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【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第14章)

2022-09-05 13:06:27 | 日記
【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第14章)


第十四章 コンソラータの三つの絶頂、愛、苦しみ、救霊

〈心のあふれる愛〉

どれくらい神を愛すればよいのか? 無限に、度を越えて。コンソラータはそのように神を愛した。時々あまりにも激しく限りなく愛したがために、全然ひかえめのないことばを使ったが、神はその与えたもうた使命に応じて恵みも与えたもうから、コンソラータの心をそれほど神に向かわせた愛の源こそは、神ご自身だったのである。

一九三八年八月十八日づけの指導司祭への手紙において、コンソラータはその愛の激しさをいくらか表現した。

「神父様、私はイエズスを愛したい、また愛させたい無限の熱望によって燃え尽くされています。そういう一心なあこがれのため、時々イエズスに対する愛において乱暴になります。果てを知らぬ愛と聖化への熱望があるのに、なぜ私の中には弱さと臆病があるのでしょう。」

イエズスはこの愛のかわきに答えてくださった。

─イエズス─「私は、私を愛していない罪人をも愛しているから、ましてや私の愛にこたえてすべてを果たす人を愛さないはずがあろうか。」

 ─イエズス─「私はあなたを余るほど十二分に愛し、またあなたが私を余るほど愛せるように、その愛をあなたの心に注ぐ。私はあなたのためにホスチアとなるから、あなたも私のためにホスチアになってはくれまいか。ホスチアにホスチア、いけにえにいけにえ。私に過度の愛をもってこたえなさい。」
(一九三五年十一月十日)

指導司祭は熱望に満ちたコンソラータのイエズスヘの愛にブレーキをかける必要があると思ったが、コンソラータは答えて書いた。

「イエズスは私の愛に飢えかわき、私の望みに応じて必要な恵みを与えてくださるので、イエズスに向かって『私はあなたを今までだれもそれほど愛した者がなかったほど、またこれからもないほど愛したいのです。』とたびたび申し上げることはごう慢でもなければ極端でもありません。私に、イエズスをそれほど愛する決心と意志があれば、それをことばで表わしてもよいと存じます。最も小さい者にはすべてがゆるされていると思いますから。」

この無限な望みはイエズスを喜ばし、またイエズスご自身がその考えをコンソラータの心に起こしてくださったことが日記のあちこちに多く見られる。

─イエズス─「私が全能であることを思い出しなさい。大きな霊魂にその望みがあれば、過度なごう慢に見えるだろう。だがあなたのような小さな霊魂ならばだいじょうぶだ。」

 ─イエズス─「私はあなたを選んで他の霊魂より大切にした。ほんとうにあなたは今までだれもそれほど愛さなかったほど、またこれからも愛さないほど私を愛するだろう。今までだれもそれほどしなかったほど霊魂を救うだろう。また今までも将来もだれもそれほど苦しまなかったほどあなたは苦しむだろう。そして私の聖心はすべてあなたの中にそそがれている。」
(一九三五年十月二七日)

神は全能の限りを尽くして、聖母マリアにおいて、被造物に与えたもうことができる絶対的な恵みを与えたもうた。聖母についで聖ヨゼフが最も恵まれたかたである。コンソラータは聖ヨゼフに次ぐ最大の聖人になりたいと望み、神の与えたもうた自然的、超自然的賜ものに応じ、イエズスの助けによって、それ以上はできないほど完全な自己献身、愛、従順の限りを尽くしたのである。同じ賜ものをいただいても、他の霊魂がコンソラータ以上に神を愛することはできないだろう。

〈愛の絶頂〉

コンソラータの心に燃えている愛と献身によって、愛の道へ呼びもどされた司祭、修道女たちが、神の国のために熱心に働くようになり、そのため多くの霊魂が神に導かれ、その心の愛がまた他の霊魂に愛を呼び起こして、愛の火がどんどん燃えうつってゆくことを考えると、これらすべてのわざは、イエズスの恵みであると同時に、イエズスを限りなく愛した聖人の聖化の効果であるといえよう。コンソラータの死後、神はコンソラータによって「最も小さい霊魂」にご自分を愛させることを約束された。それでコンソラータの心から流れ出る愛の川は、幾世紀にもわたってこれから絶えず流れるだろう。そして大河となって永遠に至るまで、コンソラータと無数の小さな霊魂たちは神を愛し続けるだろう。

しかしここでいう愛の絶頂とは、コンソラータがそれ以上愛することができぬきわみまで神を愛し、その愛の忠実さと熱烈さにおいて極致までゆくという使命をさしているのである。

