goo blog サービス終了のお知らせ 

ROCK STAR

有名人を紹介します

ウィリアム・S・バロウズ

2006年03月19日 | Weblog

ウィリアム・S・バロウズ。アメリカの男性小説家。1914年2月5日生まれ。

実家は相当に裕福な資産家だった。ハーヴァード大学卒業(英文学専攻)。卒業後は定職に就かず、米国内、欧州、南米を旅行した。ビートニクスと呼ばれるケルアックらと知り合った。 1949年にメキシコ・シティに定住。

1953年に、『ジャンキー』を書く。
モルヒネ、ヘロイン等ドラッグの常習者として有名で、若い時分にはドラッグを妻と共に多量服用し酩酊状態となり、遊び半分でウィリアム・テルごっこをした結果、妻を誤って射殺したなど逸話は数多い。この時期に書かれた初期の名作『裸のランチ』などは後に「書いたことすら覚えていない」と告白している。読んでも全く理解出来なかった(18歳の頃)

 しかし40代のときに15年以上浸ったドラッグと決別、以後はドラッグに反対する姿勢も見せる事となる。

文章を書いた後、それをバラバラに切ってランダムにつなげる、いわゆる「カット・アップ」という独自の文体技法を作り上げ、駆使した。

『裸のランチ』は、カナダの映画監督・デヴィッド・クローネンバーグにより映画化されたが、個人的な意見では「あんな小説を映画化しよう等と考えた事が可笑しいと思う」 1997年8月2日死去(ドラッグ漬けでも83歳まで生きれる)


ゴルゴ13

2006年03月18日 | Weblog
世界最高のスナイパー(狙撃手)「ゴルゴ13」。「デューク東郷」以外の本名、年齢、国籍など一切不明。超人的な肉体と頭脳、精神力とを兼ね備え、その狙撃成功率は99%以上(第三者の妨害などを除けば100%)。いかなる権力や宗教にも縛られず、依頼人が「真実」を話す事のみを条件に狙撃依頼を請け負う。その銃弾は時に歴史を動かし、時に多くの人命を救う。

ストーリーのテーマは、諜報戦に代表される国家間の暗闘、戦争・紛争、ゲリラ活動、テロリズム、麻薬組織など犯罪組織、企業活動、芸術・スポーツなど文化活動、歴史問題・地理問題、最新テクノロジー、ミステリー、自然災害、果ては超常現象など荒唐無稽な事柄までもがその題材となっている。

「依頼者との約束は必ず守る」という信条。そのための超一流の技量とを身に備えた男の中の男。世界情勢や時事問題を巧みに取り込むことによって、冷戦終結で彼が活躍の場を失うのではないかといわれた危惧をも乗り越え、ビッグコミック誌上において30年超の間ただの一度も連載を休まないという快挙を成し遂げている。
また、リイド社よりの単行本も既に139巻(2006年1月現在)を超えている。
全国統計調査によると、「理容店にもっともよく置かれている漫画」第一位。
現外務大臣の麻生太郎は自分の執務室にゴルゴ13のポスターを貼っているのも知られている。


横山やすし(yasushi yokoyama)

2006年03月15日 | Weblog
稀代の天才漫才師。本名は木村雄二(きむら ゆうじ)。高知県宿毛市出身。大阪府堺市に育つ。愛称は「やっさん」。

西川きよしと1966年に「やすし・きよし」のコンビ名でデビューするが、1970年、タクシー運転手に対する傷害と無免許運転事件の影響で長期の謹慎処分を受ける。
数回のコンビ別れをし、一度引退を考え、競艇選手になろうと受験したが、視力が低かった為、不合格になり、 友人の野中和夫(競艇選手)を口説き、野中が競艇学校に通い、競艇選手になったと言う逸話がある。

