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ROCK STAR

有名人を紹介します

アリゴ・サッキ

2006年03月28日 | Weblog
アリゴサッキ

プロ経験の無い、元イタリア代表監督。
幼少期のサッキはイタリア人の多くがそうであるようにサッカーが大変好きだった。しかし彼が成長し、一人の自立した大人になってもジョカトーレになることはなかった。彼に選手としての才能があったかどうかすら問題ではなく、靴の製造会社を経営する父親がサッキの意思を頑なに拒否し続け、それが彼のプロ選手への道を閉ざしてしまった。結局、その父親の会社でセールスマンとして働きながらアマチュア5部ディレッタンティでプレーしたのが、彼の選手としてのキャリア全てである。

就職したことで彼のサッカーへの道は完全に閉ざされたかに思えたが、そのことがサッキのサッカーへの情熱を薄れさせるようなことはなかった。たゆまぬ努力により独学でサッカー理論を身につけると少年チームをコーチしながらコヴァルチャーノの監督コースを終了、 1977年で33歳で現在イタリアセリエC1のチェゼーナのユース監督に就任する。

彼の人生の大きな転機が訪れたのは、当時はまだ弱小チームであったセリエC1のパルマの監督に就任したときからである。就任1年目でパルマをいきなりセリエBに昇格されると、2年目から参加したコパ・イタリアで低迷の続いていたあの名門ACミランを2度も破って見せる。

「不調の強豪が格下相手にカップ戦で敗れる」このこと自体はサッカーでは別段珍しくもないことだ。しかしこの出来事に誰よりも強く衝撃を受けたのは、チーム強化を模索する後のイタリア首相、ミランのベルルスコーニ会長であった。サッキ監督率いるパルマが繰り広げる華麗でスペクタクルなサッカーに魅せられた彼は、どこの馬の骨とも知らない人物をいきなりミランのトップチームの監督に就任させるという大英断をすることになる。当然、マスコミからはサッキの監督経験の不足を指摘する声が上がり、シーズンの開幕前からベルルスコーニに批判が集中することになる。しかしサッキ率いる新生ミランは強豪相手に連勝したのを境に、彼の持ちこんだ現代的な戦術理論(ゾーンプレス)と選手の持つ潜在能力がマッチしだしチーム力が一気に開花していく。サッキは就任1年目のシーズンをわずか2敗、43得点14失点というこれ以上無い圧倒的な成績で終え、見事にスクデットを獲得したのだった。

87-88シーズンに圧倒的な力で優勝を飾ったサッキミランは、翌年から数年間にわたり欧州中のタイトルを総なめにすることになる。サッキミランが革新的なチームと言われる理由には、彼の持ち込んだ現代的なサッカーと欧州での国際的な活躍によるところが大きい。なぜならサッキ体制化でミランがスクデットを獲得することは無かったからだ。何故圧倒的な強さを持ちながらも国内タイトルを獲得することが出来なかったのか?理由はいくつかある。

まず、欧州でミランが勝ち上がれば勝ち上がるほど、ミランが日程との戦いを強いられることになったこと。二つ目は、まだ現代のようなターンオーバー制度が考案されていなかったことによりチーム力が安定しなかったこと。三つ目は、サッキミランのサッカーに対して国内のクラブは早々に対策を打ってきており、簡単に勝つことが難しくなっていた点などが挙げらる。

結局、国内での成績に恵まれることになかったことが、サッキのミランでのキャリアに暗い影を落とすことになる。何年か優勝の機会を逃したことで選手・ファン・マスコミなどの強烈なプレッシャーを受け続けたサッキは91年にミランを去る。低迷していたミランを見事復活に導いたサッキだったが、ここまでならば彼がこれほど有名になることもなかったかもしれない。皮肉なことだがサッキがミランを去った後、後任のカペッロ新監督はその戦術を糧として90年代のミランの黄金期を築き上げていったのだった。

追われるようにミランを去ったサッキに用意されていたのは、イタリア代表監督の椅子だった。そして迎えた94年のワールドカップアメリカ大会、イタリアはマイアミの猛烈な暑さのために怪我人を多数出しながらもサッキの采配がことごとく決まり、何とか決勝にまでチームを導く。しかし、メディア全盛時代のもたらした弊害でもある昼間・炎天下での連戦により、イタリアはもとより対戦相手のブラジルも満身創痍の状態で、試合の面白みはすっかりそぎ落とされてしまう。結局イタリアは0-0のPK戦に破れ、準優勝で大会を終える。

