』 その時イエズスはお答えになりました。『私もまたいつも同じで変わらない。』 そのご声音は、私の心細さを喜びに変えるに十分でした。もしイエズスさえお悲しみにならないな
ら、なぜ私がそんなに悲しむことがありましょう?」
イエズスは、コンソラータが自分の犯した罪についてくよくよすることを一度もゆるさなかった。
─イエズス─「もしなにか罪を犯したら、くよくよと悲しまずに、急いで来て、その罪をみな私の心の中に入れなさい。それからその罪の反対の善徳を実行する決心を強めなさい。しかし落ち着いて静かにやりなさい。そうすれはあなたの罪のひとつひとつは、すべて、進歩への一歩一歩となるだろう。」(一九三五年十一月二日)
落ち着いて静かにと…… なぜならずるい悪魔は巧みな計画によって働いているので、もし彼が霊魂の中に不信頼の毒を注射できれば、その結果は自然に悪くなるからである。まず霊魂は不安になるが、それが霊魂にとって致命的となる。イエズスは注意を与えられた。
「平和な霊魂は新鮮で純粋透明な水が絶えずわき出る泉のようなもので、私はほしい時に、いつでもその泉で渇きをいやすことができる。だが、もし霊魂に不安がはいれば、ちょうど棒で水底の泥をかき回したようになって、そこから私は飲むことができなくなる。」
「悪魔は水を濁らして魚をとる」という諺があるが、霊魂の濁った状態こそ、悪魔が邪悪な陰謀を働かすのに最も適するのである。だからイエズスは次のように注意された。「決して不安に思ってはいけない。決して、ほんとに決して! あなたが不安になれは悪魔が満足し、その勝利は確実となる。」(一九三六年九月二四日)
不安にならないとは信頼を失わぬことである。いったん不安になると必ず落胆し、落胆すれば、戦いをやめ、進歩する代わりに退歩する。得るものは何もなく失うものばかり、少なくとも時を損失する。コンソラータは書いている。「登山者がほんのちょっとすべったくらいで、がっかりし、登るのをやめて、もう頂上を見上げることすらしなくなるなら、なんと愚かなことでしょう。賢明な登山者は、すべるたびごとにすぐに起き上がり、時を少しも損失しない堅い決心をし、少しも不安にならずに、信頼しながらまた登り始めるでしょう。またすべってもすはやく起き上がり、どんどん前進するでしょう。
善意の霊魂は次のイエズスの教えをよく黙想するでしょう。
「コンソラータ、次の二つの霊魂のうち、どちらがより完全だろうか。一方の霊魂は私に向かっていつも〝自分は不完全です〟と嘆き声をあげるばかりで、重ねてあやまちばかり犯し、決心したことも忠実に守らない。もう一方の霊魂は私に嘆き声を聞かせる代わりにほほえみかけ、できる限りの力をあげて、いつも私を愛し続けることに没頭しているので、自分の意志から犯したのでない欠点をくよくよ考えて時間を損失することがない。どう思うか言ってごらん。」
私は二番日の霊魂のほうが好きだと申し上げました。
「だから、できるだけのカを尽くして私を愛しなさい。もし私にちょっとそむいたことに気がついたら、もっと熱心に愛の心を起こし、また新たに愛の歌を始めなさい。私は虐待者ではない。イエズスはたったひとつの愛の心に対して罪悪に満ちた全生涯をもゆるすのだから、あなたがたった一日自分の意志でなく無益な思いに浸ったからといって、どうして気がついて問題にしよう? だから繰り返し『イエズスよ、私の悪かったことをごらんください。私はなんと不忠実だったのでしょう。』などと私に嘆くことはむだで、時の損失だよ。それと正反対に、もっと深い熱心なひとつの愛の心を起こせば、あなたの霊魂は恵みに満され、私の心を喜ばせる! わかりましたか?……自分の意志でない欠点に目をそそぐのはやめなさい……」
無限に慈悲深いイエズスの聖心は愛と恵みと親しさを常に霊魂へ注ぎたもうので、何度失敗しても、決して落胆してはならない。
─イエズス─「コンソラータ、私の心は、あなたがたの徳よりも、弱さ、みじめさに負けてすぐに引き寄せられる!神殿から出て来た二人の中、どちらがゆるされたか? 収税人だったね。(ルカ18-10) 謙遜で罪を深く悔いている霊魂を見ると、私はすぐに負けてしまう。……私はいつもそうだ。よく覚えておきなさい。私はあなたを愛している。愚にいたるまで……いつも愛し続けるだろう。あなたが自分の意志でなくあやまちを犯しても。だからあなたのあやまちのために私が約束を守らないだろうと、決して、決して、決して、少しでも疑ってはならない。一度もそうしないね! コンソラータ。もしあなたが疑えば、私の心を深く傷つけるのだよ! 私だけがあなたの弱さを底の底まで知り、私だけが人間性のもろさを、そっくりそのまま知っている。コンソラータ、あなたは、決して、決して、決して、私が約束を守るかどうかと疑う罪を犯してはならない! 私に約束してほしい、そんな侮辱を決して私に与えてはならない。そんなことをすれは私をひどく苦しめるだろう!」
コンソラータはその時、成聖の道に進んでいて、自分の意志でなく罪を犯すよりも死んだほうがいいと考えていた。イエズスのこの御ことばは、コンソラータのような聖なる霊魂ばかりでなく、すべての霊魂に向かって語りかけておられる。改心したばかりで猛烈な戦いに直面している霊魂にも、また相当完徳の道に進歩し、長い間神の御助力で罪を遠ざけることができたので安心していたのに、み摂理によって突然悪魔の猛烈な攻撃にあって罪を犯し、あらためて人間の弱さを感じている霊魂にも。
─イエズス─「コンソラータ、見てごらん。悪魔はあなたの盲目的な信頼を揺り動かそうとあらゆる努力をするだろう。でもあなたは、私が限りなく優しく、慈悲深くて、そうでないようにすることが全然できないことを、決して忘れてはいけない。コンソラータ、私の心の中にはいってきて、私の心を、私の愛を、わかっておくれ。不信頼によって一瞬でも悪魔が入り込むすきを与えてはいけない。決して!私はほんとにいつもあなたのためにおかあさんなのだよ。指にほんの少しかすり傷を受けるたびに、すぐおかあさんの所へとんで行き、ほうたいをしてもらう小さな子のまねをしなさい。ちょうどおかあさんがほんとうの傷でも、また想像によって、傷のように思えるのでも、いつも指にほうたいをしてあげるように、私もあなたの欠点をいつも直してあげることをよく覚えなさい。
もし子どもがほんとうに腕なり頭なりに大けがをすれは、母はどんなに優しく、愛情深く、心配しながら、ほうたいしてやることだろう! そうです。私は黙っていても、転んだ時には同じことを霊魂にしてあげるのだよ。いいですか。コンソラータ? だから、決して、決して、決して疑いの影さえもってはいけない! 信頼の足りないことが一番私の心を傷つけ、苦しめる!」
しかし、イエズスは、コンソラータが大罪に陥らぬよう助けてくださると約束したもうたので、コンソラータは慰められた。
─イエズス─「いいえ、コンソラータ、あなたの腕や頭が大けがを受けることはさせない。だが、私が今話していることが、いつか他の霊魂に役だつことを知らねばならぬ。そのために、私はこれをみな書きとめておいてほしいのだ。」
だれでも欠点や不完全さをもっている。コンソラータももっていた。その欠点は人目につきやすいものだったが、コンソラータは隠そうとせず、かえって人目につくことを喜んだ。それは憤慨することだった。コンソラータは性急で激しい性質なので、「雷様」というあだ名をもらっていた。規則を守ろうとする熱心のあまり、時々心の中で、自分の意志でなく感情が激してきて、衝動的に憤慨の声が洩れても、どうしてそんなわずかなことが神の前に罪となりえようか。一日のうち、十回も二十回もその衝動を抑えるため、英雄的に戦わねばならなかった。それでも思わず知らず声が洩れると、そのたびに、すぐ痛悔して神にお詫びし、その欠点を直す誠実な決心をした。
そのうえ、この外部的欠点は、神がある霊魂に与えたもう賜ものと働きとを人の目から隠すため、霊魂の上にかけるベールのようなものだった。
「神は愛したもう者を至福に導くために、神の目には罪でないが、世の人々の目には批評と非難の材料になるものを彼らに与えたもう。」(ノリッジの聖ユリアナ) コンソラータの場合がちょうどそれだった。修道院で目だたないようにお願いしたら、イエズスは約束された。
