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罪があふれるところに、恵みはさらにあふれる

2022-09-05 13:14:06 | 日記
罪があふれるところに、恵みはさらにあふれる

〈1〉聖書の心は忘れられやすい

論語読みの論語知らず、という言葉がある。聖書を読んでも実は聖書を
知らないことがある。

 聖書読みの聖書知らず、ということは大いにありえる。ファリサイ派や
律法学者はそうだった。最も聖書を知っていたのに、聖書の心を知らず、
来るべきメシアを迫害した。現代でも聖書や神学に詳しい者が、キリストが
実際においでになると迫害するだろうことはありえる。聖書は心で
読まなければならない。

 聖書の心・聖書の文底は忘れ去られやすい。イエス・キリストの
愛の啓示は忘れられやすい。いつの間にか、イエスの神は恐ろしい神だ、
というふうに変わってくる。愛の神ではなく正義の神、旧約時代の神と
なってしまう。神の清さを強調するために、人間の悪を極度に強調した
ヤンセニズムなどは大変厳しい神観を信者に植え付け、行き過ぎた
畏怖の心を起こした。


 〈2〉時代によって信仰や愛の力が減退する、という考え

 さて、時代によって信仰は推移するのだろうか。
キリストは世の終わりにご自身が再臨することを述べて、
「果たして私が来るとき、地上に信仰を見出すだろうか」(ルカ18章)
とおっしゃった。そのころには地上に信仰を見出すことが難しい、
という意味だろうか。時代とともに信仰が薄くなり、時代とともに
推移することを述べておられるようにも見える。また世の終わりのことを
述べて「不法がはびこるので愛が冷える」(マタイ24章)ともおっしゃった。愛のあり方にも推移が見られるのかもしれない。


 〈3〉聖心(みこころ)の信心の意味――冷えた愛を再び温める

 カトリック教会では時代に応じて新しい信仰の形態が示される。
私的啓示などによって神から示される。
カトリックには「イエズスのみ心」の信心がある。17世紀にフランスの
修道女、聖マルガリタ・アラコックに与えられた私的啓示に基づくもので、
教会はこれを審査し、現在は公的な典礼で祝われている。

イエズスのみ心の啓示に関しては、すでに13世紀の末に、聖ゼルトルード(1256-1302、ドイツのベネディクト会修道女、神秘家)が神からその
計画の一端を示された。ヨハネの祝日に、聖ゼルトルードは主のおん胸に
憩うという大きな喜びを体験した。これは使徒ヨハネが最後の晩餐で
イエスの胸に頭を持たれかけていたのと同じ体験だ。そして聖ヨハネは、
「この心臓の鼓動の甘味さを人々に知らせることは、後の世に残されている。世の愛が冷えた時、この不思議を世に示すことが、老衰しつつある世を
温めるのである」と彼女に言われたという。

 聖ヨハネの言う「後の世」というのが17世紀のアラコックへの啓示のこと
だろう。「世の愛が冷えたとき」ということばは、愛のあり方が時代を
経るにしたがって推移することをほのめかしているように思う。
そのときにこのみ心を示すことが、「老衰しつつある世を温める」
意味を持つ。

よく知る人は、聖ゼルトルードへの個人的な啓示がイエズスのみ心の
第一の啓示と考えている。第2は聖マルガリータ・アラコックへの
啓示であり、私的啓示でありながら、教会内に広めてほしいという
神の意向を伴っていた。


 〈4〉時代の困難さに応じて神からの助けが示される



時代は世の終わりへ、終末へ、末世へと進んでゆく。そして信仰や愛が
失われてゆく。だから末世の人々は苦しむことになる。この中では新たな
信仰の形態が求められるのだろう。その一つが「イエズスのみ心」の信心
だろう。また20世紀にはポーランドの修道女、聖ファウスティナに
「神のいつくしみ」の私的啓示がなされ、これも教会に認められて
全世界に広まった。(日本ではそれほど知られていないが、世界的には
この信心は大変盛んだ。)罪人たちが神の慈しみにより頼むようにとの
招きだ。「罪深い者こそ、私に慈しみを受ける資格がある」という言葉
もある。これは聖書のメッセージと合致する。冷え切った時代の人々は
信仰者であっても心が冷えてしまう。だからといってふさわしくない
自分が神に近づくことを恐れるのではなく、神の慈しみに信頼して
むしろ近づかなければならない。近づくことによって私たちは暖められ、
平和が与えられ、愛することが可能となる。