 イエズスは一九三五年十二月六日「あなたの行ないのひとつひとつに愛の判を押し、あなたの修道生活の始めから終わりまでをすべてひとつの絶え間ない愛とみなしてあげよう。」という特別な恵みを与えられ、更に一九三六年六月にはそれを、「あなたが生まれた最初の呼吸から、死ぬ瞬間の最後の呼吸に至るまでの全生涯を、ひとつの絶え間ない愛とみなしてあげよう。」という大きなものにしてくださった。

〈救霊の絶頂〉

コンソラータの絶え間ない愛の心は救霊のための絶え間ない努力であったから、ついに救霊の絶頂に達した。一九三四年三月に書いた。

 「ある土曜日の晩、降福式(注)の時、宣教師になりたい激しい熱望を感じてきました。それは今までにない激しさでした。ひとつの布教地方だけでなく、数限りないほどの布教地方の宣教師になりたいと思いました。……『イエズス、あわれみたまえ』と祈るとイエズスが私の心の中の嵐をなだめて、『コンソラータ、私の全能を信じますか?……よし、世界じゅうのすべての霊魂をあなたに与える。すべてあなたのものだ。私が聖化されたホスチアにおいて、ある意味では、私を何倍にもするように、あなたの祈りと犠牲を何倍にもしてあげよう。』と仰せられました。それを聞いて私は完全に幸福でした。」

イエズスはコンソラータに、個々の霊魂ではなく、すべての霊魂のために無数の恵みを願うよう求め、区別せず、えこひいきせず、かぎりない希望をもって、皆のために等しく祈ることを願った。

─イエズス─「そうすればあなたの心は、より自由になり、日増しにより熱く愛し、あなたに与えられた霊魂をより豊かに恵むことができるだろう。」(一九三四年三月三一日)

私たちの祈りと犠牲は、イエズスのとうとい御血によって価値を得る。コンソラータは一九三四年四月、幻視によりイエズスに教えられた。

「私は本だなからある聖なる修道女の伝記を取って読みました。ところが天使のようなこの修道女の幼青年時代の清さと忠実について読むと、自分に比べあまりに恥ずかしく悲しくなって、本を閉じ、十字架の道行をするため聖堂へ参りました。イエズス死したもう第十二留で幻視を見ました。死したもう救い主の御足もとに罪人の長い列が立っているのです。それによってイエズスが、正しい忠実な霊魂のためでなく、罪人のためにご死去なさったことを深く悟りました。十字架にくぎづけられた神なるイエズスのとうとい御血は、私のために流され、私とかわいそうな罪人の持ち物になったのです。十字架の御足もとにたたずみ、このとうとい御血を集めて、果てしない長い列をつくっている人々の上にそそぐことは、私の全生涯の使命です。その時から、その聖なる修道女の幼、青年時代の英雄的な清さと忠実をねたむことをやめました。優しく慈悲深い救い主は、たいへんていねいに私の嫉妬(しっと)を直してくださいました。」

─イエズス─「コンソラータ、私は深い愛をもって、聖マルガリタ・アラコックに、すべての人の救いのため私の聖心を与えたように、あなたに私の血──割礼の時に流された最初の一滴よりあなたたちの至る所の祭壇の上に私が流す最後の一滴まで、私の血のすべてをあなたに与える。」

─イエズス─「世の人々は、このとうとい血によって清められなければならない。だが彼らはその血を拒む。あなたは私の血を愛し、けさ、告解したくないすべての霊魂を悲しく思いながら、大好きな私の血を与えてくれと願った。ではコンソラータ、私はあなたに私の血を与える。そしてそれを救霊のため有効に使うよう教え、助けてあげよう。」

 ─イエズス─「あなたは毎日すべての霊魂の上に私の血が注がれることを祈っている。だから各々の霊魂の救いのため、よい影響を及ぼす恵みをあなたに与える。」
それはコンソラータが無条件で愛と犠牲に自己献身したことの報いだった。

一九三五年十月二目、イタリアとエチオピアの間に戦争が勃発し、コンソラータは従軍看護婦になりたいと熱望した。まさに死なんとする人の罪をゆるしてその霊魂を永遠の地獄から救い出す従軍司祭を助けるためである。しかし望みは達せられず、コンソラータはその目的のために自分を犠牲としてイエズスにささげた。「どうぞ、すべての兵隊、すべての霊魂を救うため、私を少しもいたわらず、きびしく扱ってください。」イエズスは答えられた。