その後サッキはヨーロッパ選手権予選の敗退を理由に96年に退任すると、一度、ミランをシーズン途中ながらも指揮するが、チームがすぐにまとまるはずもなくよい成績は残せなかった。その後はスペインのA・マドリードを率いたがやはりここでも戦術がフィットせずその職を追われることになる。解説者やコーチ業を兼任するかたわら、現在はパルマのテクニカルディレクターとしてサッカーと関わっているが、しかし周囲の目がいつまでも「サッキついに復活か?」であることに変わりは無いのだろう。


サッキが用いた戦術は当時としては非常に特徴的かつ革新的なものであった。それまでのカルチョはカウンターを主体としたイタリア伝統の古い守りのサッカーが主体であったのに対し、サッキは彼独自のアプローチから非常に現代的で攻撃的なサッカーを築き上げた。

サッキの戦術を読み取るキーワードは
「プレッシング」
「4-4-2(4-2-4)」
「高いライン(オフサイドトラップ)」
の3つと言える。

戦術家としての側面が強い監督としてのサッキは、1970年代前半から出現したオランダのトータルフットボールの理論を研究し、それを現代でいかにして実践するかを考えていた。サッキが最初に試みたのが小さなエリア(スモールフィールド)を作り出すことだった。全てのエリアで相手にプレッシャーを与え、相手の逃げ道を塞ぐためにDFラインを高い位置設定した組織的なオフサイドトラップの戦術を併用することで効果を倍化させる。プレスをより効果的なものにするためにはプレーエリアを狭めるとともに全てのゾーンを効率よく生めながら、空いたスペースを隣のエリアの選手がカバーする必要があったのだが、そういったサッカーを行うにはライン数の少ない4-4-2のフラットな布陣を採用することになる。

トータルフットボールの再現がその根本にあるということは、サッキの狙いは試合全体を自分達のものとすることにある。基本的にはボール奪取と同時に中盤サイドの両WGに展開してからの非常に素早くシンプルなショートカウンターが主体であったが、そうでない場合、特にミランがボールをキープし続けるような試合しているときには4-4-2というよりは、むしろ4-2-4のような布陣で試合を展開しているシーンも見られるほどだった。

こうして攻守を一体化させたサッキミランのチーム戦術が機能したとき、相手にはもはや何の選択肢も残されてはいなかった。ボールが相手に渡った瞬間から全員で相手にプレッシャーをかけ囲い込んでしまと、相手はそれに戸惑うとともにプレーも直ぐにも消極的になり最終的にボールの保有権を自ら放棄する。
「ボールを持てば取られる・・・」当時のミランの対戦相手の心を支配していたのはプレーの喜びではなく、圧倒的な恐怖心だけだ。そうして試合終了のホイッスルと同時に彼らを肉体的・精神的なダメージが襲うこととなる。戦術家サッキは監督ならだれもが一度は夢見る破壊的でスペクタクルなチームを作り上げることに成功したのだ。

しかしこの圧倒的パフォーマンスを見せた戦術にも弱点はあった。この戦術はプレッシングが成功し、かつラインが高くフラットに保たれて初めてその真価を発揮するのである。つまりこの前提条件が崩れたときにその牙城は脆くも崩れさることになる。

具体的にはプレスのかかりが悪くなると中盤の選手の配置が隔たりスペースを生じる。しかしながらDFはラインの形成とその上げ下げに意識が行き、またラインを崩さないよう訓練されているためラインを飛び出して相手をチェックには行きにくいのだ。ラインの前方にできたスペースは裏を狙うFWへの格好の球出しの供給場所となってしまった。(当時の多くの映像で確認できるように)ミランの失点シーンはDF4人が”カカシ”のように立ったまま相手選手にGKと1対1の場面を作り出されている。このように失点シーンはみっともないが、だが失点自体は少なかったのは面白いところである。