1983年には日本テレビ『久米宏のTVスクランブル』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、彼のもう一つのライフワークとも言うべき酒に酔っ払いながら暴言を放送中に発したことで問題になったこともあった。また「今日は黙秘権」と一言発すると、放送中全く喋らなかったことも。1986年の参議院選挙で西川きよしが当選した後に行われた『復活漫才』をもって、「やすし・きよし」は事実上活動を停止する。やすしは、きよしの政界転身を裏切りと見て反発していたという。

1989年4月、飲酒運転による事故を起こして吉本興業を解雇される(事故当日、ゲスト出演していたラジオ大阪の番組の収録中に、ウイスキーを飲んでいたと言う)。やすしは多くの報道陣に対し「やめる、もう漫才やめる」と号泣しながら話した。解雇されたのを聞いた西川きよしは「もう、殴ってやりたい。男として、これ以上あの人に情けを掛ける事は出来んし、二度とコンビは組みたくない。」と厳しいながら悔しさを露にしていた。やすしが吉本を解雇されたのに伴い「やすし・きよし」は事実上解散した。1992年参議院選挙の比例代表区に風の会(戦後新右翼)から立候補するも落選。

その後、暴行事件を受けて重傷を負い表舞台からはすっかりと身を引いてしまう。後遺症として、やすしは、漫才師としては致命的な失語症となる。1996年1月にアルコール性肝硬変で急逝。享年51。大阪府吹田市の葬儀場で行われた葬儀・告別式では、やすしの相方だった西川きよしが『ゆっくりしいや、ゆっくり休んでや』と泣き崩れながら弔辞を読み上げた。やすしの遺骨は故人の遺志で海に散骨されたという。

破天荒・破滅型とも言えるほどの私生活。信じられないほどの不祥事を起こし警察沙汰や酒乱等、数々の問題を起こしたが、それよりも彼のキャラクターは、憎まれず、むしろ愛すべき人間であった。この様な芸人は、もう二度と出没しないであろう。㈱三興に似ている人間が居ると思うのは、私だけではないだろう・・・

■有名なギャグ■
毎度!
怒るでしかし
メガネ、メガネ…(眼鏡を頭に置き)
正味の話




Peter Tosh(ピータートッシュ)

2006年03月13日 | Weblog
ステッピン・レーザー(歩くカミソリ)ことピータートッシュ。ボブマーリーとバーニーウエイラーとトリオで「ウェイラーズ」を組んでいたが、その後、ザ・ウエイラーズのギタリストとして良く知られている。

年齢を重ねる毎に、マーリィとバーニーが神聖な仙人の様な雰囲気になるのだが、トッシュだけは、幾つになってもルードボーイの雰囲気を失ず、ウェイラーズ脱退後は、ローリングストーンズレーベルの唯一の、外様アーティストとしてストーンズと親密な時期もあった。

本写真は、ガンジャ畑を背にパイプをキメるトッシュの姿が・・・。
「解禁せよ!=自由に吸わせろ!」と発表されたアルバムのジャケットであるが、これこそが彼が死ぬまで叫び続けたメッセージである。

ボブマーリィーがジャマイカの外に向かうのとは対照的に、内で戦おうとするトッシュの音は、ジャマイカのほこりっぽい空気に満たされていて緊張度が高い音である。

セカンドアルバムの中にある、「GET UP、STAND UP」では「機械文明に侵され、イエス様にすがりつく。俺らは知っている、万能なるジャー(JAH)の神でさえ、ただの人間だ」とウェイラーズのバージョンとは歌詞を変えて歌われている。

また、ネルソンマンデラ解放を音楽界で本格的に叫ばれた頃より10年も前に、「アパルトヘイト」という曲を歌っている。まさにステッピンレーザー(歩くカミソリ)の名に相応しく切れ味が鋭く、死ぬまで音楽に載せ闘争を続けた。

レゲエ界がダンスホール中心となり、トッシュに対する人々の関心が薄れてきた87年9月11日、トッシュは自宅に押し入った強盗に射殺され、ルードボーイで通したその生涯を閉じる。