「よろしい。私はあなたを全く隠そう。あなたに多くの悲しみと恥を与えよう!」
その恥とはなんであっただろうか? コンソラータは人々の目に欠点に満ちている者とはっきり映ったばかりではなく、自分の目にすら、それがはっきりわかった。そこに屈辱そのものがあった。
* * *
イエズスは仰せられた。
「あなたは決して転ばず、常に忠実で完全であるよう私がはからうと約束してもらいたいの? それはとてもだめだよ。コンソラータ、私はあなたにうそをいうことはできない。あなたは罪を犯し、不忠実で不完全なことをするだろう。それらは謙遜の源となり、あなたの進歩を助けるだろう。」
神のお恵みを楽しむ時、信頼を保つのはやさしいが、霊的暗やみを歩く時、そうはゆかない。その危険に備えて、イエズスは警告された。
「あのね、コンソラータ、きょう、あなたの霊魂の空は、自然の空のように晴れて、ばら色、水色に輝いている。だがまもなく愛と信頼に満ちた美しい空は、底しれない暗黒に閉ざされるだろう。コンソラータ、勇気を出しなさい!その時こそは実りの多い試みの日だ! 実際に神に愛と信頼を証明する時だ。信頼しなさい。いつもイエズスに信頼しなさい!それがどんなに私を喜ばせるかを知ったら!死の暗やみの中でさえ、あなたは常に信頼して私を慰めてくれないか。どんな暗やみに取り囲まれても『イエズス、あなたを信頼いたします!』という声でいつも私を喜ばせてはくれまいか。」(一九三五年十一月二七日)
一九三四年八月十四日、聖母被昇天祭の前日、コンソラータは、次の信頼の誓約を自分の血で書いて、天の御母の手に託した。
「私のおかあさま、あなたの御手に神に対する私の誓いを託します。善なる神よ、私の霊魂がたとえどんな状態におかれようとも、私は常に主の御慈悲と御あわれみに信頼し、主が私に約束されたことを信じます。甘美なる聖母、あなたの御助けをかり、神の全能の力によって、私は待ち望み、信頼し、信ずることを決心いたします。私のイエズスよ、あなたを愛し、あなたに信頼します!」
信頼するということばはコンソラータの書いたものの中に繰り返し見いだされる。そのことばをちょうど印鑑のように、あらゆる決心、罪を犯したのちのあらゆる再出発、完徳をめざすあらゆる新しい努力に、必ず押した。このように大きい信頼によって、イエズスの聖心が征服されたのも不思議ではない。神の賜もの、イエズスとコンソラータとの大きな約束は、すべてその信頼の結実であり、報いだった。コンソラータは信頼をもって信じた。その信仰により、犯した罪の山をくずしたばかりではなく、神の全能の力を人々に与えさせたのである。
─イエズス─「何が私をあなたの霊魂にひきつけるかわかるだろうか。それはあなたが私に対してもっている盲目的な信頼だ。」(一九三五年八月六日)
─イエズス─「あなたの盲目的な、子どものような無限の信頼は、たいへん私を喜ばせる。私があふれる愛と優しさであなたに身をかがめるのはそのためだよ。」(一九三五年十月二十日)
この信頼のために、イエズスはコンソラータの中に次から次へ驚くべきことを成し遂げられた。
─イエズス─「コンソラータ、私はあなたの中に驚くべきことを果たす。あなたの信頼は無限だから。あなたはイエズスを信じ、イエズスの慈悲深い聖心を信じている。信ずる者にはできないことがない!(マルコ9-22)」(一九三五年十月八日)
この信頼のためにイエズスはコンソラータを成聖の高みへまで引き上げ、使徒として世界につかわしたもうたばかりでなく、使徒職に励む霊魂の使徒とされた。
─イエズス─「コンソラータ、私はあなたを使徒たちの使徒としよう。」(一九三五年十月二二日)
─イエズス─「人々にどれほど神に信頼すべきかを告げるため、ひとりの幼児を使徒たちの使徒として召し出した神は、その幼児を信頼の使徒とした。またその幼児が、あらゆる試練に耐え、目的地に凱旋できるように剛毅の精神を与えた。」(一九三五年十二月十日)
─イエズス─「コンソラータ何も恐れてはいけない! あなたが決勝点へ向かってすばらしい早さで飛翔するのをだれも止めることができない。私があなたといっしょにいるから。だからあなたは盲目的に完全に私に信頼しなさい。私はそれを喜ぶ。私があなたを材料としてどれほどの成聖を創りうるか、今にわかるだろう!
何も、そしてだれも恐れてはならない! 神があなたといっしょにいるのだから! 神はあなたのことをいつも配慮し、神の目のひとみのようにあなたを守っている。私はこれをあなたに誓う。あなたは完全にイエズスの計画どおりにするだろう。聖福音のいうとおり、生ける水の川が彼のふところから流れ出るであろう。(ヨハネ7-38)イエズスに信頼しなさい! いつも! それがどんなに私を喜ばせるかをあなたが知りさえしたら! 死の影の中でさえ、私に信頼して私を慰めてくれないか。決して何ものも恐れてはいけない! 完全にいつもイエズスにのみより頼みなさい! 暗やみがあなたの霊魂を取り囲もうとも、その時こそ、より熱心に『イエズス、私はもうあなたが見えず御声も聞けません。けれども、あなたに信頼いたします!』と繰り返しなさい。どんな試練にあってもそうしなさい!
コンソラータ、あなたの信頼は大きなものだ。だが試練の日には、その信頼を英雄的にしなさい!」(一九三五年十一月三日)
一九四二年の黙想会の間(その時もうカルワリオに登りつつあったが)次のように書いた。
「私の霊魂よ、きょうは倦まず戦い、召された完全さに達し、決心に忠実であったと神のみ前に言えますか。……神よ、どんなに恥ずかしく心がひるむことでしょう! しかし私のイエズスよ、私は疑うことも、落胆することもしません。かえってお助けによって、今すぐ立ち上がり、屈せずに戦い、臨終の時、聖パウロのように『私はよい戦いを戦い、走るべき道のりを走り尽くし、信仰を守った!』(第1テモテ4-7)といえることを望みます。毎日朝から晩まで、絶え間のない熱烈な、不撓不屈の戦闘が待っていることを知っています。心とことばを清く保つための考えとの戦いです。絶え間のない愛の心をイエズスにささげ、すべての中にイエズスを見、あらゆる神の要求に対してすぐ「はい」といって骨身を惜しまぬための戦いが、私の全精力をあげての崇高な努力を要求していることを私は知っております。またイエズスへの愛の飛翔を妨げ、止めようと悪魔があらゆる機会を利用していることも知っております。
それで自分自身に対し、また人々と悪魔に対して断固たる決戦が始まります。私のイエズスよ、私はあなたに定められた時よりも一分でも早く、また私の罪により一分でもおそく天国にはいりたいと望みません。『イエズスがもし私の味方ならば、だれが私に反対することができましょうか?』(ローマ8-31参照)
私のイエズスよ、今の瞬間から最後の瞬間まで、私の中に無益な考えや疑い、不安、落胆がひとつでも入り込むことを絶対許しません。イエズス、起きるとすぐに愛の心を起こし、あらゆる敵の攻撃にも負けず、夜寝る時までその愛の心を続けることを決心します。イエズス、あなたのお助けにより、常にあなたを見、あなたと話し、すベてにおいてあなたに奉仕する決心です! イエズス、あなたの直接間接のあらゆる要求に「はい」と答え、あらゆる犠牲と隣人愛の行ないを喜んで微笑しながら果たす決心です。
イエズス、今の各瞬間を、あなたのみ旨に完全に自己献身し、あなたと霊魂のために、愛に生きることを決心します!イエズス、お恵みによって、どんな状態でも常に平安に生き、常にほほえむことを決心します! イエズス、お助けにより、私は決してひき返しません! 前進します。前進する以上はどうして足をひきずってのろのろ進んだり、悪魔に笑われる落胆や不信頼のため休んだりできましょう?いいえ、絶対に一度でも! たとえ傷つこうとも常に前進することを決心します! 途中で転んだならば、たとえ千度目であろうと、一日の最後の瞬間であろうと、お助けによりすぐ起き上がり、何も起こらなかったように又愛の歌をうたい始めることを決心します。大好きなイエズス、どうぞこの決心を祝福し、保たせてください!」
コンソラータのこれほど大きい信頼の動機は、神の全能を深く経験したことである。