ふさわしくなってから神に近づく、という順番もあるが、神に近づくからこそふさわしくなれる、という逆の順番もある。


 〈5〉諸信心は聖書の心を思い出させてくれる

 このように、「イエズスのみ心」や「神のいつくしみ」、また
「聖母マリアの汚れなきみ心」など、時代の必要に応じて啓示が
与えらているように思う。これらの私的啓示は聖書のメッセージから
逸脱するものではない。聖書に現れた神の愛の啓示はいつの間にか
忘れられて、恐ろしい裁判官の神となる。そのつど、聖書の心、
聖書の文底に帰り、イエスによって示された神の愛はどれほどのものか、
ということを思い出させてくれる。これこそ聖書の中心であり、
キリスト教の出発点だ。これらの信心は私たちの信仰を聖書の心・
聖書の文底へと戻してくれる役割を持っていると、自分なりに
理解している。

 時代とともに罪が増し、社会が罪に汚染され、私たちの人間性が
未熟化するのであれば、わたしたちは到底神に手が届かなくなってしまう。
信仰と愛が未熟化する。しかし父である神は、子供が未熟であれば
あるほどかがみこんで子供に自分を合わせ、そこから引き上げてくださる。
未熟化し、幼児化するのであれば、私たちの側からは神に到達できないが、
私たちを救うための手段を神が提供してくださる。

その救いの根源は、人となられた神の子イエス十字架のいけにえだ。
これが聖書すべての根源だ。それは神の愛の最高の表現であった。
わたしたち人間は、自分の力により頼むのではなく、神であるイエスの
無限の功徳により頼むことによって救いを得る。それは昔も現代も同じ。
「イエズスのみ心」の信心も、「神のいつくしみ」の信心もすべて
そこから力を汲み取っている。


 〈6〉罪人を瞬時にして救ってくださるキリストの力

 修行を積んで聖人となる人もいる。しかし聖人とはいかなくても神は
人を救ってくださる。み言葉の「種」を播き、これに水をやって
「成熟」させ、実をつけ、私たちは救いにいたる。
しかしごくわずかの時間で救ってくださることもある。

イエスが十字架につけられたとき、両側に2人の罪人が磔刑に
されたいたが、そのひとりがイエスの苦しむさまをみて
「この方は何も悪いことをしていないのに私たちと同じ刑を受けている」
ことに驚いて神への信仰を起こし、「イエスよ、あなたがみ国へおいで
になるとき、私を思い出してください」と言った。するとイエスは
「私は言う。あなたは今日、私と一緒に天国にいるであろう」と
おっしゃった。へりくだり、信仰を起こした罪人が一瞬にして天国を
約束された出来事だった。イエスの十字架にはそれほどの力がある。
(ルカ23章)

 神は修行を積んだ人も、積んでいない人をもお救いになることができる。
キリストがご受難とご復活によって勝ち取られた永遠の功徳が
私たちを救う。聖なる人も罪人をもお救いになることができる。
昔のよき時代の聖人たちをも救うことができ、近現代の末世の
未熟な人間をも救うことがおできになる。キリストのおん功徳は無限だ。


 〈7〉リジューの聖テレジアが示した霊性が世界に広まる

時代に応じた信仰のさまざまな形態、という意味ではリジューの
聖テレジアの示した霊性がある。

19世紀のフランスの聖女、リジューのテレジアは日本の信者の間でも
人気がある。彼女が自叙伝で示した道は新たな霊性であった。それは
「子供の道」「委託の道」。昔の聖人のような難行や苦行、さまざまな
修行が心理的に困難になってきたと彼女は感じたのだろうか。
無力な自分を認め、それを差し出し、慈しみ深い父である神に運んで
もらう道を彼女は見出した。

それは瞬く間に全教会に広まった。日本のある司教は、聖テレジアの
霊性がカトリックの神学を変えた、とさえ言った。


 〈8〉まとめ

苦行や修行を重んじる時代もあれば、無力な自分を差し出して神に
引き上げてもらうほうがよい時代もあるように思う。時代によって
変化がありえると思う。聖書の心は変わらない。困難な時代となり、
信仰と愛が冷え切ってしまう時代には、神はますます人間の方に
かがみこんで、ご自分の慈しみと愛により頼むようにと招かれる。

 「罪があふれるところには恵みは更にあふれる」(ローマ5章)と
パウロは言っている。

(「神父の放言」より掲載)


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