こういった失点の最大の問題はプレスがかからない状況が起こってしまうことでDFには責任はなく、彼も認めていることだがDFラインとMFのスペースが離れることで起こっていた。(具体的にはこのときのミランは30mに全ての選手が入るように訓練されていた。)しかしシーズン中いついかなる相手に対してもプレスをかける必要がある戦術、しかもそうでなければその戦術が破綻してしまうというのはシーズン通じてのプレーを考える際にいささか無理がある。つまり選手に求められるのは第一に高いフィジカルコンディションであり、それをシーズン中繰り返し行う。この選手からの立場の視点を取り入れそこなったことこそ、その後繰り返されるサッキと選手の確執を生んでいる原因の一旦であろうことは容易に想像が出来る。



松田優作

2006年03月26日 | Weblog

松田 優作(まつだ ゆうさく1949年9月21日山口県下関生まれ)

1967年より一年間、叔母とともにアメリカ滞在。1972年、関東学院大学文学部中退。同年文学座に入団。 太陽にほえろ!のジーパン刑事に抜擢される。「太陽にほえろ!」ではジーパン刑事として登場する前にテスト出演し、マカロニ刑事役・萩原健一とも共演している。『狼の紋章』でスクリーン・デビュー。「探偵物語」は名作ドラマとして今も高い人気を得ている。

その後多くのアクション映画に主演、長身でタフなキャラクター・抜群の運動神経と長い手足を生かしたその動きはそれまでの俳優にはない独自のものであり、日本のアクション男優像を刷新した。アクション作品のみにはとどまらず文芸作品や監督業にも進出し多彩な才能を見せたが、1988年、米国映画『ブラックレイン』に出演し念願のハリウッドでの活躍を期待される中、1989年11月6日午後6時45分、入院中の西窪病院で膀胱癌のため息をひきとった。撮影中は、誰にも知られないよう平然を装っていたが、腰の激痛は激しく、人目を忍びマネージャーにマッサージを受けていた。また、本作には刑事役で高倉健が出演(主役級)しているが、完全に松田に喰われており存在感は、まるで無い。それほど、鬼気迫る演技であった。

尚、松田は米男優ロバートデニーロに私淑しており、『ブラック・レイン』以後デ・ニーロとの共演をオファーされていた。その作品は、ショーンコネリー監督予定であった。

最初の夫人は、劇団仲間であり、後に作家となる松田美智子。結婚し長女が生まれるも、女優・熊谷美由紀との不倫が原因で離婚。

その後は、有名な女優の松田美由紀(旧姓熊谷・熊谷真美の妹)1983年に長男・松田龍平が生まれる。現在は、俳優として活躍している。

原田芳雄は兄貴分。また、日本のロックバンドARBのヴォーカル石橋稜は弟分で松田優作亡き後、ARBを一時活動休止、俳優に専念した時期もある。(最近、解散をした)

最近、探偵物語がコーヒーのCMに使われるなど、いまだに、その存在感、カリスマ性は失われておらず、なお根強い人気である。


三原脩(MIHARA OSAMU)

2006年03月26日 | Weblog

三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日)

 香川県立丸亀中学校(旧制。以下同じ)で野球を始める。その後、香川県立高松中学校に転校、高松中では遊撃手として夏の甲子園に出場。卒業後一度は第四高等学校を受験するが、早稲田大学にスカウトされ入学。一年生時から二塁手として活躍する。特に1931年春季の早慶戦第2戦で、投手・水原茂を相手に回して敢行した勝ち越しホームスチールは、早慶戦史に名を残している。しかし結婚を機に野球部を退部。一旦野球から離れてしまう。

1934年6月6日に職業野球契約選手第1号として大日本東京野球倶楽部(現・東京読売)に入団、1936年春季からのリーグ戦には東京巨人軍の選手兼助監督として参加。俊足・堅守の選手だったが、応召で脚を負傷したこともあって僅か実働4年で現役引退。

 太平洋戦争後は読売新聞に記者として勤務していたが、1947年に総監督として巨人に復帰。同年シーズン当初は監督の中島治康が指揮権を有していたが、シーズン途中に成績不振の責任を取り指揮権を総監督の三原に返上。以後シーズン終了まで三原が指揮、この年巨人は5位。翌1948年は全試合で三原が指揮を執り2位。1949年、南海ホークスの別所毅彦を引き抜いた「別所引き抜き事件」の遺恨から、同年4月14日の対南海戦で三原は南海の筒井敬三の頭部を殴打。