「ある日、ご聖体の前にひざまずいて信心書を開きますと『私はあなたの全能を信じます。』ということばが強く心を打ちました。神の全能! 私のひどい弱さ貧しさにもかかわらず、神は私から聖人を創り出すことができるのです。神の光により、新たに強い希望と確信がわいてくるのを感じました。神に信頼すること! 神はなんでもおできになるから、私の無限に大きい望みをかなえることができるはずです!イエズス、あなたの全能のおカにより、この瞬間からどんなことでも喜んですぐにします。全能によって、この奇跡的な変化が起こり、私の本来の弱さの代わりに、神の強さがおき代えられました!」
大きな望みとはなんであっただろうか? 心の中で燃やし続けた神への信頼はついに極致に達し、どんなことがあっても、神を愛し、苦しみ、多くの霊魂を救いたいと果てしなく望むようになった。そしてその望みが、神の約束どおり、かなえられるとの信仰も極点に達するのである。その熱烈な愛すべき信頼によって、イエズスはたびたび次の約束をされた。
「コンソラータ、あなたは教会内の『信頼』のかたどりとなるだろう。」
〈永遠の愛を愛すること〉
愛の生活に進歩したいと望む霊魂は、徹底的にひとつのことを確信せねばならぬ。それはあわれな被造物である私たちから、イエズスが愛のほか、何も求めたまわぬことである。すべてのものは、イエズスの創りたもうたイエズスの所有物であるから、私たちが神に最も大きなもの──生命さえもささげたとしても、それはすでにイエズスのものであって、私たちが、ささげないでも、イエズスは私たちから自由に生命を取り上げることもおできになるのである。
しかし愛については違う。愛は人の自由にかかっているので、人は神を愛することを自由に拒むことができる。だが神は、愛を望み、愛を要求したもう。──それこそ人間を創造した目的だから。神は第一のおきてとして「神を愛せよ」と定め、このおきてを守らねば永遠の生命を得られないとした。神は人の心の愛を全部望んでおられる。──心を尽くし、霊魂を尽くし、精神を尽くし、全力を尽くして愛されたいと。そしてこの愛をうるため、神は天から降って人となりたまい、そればかりではなく、乞食のように、被造物の足もとに「私に飲ませてくれないか。」と請いたまい、遂には十字架の上でさらしものとなり、血の御声をふりしぼって「私は渇く!」とお望みになられた。
愛を求める神のこの叫びは、聖書を通して二十世紀間響き続け、聖マルガリタ・アラコックの聖心の啓示に至ってますます強く訴えかけ、更に最近小さき花の聖テレジア、コンソラータに対する示現を通して、いよいよ熱を帯びてきた。
神との一致を熱望しながら、困難な道にさまよい、休息もせず飢えかわいている者がどんなに多いだろう。彼らのすぐ目前に、まっすぐでやさしく安全な道があるのに。──それは愛の道である! コンソラータは最も規則のきびしい観想修道会にはいっていたが、イエズスはコンソラータに、ただ愛のほか何も求めなかった。イエズスのお示しがいっぱいしるしてあるコンソラータの日記には、「私のみを愛しなさい。」「常に私を愛しなさい。」「私を深く愛しなさい。」「私はあなたから愛のみを求めています。」などのことばが数百回繰り返されているのが見られる。それは創造主が被造物の愛を渇望したもう、絶え間なき、熱烈で、感動的なお招きである。その愛を、神は大部分の人々、神に全く身をささげた多くの人々からさえ、完全にはお受けになれず、聖心の渇望をよく理解し、それにこたえる小さい霊魂の間を請い歩いて、その愛を求めておられるのである。
─イエズス─「私は無邪気な幼児の心、愛を全部与えてくれる霊魂によって愛されたい。」(一九三五年十月十五日)
全世界が愛の火に燃えるように、この小さい霊魂を通してイエズスは愛を求めたもう。
─イエズス─「コンソラータ、全世界のあらゆる霊魂のために、彼らに代わって私を愛しなさい。私は愛に飢えかわいている。非常に!」(一九三五年十月十三日)
─イエズス─「コンソラータ、私を愛して! 私はかわく人が新鮮な水のわき出る泉を恋い慕うように、あなたの愛に飢えかわいている。」(一九三五年十一月九日)
─イエズス─「コンソラータ、これを書きとめなさい。あなたが一度でも愛の心を起こしてくれたら、私は天国を創造するだろう。」(一九三五年十一月三日)
─イエズス─「コンソラータ、あなたが絶えず私を愛してくれる時、私はあなたの心の中で天国を楽しむことができる!」(一九三五年十一月九日)
─イエズス─「コンソラータ、あわれな罪深い人類のために、あなたがゆるしを願いなさい。そして私の愛の勝利を願いなさい。新しい聖霊降臨において、燃えさかる神の愛の火が、人類の多くの罪を清めるよう願いなさい!神の愛のみが、背教者を使徒に、汚れた百合を潔白無垢に、敵意に燃えて反逆する罪人を、愛の獲物に変化することができる!あなたのため、また今、地上にあるものと、世の終わりまで存在するすべての霧魂のために、私の愛の勝利を願いなさい。あなたの絶え間ない祈りによって、私の聖心と愛が、全世界に勝利を占めるよう、準備しなさい。」(一九三五年十二月十六日)
多くの信者は、愛の生活のために創造されていながら、神の愛が世界を革新するよう、絶え間なく愛し、祈ってほしいとのイエズスの渇望を知らず、また知っていても無視して、神のことも神の愛も忘れて、暮らしている。だからイエズスは仰せられた。(一九三五年十一月二七日)
「コンソラータ、小さい霊魂にも、すべての人々にも、私の、ことばに言い表わせぬ愛のへりくだりについて語りなさい! どんなに私が優しく、母らしく、またどんなに人々
からただ愛のほか、何も望まぬか、私の愛にこたえてほしいと渇望しているかを伝えなさい。あなたは、私の限りなく大きいあわれみ、母らしい愛のへりくだりを、世界の人々に伝えるために召されている。」
イエズスは全世界を救いたいと切願したもう。世界は改心してイエズスに立ち帰らねはならぬ。イエズスのあるところに秩序の静けさなる平和があり、イエズスなくしては無政府状態と荒廃があるのみ。それでは、どのようにして世界の人々はイエズスに立ち帰るのだろうか?各人にとっても各国にとっても道はただひとつ、神と隣人を愛することのみ。愛は律法のすべてであり、キリスト教のすべてである。
(注)聖櫃(せいひつ):聖体の安置を唯一の目的とした箱状の容器。聖櫃は常に中央祭壇
または脇祭壇に固定した堅牢なものでなくてはならず、常に教会堂内のすぐれた位置
に設置しなければならない。(現代カトリック事典)
〈永遠の愛を信ずること〉
霊的幼児の道は本質的には愛の生活である。この愛の生活を確信をもって実行し、実り豊かなものにするために、まず必要なことは、永遠の愛を信ずることである。神の大きなみわざである創造、ご託身、救世、霊魂の成聖などにおける御愛を信ずるだけではなく、人類の歴史、個人の生活の喜び、苦しみにおいても、神の御愛の働きを認め、信ずることである。神が人々を懲らしめる時にも、その御愛は働き、輝いている。それらの懲罰は心を清めるために必要であり、霊魂と世界を救うために役だつのである。
─イエズス─「コンソラータ、私は犠牲となる霊魂が必要である。世界は破滅へ向かって進んでいる。しかも私は世界を救いたい。コンソラータ、悪魔は、ある日、あなたを破滅させようと誓った。だが私は、あなたを救おうと誓った。どちらが勝ったか?……悪魔はまた、世界を破滅させようと誓った。そこで私は世界を救おうと誓う。私は世界を、私の慈悲と愛との勝利によって救うだろう。そうだ、私は世界を、私の深い慈愛によって救う。……このことを書いておきなさい。」
全世界の苦難において神の御愛が働いているように、個人の困難にも絶えず神の御愛が働いている。ある日、コンソラータの幼友だちがやっと九才になるかならぬ子をかしらに四人の子どもを残して突然なくなった。コンソラータが悲しんでいると、イエズスは仰せられた。
「チェレステ・カンダは、今天国で永遠の至福を楽しんでいる。そして地上にいた時よりもはるかに優しく四人の子どもたちの霊魂を天からじっと見守っている。」
このことばは、愛する者をなくした家族にとって、なんという甘美な慰めであり、天上的な光だろう!
