
昨日、三嶋のまつりのために町内会の有志らと共に私も参加して、各家の前の道路の両脇に注連縄を飾った。実はこの作業は私にとっては生まれて初めての体験だった。三嶋のまつりは毎年、7月6日から7日までの二日間と決まっているために、今年みたいに5日が日曜日に当るということは滅多にない。だから、これまで仕事の都合で出来ないできたという訳である。
ところで、昨日その飾り付けをやってみて気がついたことがあった。それは、この一年のうちで不幸事があった家の前の縄にはいわゆる「紙垂〔しで〕」という紙を飾らないということである。同時に、同じ班の一員でありながら、ある家のおじいちゃんが亡くなっていたことも判った。こうしたケースは他にも何人かいた。最近では自宅での葬式は止めて、専門のホールなどを借りて執り行う場合が増えているから、新聞などの訃報を見落とすと知らないでいることがあるし、例えば、よそで長いこと暮らしている家族が亡くなったというケースなども実家で葬式しない限り、これまたすぐには判らないだろう。逆に言えば、この注連縄飾りの状態を見れば、詳しい事情は別にしても、”不幸事”があったというサインを示しているということでもある。こうしたやり方をみると、不幸事があった年には玄関のしめ飾りや神棚の注連縄を飾らず喪に服すことに徹するとか、新盆には仏拝みには行かないなどというやり方と考え方は一緒である。
ひるがえって、そもそも、うぶすなの神様を祀っている神社のまつりの際に、道路のところに長い縄を張り巡らして、それに紙垂をぶら下げるいわゆる「注連縄飾り」を行なう習俗は全国的にはどの程度行なわれているものなのだろうか。同時に、そもそも、まつりの際にこうした注連縄飾りを行なう目的とは何だろうか。今まで当たり前のように受け入れてきた、民俗も考えて見れば、不思議なものである。あるネット情報では、注連縄は神社神道では、「社〔やしろ〕」・神域と現世を隔てる結界の役割を意味し、また、厄や禍を祓う結界の意味もあるという。いってみれば、うぶすなが守護神的存在であり、鳥居や神社前の注連縄は護符と共に、氏子らにとっては福を招き入れると同時に、悪なるものを避ける魔よけや邪気祓い、お守りみたいな神祭具だろう。道路の注連縄もこの流れに位置づけられるのだろう。つい最近も、息子が実習生活を送っている弘前のアパートの近くのある民家で、正月でもないにの玄関に注連飾りをしている光景を見つけた。根っこには共通した問題が介在していると思う。