いわゆる「三原ポカリ事件」を起こし無期限の出場停止処分に処される。後に救済運動があり出場停止100日に減じられ、同年7月23日より復帰。

三原の離脱があったもののチームは優勝を果たした。 1950年は総監督に就任したが、チーム内の実権は、前年にシベリア抑留から帰還し、この年から監督に就任した水原茂が握っており、巨人での居場所は無かった。

同年オフ、西鉄クリッパーズに移籍していた元巨人の川崎徳次の仲介で、西鉄クリッパースと西日本パイレーツが合併して出来た新生球団・西鉄ライオンズの監督に就任。1956年~1958年に日本シリーズで因縁の水原率いる巨人と激突し、いずれも圧倒し3連覇を成し遂げた。(神様、仏様、稲尾様の言葉は、この時の三原の談話から生まれた)。

1959年限りで退任し、川崎ヘッドコーチにバトンタッチした。 1960年に6年連続最下位に甘んじていた大洋ホエールズの監督に招かれ、最下位からのリーグ優勝、そして日本一に導いた。1968年には4年連続最下位だった近鉄バファローズの監督に就任。1年目4位、2年目には阪急ブレーブスとペナントを争い2位に。1970年限りで退任。近鉄監督時代には小川亨を指導した。

その後、1971年にヤクルトアトムズ監督。1年目最下位、2年目の1972年には4位、3年目の1973年は4位。優勝はできなかったが入団したばかりの若松勉の打撃センスを見抜き、後に若松が大打者としてはばたくきっかけを作った。

1974年日本ハムファイターズの球団社長に就任し、娘婿の中西を監督に招聘。2年連続最下位の責任を取る形で辞任した中西の後を継いで1976年から就任した大沢啓二監督との二人三脚でBクラスだったチームを優勝を狙えるチームにまで育て上げ、1981年には前身の東映時代以来19年ぶりにリーグ優勝を果たした。

この間東映時代の主力を次々に放出させ、リーグ優勝時に残っていたのは宇田東植と岡持和彦(宇田は1981年オフに阪神タイガースに移籍)だけだった。1978年の江川事件では、11球団で最後まで江川卓の巨人入団に反対したが、大勢を変えることはできなかった。 選手の調子・ツキを見逃さない慧眼の持ち主で、時に周囲の予想を超える好采配をしては「三原魔術」と驚嘆を受けた。1983年野球殿堂入り。

球団社長在職中の1984年2月6日、糖尿病の悪化による心不全で死去。享年72。


文世光(ムン・セグァン)

2006年03月23日 | Weblog

文世光(ムン・セグァン-事件当時22歳)在日韓国人。

1951年、日本大阪の東住吉で石綿製品製造業を営む家の三男に生まれた。本籍は慶尚(キョンサン)南道・チンヤンとなっている。日本で高校2年で中退した。その後、大阪在日韓国人居留民団・生野北支部に加入、工場勤労者、ビルの外壁ガラス清掃などをしながら生活した。

文世光が共産主義に没頭したのは高校時から。「金日成選集」、「毛沢東語録」など各種の共産主義書籍を読み漁り、全世界の赤化に熱中したと明らかにしている。

 1974年8月15日に、当時の大韓民国大統領朴正煕の暗殺を企て。大統領夫人、陸英修など2名が射殺された事件の実行犯。この日は日本からの開放記念日である光復節の祝賀行事がソウルの国立劇場であり、朴大統領夫妻がその行事に出席いた。

赤化統一(南を共産化し、北の思想で統一する事)を目指した文は、1973年10月ごろ、朴大統領の暗殺計画を思い立ち、高校時代の友人、ヨシイ・ミキコ(共犯)と大阪のある喫茶店で「韓国で革命を成し遂げるには朴正熙を殺すしかない」と切り出した。

文世光は73年11月、在日朝鮮総聯大阪生野西支部政治部長、金浩竜(キム・ホリョン)から50万円の工作金を受け取った。74年5月、大阪に停泊していた万景峰号で思想教育を受ける。

(キム・ホリョン)の指導の元、用意を着々と進めて(文世光は大阪の派出所の裏門から侵入し、拳銃2丁と10発の銃弾を盗んだ。偽のパスポートや韓国ビザも準備した。) 文世光はトランジスターラジオに拳銃を隠して、8月6日金浦(キムポ)空港を通じソウル入りする。 エックス線検索台は無用だった。ソウル朝鮮ホテル1030号に泊まった文世光は清平(チョンピョン)などを観光し、時間を過ごした。