愛を信ずるとは、イエズスが、私たちを愛し、救いたいと望んで、全人類と、ひとりひとりの霊魂の世界になしたもうことはすべて私たちにとって最善のものであると信ずることである。しかし信者の間にすらこの愛に対する生き生きとした実践的な信仰を持つ霊魂は少ない。持ったところで、その信仰は弱く、神なる芸術家が御手のわざなる作品を完成されるために振るうのみの一打ち一打ちに震えて、成聖の道になかなか進まない。多くの霊魂は、神を優しい父と見るよりも、むしろ残酷な主人と見たがるものである。
このような霊魂のために、一九三五年十一月二二日イエズスは仰せられた。
「私をきびしい神と認めないで、愛の神とみなしてほしい。」
ゆえに愛の道を歩みたいと望む霊魂は、神があらゆることにおいて私たちを愛したもうという事実を堅く信じ、日常生活における無数の微細なことに、それを実行しなけれはならない。あらゆる人々と、できごとのうちに、神とその御愛を見、幸福の時も逆境の時も、平和の時も嵐の時も、不動の信仰をもって常に「イエズスの聖心よ、私はあなたの御愛を信じます!」と祈らなけれはならない。愛の使徒が言っていることは、全くそれである。「私たちは神の私たちに対する愛を知り、それを信じた。」(ヨハネ第一の手紙4-16)
〈永遠の愛に希望すること〉
私たちに対するイエズスの愛を信じ、ますますイエズスを愛することにより、霊魂は高められてもっと完全な希望に達する。聖トマスのいわゆる「愛の介在により希望はますます完全になる。」聖パウロの「愛はすべてを希望し」(第一コリント13-7)とはこの完全な希望を指している。愛と同じく希望は、どんなにあふれてもあふれすぎることなく、多けれは多いほどよいのである! この愛と希望は、罪のない者にも罪人にも、すべての人に必要であるが、ことに後者に必要である。イエズスの御あわれみは、すべての霊魂にかけられるが、特に主の御慈悲を最も必要とするところに、より多くそそがれるからである。
コンソラータの使命は、イエズスの聖心の無限の御あわれみを世に伝えることである。それをまず、コンソラータの霊的兄弟姉妹である、罰の暗やみに迷っている聖職者たちに伝え、それからすべての霊魂に伝えるのである。
コンソラータはイエズスの聖心に型どって、自分の心を練磨し、常にあわれな罪人に対して心から同情し、彼らをイエズスの聖心に呼びもどしたいと熱望していた。「時々、イエズスは聖心を打ち明けて、ある霊魂についての御嘆きをもらされます。私はその時イエズスを慰めて、あの霊魂はそんなにひどくありません、と弁解します。するとイエズスは晴れ晴れなさりご満足なさるのを心に感じます。そのあとで、その霊魂のために祈ります。イエズスの聖心は母の心のようです。ある母がむすこの忘恩的な行ないにすっかり悲しんでいるといたします。そのことを親友に打ち明け、親友のロからむすこさんはそれほど悪くないと慰められると、むすこはまだ善良なのだと考えて、どんなに喜ぶでしょう。母は親友のことはが信じたくて、それをささえとして、むすこを信ずるのです。イエズスの聖心の写しである母の心よ! その母にはむすこの心を変える力はありません。けれどもイエズスは、もし私たちがお願いしさえすれは、聖心にそむいた不忠実な霊魂を改心させるでしょう。」一九三五年十二月五日、コンソラータはこのように書いたが、二日後イエズスはご自身の心の愛から、この信仰的な考え方をコンソラータにお与えになった証明として、次のように文字どおり確証してくださった。
─イエズス─「実の母は、どんなにその子どもが醜くとも、醜いとは考えない。母の心にとって、その子は常に美しく感じられるものである。私が霊魂に対して感ずるのも、全くそれと同じで、どんなに醜く、汚れ、不潔であっても、私の愛はいつも美しいと感ずるのである。霊魂の醜さを確証されると私は苦しむが、一方だれかが、私の母のような心と同じく感じて、彼らを弁護し、その霊魂は醜くない、美しいのだと断言してくれると、非常に喜ぶのである。霊魂はみな私のものである。だから私は霊魂のために、私の血のすべてを流し尽くしたのだ!
実際にはそうであっても、あらゆるきびしい非難、罵倒、叱責が、どんなに母としての私の心を傷つけるか、一方寛大、同情、あわれみが、どんなに私の心を慰めるかを、今あなたは悟っただろうか? あなたは決して、一度も、だれをも、批判してはいけないし、まただれに対してもきびしいことばをかけてはいけない。その代わりに、私の心を慰め、私から悲しみを取り去って、熱心な愛によって罪人のよい面だけを私に見せなさい。私はあなたを信じよう。そして罪人のために祈るあなたの祈りを聞き入れよう。正義の罰を与えねはならぬ時、私がどんなにいやがっているかを、あなたが知ったら! 私の心は人々の忘恩を信じたくないと熱望しているから、あなたがある霊魂はそんなに悪くない。不忠実でない、忘恩でない、と信仰深く、愛深く私をだましてくれたら、すぐに信じる。そのようにして私の心は慰められたいと期待していることをよく覚えておきなさい。私の心は、罰ではなく、あわれみを与えたいと望んでいる!」
このような神の御ことばは新奇に思われ、驚異の念を起こすかもしれない。イエズスにとって霊魂が、罪に汚れているのに美しく見えるのは、もちろん罪のためでなく、その霊魂を創造し、罪をあがない、どうしても救いたいとの無限の愛のためである。またイエズスは、罪人によってだまされることは不可能だが、イエズスと罪人の間に仲介者としてよい霊魂がはいれば、そのよい霊魂の愛によってだまされることを、お喜びになる。そして償う愛により罪人を弁護し、仲介するそのよい霊魂は、十字架上で、天の御父と罪の渕に堕ちた人類の仲介者として、「父よ、彼らをゆるしたまえ。彼らは何をなしつつあるか知らないからであります。」(ルカ23-34)と仰せになったイエズスの模範に従わねばならない。
罪人に対する愛についてイエズスは仰せられた。「コンソラータ、私が常に人々に対して親切であわれみ深く、特に今生きているあわれな罪人に対して、山のような恵みを与えることを忘れてはいけない。」罪人に対してばかりではなく、あまり心配しすぎて、永遠の幸いに達し得られないのではないかと恐れている人にも、イエズスは希望をとりもどさせ、大きな慰めを与えるであろう。キリスト教的希望の欠如は霊魂にとって損害であることばかりではなく、あわれみに満ち、救霊を深く望んでおられるイエズスの聖心に対して非常な侮辱となる。だからコンソラータの心を去りたもう前晩(一九三五年十二月十五日)イエズスは、すべての霊魂のために、希望徳について次の美しい1ページを書かせたもうた。
「コンソラータ、善良で信心深い霊魂、あるいは私にささげられた霊魂すら『私は救われるでしょうか』という疑いのことばをもらして、私の心を底の底まで傷めることがしばしばある。聖福音を開き、私の約束を読みなさい。私は私の羊たちに約束した。『私は彼らに永遠の生命を与えるから、彼らは永遠に滅びることなく、また私の手から彼らを奪うものはないであろう。』(ヨハネ10-28)コンソラータ、わかりましたか? だれも私から一つの霊魂も取ることができないのだ! 次を読み続けなさい。『私の父が私に与えたもうたものは、すべてにまさってとうといものである。だれもそれを私の父の御手から奪うことはできない。』(ヨハネ10-9)
コンソラータ、わかりましたか?だれも私の手からひとつの霊魂も奪うことができない……永遠に至るまで彼らは滅びないであろう……なぜなら、私が彼らに永遠の生命を与えたからである。だれのために私はこれらのことを言ったのだろう? すべての羊のため、すべての霊魂のために! それなのになぜ『私は救われるでしょうか。』という侮辱的なことをいうのだろう。私は聖福音の中でだれも私からひとつの霊魂も奪うことができない。そして霊魂に永遠の生命を与え、霊魂は滅びることができない、と確証している。コンソラータ、私を信じなさい。地獄へは、ほんとうに行きたい者だけが行くのだ。なぜならだれも私からひとつの霊魂も奪うことができないが、私の与えた自由意志により、霊魂は私からのがれ、私にそむき、私を否定し、自分の自由意志のままにサタンのもとに行けるからである。
このような不信頼によって私の心を傷める代わりに、あなたたちはもう少し天国について考えなさい! 私はあなたたちを地獄へ行くため、悪魔の仲間に入れるために創ったのではなく、天国へ行くため、永遠の愛の中で私と一致して楽しむために創ったのである! わかりましたか?コンソラータ、地獄へは行きたい者だけが行くのだ……地獄へ行くのではないかとあなたたちが恐れるのはなんと愚かなことだろう。あなたたちの霊魂を救うために私の血を流し、全生涯ちゅう恵みにつぐ恵みを注いだのに……私のあがないの果実をとり入れようとするまさにその時 ── つまり霊魂が私を愛そうとしている時である臨終にあたって、最大の敵サタンが、私から霊魂を奪い去るのをどうして許せようか? 聖福音の中で、私が霊魂に永遠の生命を与え、だれも私の手から奪い去ることができぬと約束しているのに、どうして私があえてそんなことができようか? コンソラータ、どうしてそんなひどいことが信じられるのか?