「はい、兵隊たちの霊魂のためのいけにえとしてあなたを受け取る。あなたは言い表わせぬひどい苦しみを忍ばねばならぬが、私たちはすべての霊魂を救うだろう。」

コンソラータは修道院にはいってから、使徒的精神に満ちて、教会が宗教改革によって受けた無数の重傷を自分の聖化によって直したいと熱く希望していた。

一九三五年九月十九日コンソラータの燃える心は次のように書いた。「イエズスよ、私があなたのご聖体の玉座のみ前で、宣教師になりたいと申し上げたとき、すべての霊魂を私にお与えになると仰せられたあの晩のことをおぼえていらっしゃるでしょう? あの瞬間から私は世界のあらゆる霊魂に対して母のような愛を感じています。あなたが私に与えてくださいましたから、あらゆる霊魂は私のものです。私はすべての霊魂において、あなたを、完全に、絶え間なく愛したいと望んでいます。どうぞこのすべてを抱擁している愛を受け取り、無神論者であれ、異端者であれ、彼らすべての心のうちに、ただあなたの弱いコンソラータの心の愛のみをみそなわしてください。そして他はすべて目をつぶってください。」

〈苦しみの絶頂〉

コンソラータはイエズスから豊かな恵みと賜ものを受けるに応じて、文字どおり自分のすべてを尽くして、雄々しく愛と救霊と苦しみの絶頂へ登った。

─イエズス─「コンソラータ、愛と苦しみとは同じものである。愛の絶頂に登るにつれて、苦しみの絶頂にも登るのだ。それを忘れてはいけない。」(一九三四年八月十五日)

─イエズス─「私は救霊のことばかり考え、あなたを犠牲者としてあらゆる悲しみ、恐怖、責め苦の渕に沈める。コンソラータのことは少しかもまわず、かわいそうな霊魂たちの救いのことのみ考える。」(一九三五年十月十四日)

─イエズス─「コンソラータ、私はあなたの『兄弟姉妹』を確かに救うだろう。だがあなたはそのためにこの地上で、人間が耐えうる最後の極限まで苦しみを耐え忍ばねばならぬ。」(一九三五年十月三十日)

─イエズス─「すべての人のコンソラータになるまで、ありとあらゆる苦しみの大河から飲み、涙の最後の一滴、たとえ流さなくとも血の最後の一滴までを神にささげなければならない。」(一九三五年十一月二六日)

 カプチン修道院の中で、どのようにして、その苦しみの極致を忍ぶのだろうか。イエズスはコンソラータに、受けた苦しみを少しも書きしるさぬよう命じたので、それはイエズスとコンソラータだけの秘密である。だが「コンソラータ、ごらん、たとえ命をささげても、それはある苦しみに比べたらなんでもない」というイエズスのおことばによれば、殉教の責め苦よりも大きかったことがわかる。また「神の聖心の上にカルワリオのご苦難のすべてを感ずることができます」というコンソラータの意味深いことばを考えてみるに「イエズスの聖心の上に」とは、イエズスと一致して、イエズスの心はコンソラータの心、またコンソラータの心はイエズスの心になったことである。それはある意味で、今や栄光におられるイエズスのとうとい人性がコンソラータにまで伸びて、実際に人々の目に見えるものとなり、イエズスがコンソラータにおいて、神秘的に愛し、苦しみ、霊魂を救いたいと飢えかわき、救い主としてのご生活を具体的に生きられたのである。ゆえにその愛も苦しみも救霊への渇望も人間の力を超えたものであったことがわかる。

イエズスの神性と人性が一致してコンソラータのからだと心に宿り、日常生活の各瞬間を生きたもうたように、現に、イエズスは、私たちをもご自身に一致させて、私たちの中に、時々刻々救い主としての生活を続けておられるのである。

コンソラータは愛によって苦しみの絶頂に導かれ、苦しみにますますあこがれて書いた。

「わが神よ、私に与えてくださる苦しみの大きさによって私への愛の大きさを直観することができます。……イエズスよ、あなたを愛したい、あなたのために霊魂を救いたいという熱望と共に苦しみにも飢えかわいています。」


(注)聖体降福式

カトリック教会において行われる聖体に対する信心業。司祭は、聖別された聖体を聖体顕示台に入れて、祭壇の上に安置し香を献じる。「オ・サルタリス・ホスティア」(カトリック聖歌524)を聖体を顕示するときに歌い、次に司祭と会衆による黙想と賛美と礼拝がつづく。儀式の終わりに賛歌「タントゥム・エルゴ」(カトリック聖歌561)を歌い、2回目の献香が行われ、顕示台を高くかかげて、十字の形に会衆を祝福する。(現代カトリック事典)

 信者の礼拝を受けるために、御聖体が(聖体の形の中にましますイエズス御自身が )示されているのです。信者が頭を下げて十字架のしるしをする瞬間に、御聖体による御恵み(祝福)が現実に降るのです。そういうわけで、この聖式に聖体降福式という名前がつけられているのです。司祭は他の場合は、自分の手で祝福をするのですが、この場合には、侍者が司祭の肩にかけたベールで手をおおい、それから、このおおった手で聖体顕示台を持って十字架のしるしをします。これは、イエズス御自らが祝福をお授けになっているのです。(教理問答)


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