トッシュ亡き後、バッドボーイを売りにするダンスホールDJは大勢いるが、ピータートッシュを超える域に達したルードボーイは未だかついて居ないし、今後も唯一無二の存在として人々の心に残るであろうカリスマである。


Eric Cantona(エリック・カントナ)

2006年03月13日 | Weblog
90年代最高のサッカー選手。眉毛が繋がっている。

1966年5月24日フランス出身。
1983-1984シーズンに、フランス・オセールにてプロキャリアをスタート。その後、マルセイユ、ジロンディンズ、リーズ・ユナイテッドを経てマンチェスター・ユナイテッドに移籍。マンチェスターユナイテッドでは3度の優勝の原動力になる。クラブファンが選ぶ「20世紀を代表する選手」に選ばれた。重戦車のような体でピッチを駆け回り、相手選手を威圧。しかしそのボールさばきは天才的で、技術的には完璧に近かった。これだけなら他にも優れた選手はいるが、カントナをカントナたらしめたのはその類まれなるイマジネーションであった。ピッチ上で彼に不可能は無く、彼の頭の中で試合をしてるような、それほど他の選手に影響力のある選手だった。ユニフォームの襟を立てる着こなしは、彼が元祖といわれる(ガンバの松波が真似をしていた)。「唯我独尊天上天下」「エリック・ザ・キング」の異名を持つ。その実力と同じ位、ピッチの外での逸話は多い。

1987年8月21日西ドイツ戦でフルデビュー、主力として活躍するが、当時監督のアンリ・ミシェル監督を批判したことにより1年間の代表追放処分を受ける。
その後代表指揮官がプラティニとなると代表復帰を果たすが、パパンとの2トップで期待された1992年欧州選手権は不発に終わった。1994年ワールド杯欧州予選では最終戦にてブルガリアに出場権を奪われる不運、母国開催となる1998年ワールド杯にてメンバーから漏れた事をきっかけに31才にして自ら現役引退を決意、まだまだ余力を残していただけにその早すぎる引退が非常に惜しまれるものであった。当時の監督であったかの有名なエメジャケ監督は、カントナを外しジダン中心のチーム作りを目指す為、カントナに代表に呼ばない旨を通達する時、「殺されると思った」という逸話もある。

その他の、彼のトラブルの数々を紹介しておこう。

87年、チームメイトを殴り罰金、89年、ボールを観客席に蹴りこみ、審判にユニフォームを投げつけチームより無期限出場停止をうける。

90年、チームメイトにスパイクを投げつけ10日間出場停止、91年、審判にボールを投げつけ3試合出場停止。

93年、リーズサポーターにつばを吐きかけ1000ポンドの罰金、UEFAカップガラタサライ戦で審判に暴言カップ戦4試合出場停止。

94年、スウィンドンの選手を踏みつけ5試合出場停止。

1995年1月25日、クリスタルパレス戦においてレッドカードを宣告され退場するカントナに野次を飛ばした(カエル呼ばわりした)パレスのサポーター、マシュー・シモンズ氏に対して、カントナがいきなりとび蹴りを放った(ファンの間では「カンフーキック」と呼ばれる)。カントナは元々あまりおとなしいタイプでは無かったが、さすがにこれには大きな批判を呼び、罰金1万ポンド謹慎処分、裁判では禁固2週間の判決(かわりに120日間の社会奉仕活動1年弱の出場停止処分を言い渡された。

カントナが輝いた時代は、代表でも不遇である為、実質マンチェスター在籍時代の5年間のみだろう。そのカリスマ性、そしてシャンパンサッカーと言われた華麗なフランスサッカーにイングランド(マンチェスター)の荒々しさを兼ね備えたスペクタクルなサッカースタイルがファンの心を捕らえ、そして惜しまれたのであった。1997年に31歳で引退後は俳優、そしてビーチサッカーフランス代表も務める。ナイキのCMの出演が有名。