わかりましたか? 最後の最後まで改心しないのは霊魂がわざわざ地獄へ行きたいと望み、どうしても私のあわれみを拒む場合だけだよ。私はどんな人でも決してゆるさぬことはないから! 私はすべての人々に無限のあわれみを贈る。私の血はすべての人々のために流されたのだから!
すべての人々のために! 霊魂を永遠の災いに堕すのは犯した罪の多いためではない。悔い改めさえすれば、私は何もかもゆるすのだから。むしろその霊魂が、どうしてもゆるしてもらいたくない、地獄へ行きたいと望むからだ!十字架上の盗賊聖ディスマスは、非常に多くの罪を犯したが、私に対してただ一度信頼の心を起こしたために、瞬間的にゆるされ、その改心したちょうどその日に、天国へはいり、聖人のひとりとなった! 私のあわれみと、私への信頼の勝利をこれによって悟ることができよう! コンソラータ、私にすべての霊魂を賜わった父なる神は、すべての悪魔よりもずっとずっと偉大で、全能である。私の父の御手から、だれも霊魂を奪い去ることはできない!
コンソラータ、私を信頼しなさい! いつも私を信頼しなさい! 私が必ず成し遂げることを盲目的に信じなさい。私は限りもなく優しく、あわれみに満ち、『悪人の死を望まず、かえってその罪人が改心して、生きることを望む』(エゼキエル33-11)のだから。」
コンソラータはイエズスのこの御招きに心から従い、全生涯のあらゆる困難、悪魔の攻撃にもかかわらず、この信頼を忠実に保った。「神に信頼すること!それのみが私に翼を与えます。恐れは私を凍らせ麻痺させて、あらゆる行動を封じます。・・」と自分の経験を言い表わしている。(一九三五年十一月三日)
一九三六年七月、初金曜の前夜の聖時間を守るため、聖堂にはいる前に入り口のところで、祈りの意向の札を一枚とった。
「私は聖櫃(せいひつ:注)のそばに近寄って読みました。『われらの主はあなたを愛し、惜しみなくご自分をお与えになったのに、あなたは心の全部ではなく、ある部分だけささげたいのですか?』聖時間の一時間は私にとってイエズスの臨終の御もだえのような時間になりました。神の御愛とその御示しを考えると、私はたまらなく恥ずかしくなりました。イエズスの聖心より雨と降りそそぐ賜ものと御愛は、重石のように私を圧倒しました。いいえ、それどころか! 神さえもこれ以上のことをなさることはできない──イエズスはこれ以上私を愛することはおできにならないのです。それなのに、私はといえば、それほどの御愛にどのようにおこたえしたでしょうか?……沈黙を守ることもたびたびできなかった私の不忠実さが極悪非道に思われてきました。いいえ、私は神をあますところなく愛していたのではありません。私は神にすべてをささげていたのではなく、もしささげたとしても、すぐにまた取りもどしておりました。わが神よ、なんという忘恩でしょう!……そのもだえの重みが私をおしつぶし、心の苛責で死なんばかりでした。そのひどい苦痛の中で私は限りなく慈悲深いイエズスの聖心に全く信頼して、自分の身をゆだねるほか、なにも残っていないと考えました…… イエズスはそれを待ち望んでいられたのでしょうか? 心に平和と愛がもどってまいりました」
コンソラータはこれに負けず劣らずの苦しい試練にもあわねばならなかった。それは「あわれな兄弟たち」が永遠の地獄におちないように、この地上で自分が彼らに代わって地獄の責苦を忍ぶことを誓ったためである。この英雄的な誓いは、神が強襲しようとしている打撃に備えてコンソラータを強めるために求めたもうたのだが、それを守りとおすことができた。
─イエズス─「完全な信頼によって神に光栄を与えなさい。あなたの霊魂がどんな状態におかれようとも、天国があなたのために開かれているという確信を失わぬ、と私に誓いなさい。」(一九三四年十月八日)
イエズスはまたたびたびコンソラータが煉獄を通らずにまっすぐ天国へ行くとはっきり約束された。
─イエズス─「心配しないで、コンソラータ、煉獄へは行かず、死んだへやからまっすぐ天国へ行くだろう。」(一九三五年九月十九日)それより以前、犯した罪のためにあんまり心配していると、仰せられた。「よく聞きなさい、コンソラータ。よい盗賊が自分の罪に加えて、あなたの罪も全部犯したとしても、はたして私が他の判決をしただろうか?」「いいえ、イエズス、あなたはやっぱり『きょうあなたは私と共に天国にあるであろう』(ルカ23-43)
と仰せになったでしょう!」「では、いつか私はそれと同じことばをあなたに向かっていうであろう。」
〈永遠の愛に信頼すること〉
信頼はキリスト教的希望徳の花である。聖トマスによれば、信頼の徳は、希望徳をある程度前提としている。希望徳によって人は永遠の生命と、それをうるに必要な恩恵を神の約束によって、受けることを希望し、信頼の徳によって喜んで天国という故郷に向かって努力し、成聖への道を飛ぶように早く進むのである。
愛と信頼とは両翼となって霊魂を最も大胆に飛翔させ、飛翔ごとに勝利をおさめ、ますます高く、より高く昇らせるのである。信頼が弱まれば愛もまた衰え、霊魂はただ、のろのろと足を引きずって進むほかない。事実信頼の不足は、自己心の次に、霊魂の中で神が御働きになるのに最大の障害となる。多くの場合、自分にあまり頼みすぎるために、神に信頼しないのである。だからよいことをしようとして自分の力だけではできないことがわかると、自分の無能さに心を乱して、非常に悲しむのである。ちょうどその反対に、自分により頼まぬ者は幼児のようである。幼児が母にささえられる権利をもっているのは、幼児が弱いからであるが、幼児のように弱い霊魂をもっている者こそ、神の全能に信頼する権利をもっている。私たちが数えきれぬほど多くの弱点をもっている時、イエズスの聖心は自然に引き寄せられるのである。だから聖人になるために多くの罪や欠点を利用し、罪を犯すたびに痛悔すると同時に、ますます信頼を強めてゆかなければならない。
一九三五年九月十七日コンソラータはイエズスと親しく会話した。
「私のイエズス、あなたが私の哀れな霊魂に語りかけ、畏れおおいことに、いろいろ教えてくださるということは、ほんとうに何にもまさる喜びの筈です。それなのに私はあまりに貧しいものであることを苦にして、ほとんどものもいえずに気兼ねをしておりました。あなたの神としての御目をひきつけるものは、私には何もありません。それを知りすぎるほど知っておりますから、心の中で、ひどい思い違いをしているのではないか、という疑いがおきます。イエズス、どうぞ私をゆるしてください。はい、私は必ず、あなたが限りなく慈悲深いことを信じます!」
─イエズス─「コンソラータ、考えてごらん。あなたの貧しさには限りがあるが、私の愛には限りがない!」
二日後の一九三五年九月十九日、
「イエズス、あなたが純白で汚れない白百合の花をお愛しになることは信じられます。けれども私のようなものをお愛しになれるとは……どうしてもわかりません!」
─イエズス─「私が、正しい者ではなく、罪人を招くために来たことを思い出せば、すぐにわかるだろう? コンソラータ。」(マタイ9-13)
コンソラータは書いている。「ある晩、私は心細くなって聖ひつの前ですすり泣いていました。『イエズスよ、私はいつも同じです。お約束しては、すぐにまた……』 その時イエズスはお答えになりました。『私もまたいつも同じで変わらない。』 そのご声音は、私の心細さを喜びに変えるに十分でした。もしイエズスさえお悲しみにならないな
ら、なぜ私がそんなに悲しむことがありましょう?」
イエズスは、コンソラータが自分の犯した罪についてくよくよすることを一度もゆるさなかった。
─イエズス─「もしなにか罪を犯したら、くよくよと悲しまずに、急いで来て、その罪をみな私の心の中に入れなさい。それからその罪の反対の善徳を実行する決心を強めなさい。しかし落ち着いて静かにやりなさい。そうすれはあなたの罪のひとつひとつは、すべて、進歩への一歩一歩となるだろう。」(一九三五年十一月二日)
落ち着いて静かにと…… なぜならずるい悪魔は巧みな計画によって働いているので、もし彼が霊魂の中に不信頼の毒を注射できれば、その結果は自然に悪くなるからである。まず霊魂は不安になるが、それが霊魂にとって致命的となる。イエズスは注意を与えられた。
「平和な霊魂は新鮮で純粋透明な水が絶えずわき出る泉のようなもので、私はほしい時に、いつでもその泉で渇きをいやすことができる。だが、もし霊魂に不安がはいれば、ちょうど棒で水底の泥をかき回したようになって、そこから私は飲むことができなくなる。」
「悪魔は水を濁らして魚をとる」という諺があるが、霊魂の濁った状態こそ、悪魔が邪悪な陰謀を働かすのに最も適するのである。だからイエズスは次のように注意された。「決して不安に思ってはいけない。決して、ほんとに決して! あなたが不安になれは悪魔が満足し、その勝利は確実となる。」(一九三六年九月二四日)
不安にならないとは信頼を失わぬことである。いったん不安になると必ず落胆し、落胆すれば、戦いをやめ、進歩する代わりに退歩する。得るものは何もなく失うものばかり、少なくとも時を損失する。コンソラータは書いている。「登山者がほんのちょっとすべったくらいで、がっかりし、登るのをやめて、もう頂上を見上げることすらしなくなるなら、なんと愚かなことでしょう。賢明な登山者は、すべるたびごとにすぐに起き上がり、時を少しも損失しない堅い決心をし、少しも不安にならずに、信頼しながらまた登り始めるでしょう。またすべってもすはやく起き上がり、どんどん前進するでしょう。
善意の霊魂は次のイエズスの教えをよく黙想するでしょう。
「コンソラータ、次の二つの霊魂のうち、どちらがより完全だろうか。一方の霊魂は私に向かっていつも〝自分は不完全です〟と嘆き声をあげるばかりで、重ねてあやまちばかり犯し、決心したことも忠実に守らない。もう一方の霊魂は私に嘆き声を聞かせる代わりにほほえみかけ、できる限りの力をあげて、いつも私を愛し続けることに没頭しているので、自分の意志から犯したのでない欠点をくよくよ考えて時間を損失することがない。どう思うか言ってごらん。」
私は二番日の霊魂のほうが好きだと申し上げました。
「だから、できるだけのカを尽くして私を愛しなさい。もし私にちょっとそむいたことに気がついたら、もっと熱心に愛の心を起こし、また新たに愛の歌を始めなさい。私は虐待者ではない。イエズスはたったひとつの愛の心に対して罪悪に満ちた全生涯をもゆるすのだから、あなたがたった一日自分の意志でなく無益な思いに浸ったからといって、どうして気がついて問題にしよう? だから繰り返し『イエズスよ、私の悪かったことをごらんください。私はなんと不忠実だったのでしょう。』などと私に嘆くことはむだで、時の損失だよ。それと正反対に、もっと深い熱心なひとつの愛の心を起こせば、あなたの霊魂は恵みに満され、私の心を喜ばせる! わかりましたか?……自分の意志でない欠点に目をそそぐのはやめなさい……」
無限に慈悲深いイエズスの聖心は愛と恵みと親しさを常に霊魂へ注ぎたもうので、何度失敗しても、決して落胆してはならない。
─イエズス─「コンソラータ、私の心は、あなたがたの徳よりも、弱さ、みじめさに負けてすぐに引き寄せられる!神殿から出て来た二人の中、どちらがゆるされたか? 収税人だったね。(ルカ18-10) 謙遜で罪を深く悔いている霊魂を見ると、私はすぐに負けてしまう。……私はいつもそうだ。よく覚えておきなさい。私はあなたを愛している。愚にいたるまで……いつも愛し続けるだろう。あなたが自分の意志でなくあやまちを犯しても。だからあなたのあやまちのために私が約束を守らないだろうと、決して、決して、決して、少しでも疑ってはならない。一度もそうしないね! コンソラータ。もしあなたが疑えば、私の心を深く傷つけるのだよ! 私だけがあなたの弱さを底の底まで知り、私だけが人間性のもろさを、そっくりそのまま知っている。コンソラータ、あなたは、決して、決して、決して、私が約束を守るかどうかと疑う罪を犯してはならない! 私に約束してほしい、そんな侮辱を決して私に与えてはならない。そんなことをすれは私をひどく苦しめるだろう!」
コンソラータはその時、成聖の道に進んでいて、自分の意志でなく罪を犯すよりも死んだほうがいいと考えていた。イエズスのこの御ことばは、コンソラータのような聖なる霊魂ばかりでなく、すべての霊魂に向かって語りかけておられる。改心したばかりで猛烈な戦いに直面している霊魂にも、また相当完徳の道に進歩し、長い間神の御助力で罪を遠ざけることができたので安心していたのに、み摂理によって突然悪魔の猛烈な攻撃にあって罪を犯し、あらためて人間の弱さを感じている霊魂にも。
─イエズス─「コンソラータ、見てごらん。悪魔はあなたの盲目的な信頼を揺り動かそうとあらゆる努力をするだろう。でもあなたは、私が限りなく優しく、慈悲深くて、そうでないようにすることが全然できないことを、決して忘れてはいけない。コンソラータ、私の心の中にはいってきて、私の心を、私の愛を、わかっておくれ。不信頼によって一瞬でも悪魔が入り込むすきを与えてはいけない。決して!私はほんとにいつもあなたのためにおかあさんなのだよ。指にほんの少しかすり傷を受けるたびに、すぐおかあさんの所へとんで行き、ほうたいをしてもらう小さな子のまねをしなさい。ちょうどおかあさんがほんとうの傷でも、また想像によって、傷のように思えるのでも、いつも指にほうたいをしてあげるように、私もあなたの欠点をいつも直してあげることをよく覚えなさい。
もし子どもがほんとうに腕なり頭なりに大けがをすれは、母はどんなに優しく、愛情深く、心配しながら、ほうたいしてやることだろう! そうです。私は黙っていても、転んだ時には同じことを霊魂にしてあげるのだよ。いいですか。コンソラータ? だから、決して、決して、決して疑いの影さえもってはいけない! 信頼の足りないことが一番私の心を傷つけ、苦しめる!」
しかし、イエズスは、コンソラータが大罪に陥らぬよう助けてくださると約束したもうたので、コンソラータは慰められた。
─イエズス─「いいえ、コンソラータ、あなたの腕や頭が大けがを受けることはさせない。だが、私が今話していることが、いつか他の霊魂に役だつことを知らねばならぬ。そのために、私はこれをみな書きとめておいてほしいのだ。」
だれでも欠点や不完全さをもっている。コンソラータももっていた。その欠点は人目につきやすいものだったが、コンソラータは隠そうとせず、かえって人目につくことを喜んだ。それは憤慨することだった。コンソラータは性急で激しい性質なので、「雷様」というあだ名をもらっていた。規則を守ろうとする熱心のあまり、時々心の中で、自分の意志でなく感情が激してきて、衝動的に憤慨の声が洩れても、どうしてそんなわずかなことが神の前に罪となりえようか。一日のうち、十回も二十回もその衝動を抑えるため、英雄的に戦わねばならなかった。それでも思わず知らず声が洩れると、そのたびに、すぐ痛悔して神にお詫びし、その欠点を直す誠実な決心をした。
そのうえ、この外部的欠点は、神がある霊魂に与えたもう賜ものと働きとを人の目から隠すため、霊魂の上にかけるベールのようなものだった。
「神は愛したもう者を至福に導くために、神の目には罪でないが、世の人々の目には批評と非難の材料になるものを彼らに与えたもう。」(ノリッジの聖ユリアナ) コンソラータの場合がちょうどそれだった。修道院で目だたないようにお願いしたら、イエズスは約束された。
「よろしい。私はあなたを全く隠そう。あなたに多くの悲しみと恥を与えよう!」
その恥とはなんであっただろうか? コンソラータは人々の目に欠点に満ちている者とはっきり映ったばかりではなく、自分の目にすら、それがはっきりわかった。そこに屈辱そのものがあった。
* * *
イエズスは仰せられた。
「あなたは決して転ばず、常に忠実で完全であるよう私がはからうと約束してもらいたいの? それはとてもだめだよ。コンソラータ、私はあなたにうそをいうことはできない。あなたは罪を犯し、不忠実で不完全なことをするだろう。それらは謙遜の源となり、あなたの進歩を助けるだろう。」
神のお恵みを楽しむ時、信頼を保つのはやさしいが、霊的暗やみを歩く時、そうはゆかない。その危険に備えて、イエズスは警告された。
「あのね、コンソラータ、きょう、あなたの霊魂の空は、自然の空のように晴れて、ばら色、水色に輝いている。だがまもなく愛と信頼に満ちた美しい空は、底しれない暗黒に閉ざされるだろう。コンソラータ、勇気を出しなさい!その時こそは実りの多い試みの日だ! 実際に神に愛と信頼を証明する時だ。信頼しなさい。いつもイエズスに信頼しなさい!それがどんなに私を喜ばせるかを知ったら!死の暗やみの中でさえ、あなたは常に信頼して私を慰めてくれないか。どんな暗やみに取り囲まれても『イエズス、あなたを信頼いたします!』という声でいつも私を喜ばせてはくれまいか。」(一九三五年十一月二七日)
一九三四年八月十四日、聖母被昇天祭の前日、コンソラータは、次の信頼の誓約を自分の血で書いて、天の御母の手に託した。
「私のおかあさま、あなたの御手に神に対する私の誓いを託します。善なる神よ、私の霊魂がたとえどんな状態におかれようとも、私は常に主の御慈悲と御あわれみに信頼し、主が私に約束されたことを信じます。甘美なる聖母、あなたの御助けをかり、神の全能の力によって、私は待ち望み、信頼し、信ずることを決心いたします。私のイエズスよ、あなたを愛し、あなたに信頼します!」
信頼するということばはコンソラータの書いたものの中に繰り返し見いだされる。そのことばをちょうど印鑑のように、あらゆる決心、罪を犯したのちのあらゆる再出発、完徳をめざすあらゆる新しい努力に、必ず押した。このように大きい信頼によって、イエズスの聖心が征服されたのも不思議ではない。神の賜もの、イエズスとコンソラータとの大きな約束は、すべてその信頼の結実であり、報いだった。コンソラータは信頼をもって信じた。その信仰により、犯した罪の山をくずしたばかりではなく、神の全能の力を人々に与えさせたのである。
─イエズス─「何が私をあなたの霊魂にひきつけるかわかるだろうか。それはあなたが私に対してもっている盲目的な信頼だ。」(一九三五年八月六日)
─イエズス─「あなたの盲目的な、子どものような無限の信頼は、たいへん私を喜ばせる。私があふれる愛と優しさであなたに身をかがめるのはそのためだよ。」(一九三五年十月二十日)
この信頼のために、イエズスはコンソラータの中に次から次へ驚くべきことを成し遂げられた。
─イエズス─「コンソラータ、私はあなたの中に驚くべきことを果たす。あなたの信頼は無限だから。あなたはイエズスを信じ、イエズスの慈悲深い聖心を信じている。信ずる者にはできないことがない!(マルコ9-22)」(一九三五年十月八日)
この信頼のためにイエズスはコンソラータを成聖の高みへまで引き上げ、使徒として世界につかわしたもうたばかりでなく、使徒職に励む霊魂の使徒とされた。
─イエズス─「コンソラータ、私はあなたを使徒たちの使徒としよう。」(一九三五年十月二二日)
─イエズス─「人々にどれほど神に信頼すべきかを告げるため、ひとりの幼児を使徒たちの使徒として召し出した神は、その幼児を信頼の使徒とした。またその幼児が、あらゆる試練に耐え、目的地に凱旋できるように剛毅の精神を与えた。」(一九三五年十二月十日)
─イエズス─「コンソラータ何も恐れてはいけない! あなたが決勝点へ向かってすばらしい早さで飛翔するのをだれも止めることができない。私があなたといっしょにいるから。だからあなたは盲目的に完全に私に信頼しなさい。私はそれを喜ぶ。私があなたを材料としてどれほどの成聖を創りうるか、今にわかるだろう!
何も、そしてだれも恐れてはならない! 神があなたといっしょにいるのだから! 神はあなたのことをいつも配慮し、神の目のひとみのようにあなたを守っている。私はこれをあなたに誓う。あなたは完全にイエズスの計画どおりにするだろう。聖福音のいうとおり、生ける水の川が彼のふところから流れ出るであろう。(ヨハネ7-38)イエズスに信頼しなさい! いつも! それがどんなに私を喜ばせるかをあなたが知りさえしたら! 死の影の中でさえ、私に信頼して私を慰めてくれないか。決して何ものも恐れてはいけない! 完全にいつもイエズスにのみより頼みなさい! 暗やみがあなたの霊魂を取り囲もうとも、その時こそ、より熱心に『イエズス、私はもうあなたが見えず御声も聞けません。けれども、あなたに信頼いたします!』と繰り返しなさい。どんな試練にあってもそうしなさい!
コンソラータ、あなたの信頼は大きなものだ。だが試練の日には、その信頼を英雄的にしなさい!」(一九三五年十一月三日)
一九四二年の黙想会の間(その時もうカルワリオに登りつつあったが)次のように書いた。
「私の霊魂よ、きょうは倦まず戦い、召された完全さに達し、決心に忠実であったと神のみ前に言えますか。……神よ、どんなに恥ずかしく心がひるむことでしょう! しかし私のイエズスよ、私は疑うことも、落胆することもしません。かえってお助けによって、今すぐ立ち上がり、屈せずに戦い、臨終の時、聖パウロのように『私はよい戦いを戦い、走るべき道のりを走り尽くし、信仰を守った!』(第1テモテ4-7)といえることを望みます。毎日朝から晩まで、絶え間のない熱烈な、不撓不屈の戦闘が待っていることを知っています。心とことばを清く保つための考えとの戦いです。絶え間のない愛の心をイエズスにささげ、すべての中にイエズスを見、あらゆる神の要求に対してすぐ「はい」といって骨身を惜しまぬための戦いが、私の全精力をあげての崇高な努力を要求していることを私は知っております。またイエズスへの愛の飛翔を妨げ、止めようと悪魔があらゆる機会を利用していることも知っております。
それで自分自身に対し、また人々と悪魔に対して断固たる決戦が始まります。私のイエズスよ、私はあなたに定められた時よりも一分でも早く、また私の罪により一分でもおそく天国にはいりたいと望みません。『イエズスがもし私の味方ならば、だれが私に反対することができましょうか?』(ローマ8-31参照)
私のイエズスよ、今の瞬間から最後の瞬間まで、私の中に無益な考えや疑い、不安、落胆がひとつでも入り込むことを絶対許しません。イエズス、起きるとすぐに愛の心を起こし、あらゆる敵の攻撃にも負けず、夜寝る時までその愛の心を続けることを決心します。イエズス、あなたのお助けにより、常にあなたを見、あなたと話し、すベてにおいてあなたに奉仕する決心です! イエズス、あなたの直接間接のあらゆる要求に「はい」と答え、あらゆる犠牲と隣人愛の行ないを喜んで微笑しながら果たす決心です。
イエズス、今の各瞬間を、あなたのみ旨に完全に自己献身し、あなたと霊魂のために、愛に生きることを決心します!イエズス、お恵みによって、どんな状態でも常に平安に生き、常にほほえむことを決心します! イエズス、お助けにより、私は決してひき返しません! 前進します。前進する以上はどうして足をひきずってのろのろ進んだり、悪魔に笑われる落胆や不信頼のため休んだりできましょう?いいえ、絶対に一度でも! たとえ傷つこうとも常に前進することを決心します! 途中で転んだならば、たとえ千度目であろうと、一日の最後の瞬間であろうと、お助けによりすぐ起き上がり、何も起こらなかったように又愛の歌をうたい始めることを決心します。大好きなイエズス、どうぞこの決心を祝福し、保たせてください!」
コンソラータのこれほど大きい信頼の動機は、神の全能を深く経験したことである。
「ある日、ご聖体の前にひざまずいて信心書を開きますと『私はあなたの全能を信じます。』ということばが強く心を打ちました。神の全能! 私のひどい弱さ貧しさにもかかわらず、神は私から聖人を創り出すことができるのです。神の光により、新たに強い希望と確信がわいてくるのを感じました。神に信頼すること! 神はなんでもおできになるから、私の無限に大きい望みをかなえることができるはずです!イエズス、あなたの全能のおカにより、この瞬間からどんなことでも喜んですぐにします。全能によって、この奇跡的な変化が起こり、私の本来の弱さの代わりに、神の強さがおき代えられました!」
大きな望みとはなんであっただろうか? 心の中で燃やし続けた神への信頼はついに極致に達し、どんなことがあっても、神を愛し、苦しみ、多くの霊魂を救いたいと果てしなく望むようになった。そしてその望みが、神の約束どおり、かなえられるとの信仰も極点に達するのである。その熱烈な愛すべき信頼によって、イエズスはたびたび次の約束をされた。
「コンソラータ、あなたは教会内の『信頼』のかたどりとなるだろう。」
〈永遠の愛を愛すること〉
愛の生活に進歩したいと望む霊魂は、徹底的にひとつのことを確信せねばならぬ。それはあわれな被造物である私たちから、イエズスが愛のほか、何も求めたまわぬことである。すべてのものは、イエズスの創りたもうたイエズスの所有物であるから、私たちが神に最も大きなもの──生命さえもささげたとしても、それはすでにイエズスのものであって、私たちが、ささげないでも、イエズスは私たちから自由に生命を取り上げることもおできになるのである。
しかし愛については違う。愛は人の自由にかかっているので、人は神を愛することを自由に拒むことができる。だが神は、愛を望み、愛を要求したもう。──それこそ人間を創造した目的だから。神は第一のおきてとして「神を愛せよ」と定め、このおきてを守らねば永遠の生命を得られないとした。神は人の心の愛を全部望んでおられる。──心を尽くし、霊魂を尽くし、精神を尽くし、全力を尽くして愛されたいと。そしてこの愛をうるため、神は天から降って人となりたまい、そればかりではなく、乞食のように、被造物の足もとに「私に飲ませてくれないか。」と請いたまい、遂には十字架の上でさらしものとなり、血の御声をふりしぼって「私は渇く!」とお望みになられた。
愛を求める神のこの叫びは、聖書を通して二十世紀間響き続け、聖マルガリタ・アラコックの聖心の啓示に至ってますます強く訴えかけ、更に最近小さき花の聖テレジア、コンソラータに対する示現を通して、いよいよ熱を帯びてきた。
神との一致を熱望しながら、困難な道にさまよい、休息もせず飢えかわいている者がどんなに多いだろう。彼らのすぐ目前に、まっすぐでやさしく安全な道があるのに。──それは愛の道である! コンソラータは最も規則のきびしい観想修道会にはいっていたが、イエズスはコンソラータに、ただ愛のほか何も求めなかった。イエズスのお示しがいっぱいしるしてあるコンソラータの日記には、「私のみを愛しなさい。」「常に私を愛しなさい。」「私を深く愛しなさい。」「私はあなたから愛のみを求めています。」などのことばが数百回繰り返されているのが見られる。それは創造主が被造物の愛を渇望したもう、絶え間なき、熱烈で、感動的なお招きである。その愛を、神は大部分の人々、神に全く身をささげた多くの人々からさえ、完全にはお受けになれず、聖心の渇望をよく理解し、それにこたえる小さい霊魂の間を請い歩いて、その愛を求めておられるのである。
─イエズス─「私は無邪気な幼児の心、愛を全部与えてくれる霊魂によって愛されたい。」(一九三五年十月十五日)
全世界が愛の火に燃えるように、この小さい霊魂を通してイエズスは愛を求めたもう。
─イエズス─「コンソラータ、全世界のあらゆる霊魂のために、彼らに代わって私を愛しなさい。私は愛に飢えかわいている。非常に!」(一九三五年十月十三日)
─イエズス─「コンソラータ、私を愛して! 私はかわく人が新鮮な水のわき出る泉を恋い慕うように、あなたの愛に飢えかわいている。」(一九三五年十一月九日)
─イエズス─「コンソラータ、これを書きとめなさい。あなたが一度でも愛の心を起こしてくれたら、私は天国を創造するだろう。」(一九三五年十一月三日)
─イエズス─「コンソラータ、あなたが絶えず私を愛してくれる時、私はあなたの心の中で天国を楽しむことができる!」(一九三五年十一月九日)
─イエズス─「コンソラータ、あわれな罪深い人類のために、あなたがゆるしを願いなさい。そして私の愛の勝利を願いなさい。新しい聖霊降臨において、燃えさかる神の愛の火が、人類の多くの罪を清めるよう願いなさい!神の愛のみが、背教者を使徒に、汚れた百合を潔白無垢に、敵意に燃えて反逆する罪人を、愛の獲物に変化することができる!あなたのため、また今、地上にあるものと、世の終わりまで存在するすべての霧魂のために、私の愛の勝利を願いなさい。あなたの絶え間ない祈りによって、私の聖心と愛が、全世界に勝利を占めるよう、準備しなさい。」(一九三五年十二月十六日)
多くの信者は、愛の生活のために創造されていながら、神の愛が世界を革新するよう、絶え間なく愛し、祈ってほしいとのイエズスの渇望を知らず、また知っていても無視して、神のことも神の愛も忘れて、暮らしている。だからイエズスは仰せられた。(一九三五年十一月二七日)
「コンソラータ、小さい霊魂にも、すべての人々にも、私の、ことばに言い表わせぬ愛のへりくだりについて語りなさい! どんなに私が優しく、母らしく、またどんなに人々
からただ愛のほか、何も望まぬか、私の愛にこたえてほしいと渇望しているかを伝えなさい。あなたは、私の限りなく大きいあわれみ、母らしい愛のへりくだりを、世界の人々に伝えるために召されている。」
イエズスは全世界を救いたいと切願したもう。世界は改心してイエズスに立ち帰らねはならぬ。イエズスのあるところに秩序の静けさなる平和があり、イエズスなくしては無政府状態と荒廃があるのみ。それでは、どのようにして世界の人々はイエズスに立ち帰るのだろうか?各人にとっても各国にとっても道はただひとつ、神と隣人を愛することのみ。愛は律法のすべてであり、キリスト教のすべてである。
(注)聖櫃(せいひつ):聖体の安置を唯一の目的とした箱状の容器。聖櫃は常に中央祭壇
または脇祭壇に固定した堅牢なものでなくてはならず、常に教会堂内のすぐれた位置
に設置しなければならない。(現代カトリック事典)
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