8月15日、文は日本政府高官になりすまし、1万ウォンでレンタルしたフォードM-20で国立劇場に到着。文世光は大統領夫妻が劇場に入場する瞬間、暗殺を図るが、大統領が歓迎の子どもたちに囲まれていたため、チャンスを逃す。

朴大統領が祝辞を読みあげている途中に、文が壇上に向け5発拳銃を発射する。

 1発目誤射、自分の太もも貫通。銃声はスピーカーの音で消された。

 2発目防弾演説台上部、朴正熙大統領がとっさに演壇後ろに身を隠す。

3発目不発弾。目標を失った文は、陸夫人を目標に変更。

4発目陸英修(ユク・ヨンス)大統領夫人の頭部右側に命中。すぐさま文世光が出席者に倒される。

5発目演壇後ろの太極旗に発射。また、援護した警備員の流れ弾で女子高生が死亡。

文は韓国捜査当局の調べに「短銃は大阪府警高津派出所から盗んだ」と自供し、韓国側は日本の責任を追及、反日感情が高まった。韓国当局は事件の背後に在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)がいる可能性が高いとみて、日本側に朝鮮総連の規制を要請。日本側は「国内法」を根拠に拒否した。

当時の田中角栄首相は8月19日、死亡した陸英修夫人の国民葬に参列。当時の自民党幹部が訪韓し、日韓関係修復にも動いた 10月7日に初公判が開かれ、文は法廷に立った。文は大筋犯行を認め、10月19日に1審、11月20日に2審、12月17日の最高裁ですべて死刑が宣告された。宣告から3日後の12月20日、ソウル拘置所で文の死刑が執行された。

 執行の日、文世光は「執行するのですか」と問い、拘置所長は「そうだ」と答えた。文世光は頭を下げ、しくしく泣き始めた。 「私はバカでした。韓国で生まていれば、こんな犯罪をしでかすことはなかったでしょう。朴(正煕)大統領に本当に申し訳ないという言葉を伝えて下さい。国民にも申し訳ないという言葉を伝えて下さい。陸女史と、死んだ女子学生の冥福を、冥土に行っても謝ります。朝鮮総聯にだまされて、このような過ちを犯した私は馬鹿だったので、死刑になって当然です」涙声で話したため、彼の最期の陳述は途中途中でとぎれた。

つづけて、家族へ遺言した。「母上には、子どもの不孝と、期待外れだったことについて、申し訳ないと言葉を伝えて下さい……」まもなく顔に白袋がかぶせられて死刑が執行された。午前7時30分だった。

 朴正煕大統領は、日韓併合時の1944年に日本の陸軍士官学校を卒業(57期)。終戦時は満州国陸軍中尉だった。その後、大韓民国が独立した後は、新たに創設された韓国軍に入隊した。しかし南朝鮮労働党に加入し、軍内工作の首謀者であったことが粛軍運動で発覚して逮捕され、死刑を宣告される。だが、南朝鮮労働党の内部情報を提供したこと、北朝鮮に通じていることが米軍当局に認められて釈放された。 朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰し、さらに戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。

1961年5月16日、「軍事革命委員会」の名の下、張都暎らとともに軍事クーデターを起こす。これらの権力奪取の過程で軍事独裁政治色を強めていくことになる。それゆえ、頻繁にデモが起こるようになるが、武力でこれらを押さえ込んだ。また、腐敗政治家の排除・闇取引の摘発・治安向上を目的とした風俗店摘発なども行い、「ヤクザも敵わぬ朴将軍」と言われるようになる

当時の韓国の社会情勢は、1968年1月の北朝鮮による青瓦台襲撃未遂事件。

1968年4月青瓦台襲撃未遂事件に報復のため684部隊創設、実美島(シルミド)で訓練し、その後の太陽政策にて計画を撤回し、684部隊の反乱が起こる(映画シルミドで詳しく)

1973年8月8日金大中(のちの大統領)拉致事件などがあり、時代は混迷を極めていた。また、文世光事件は「金大中(キム・デジュン)拉致事件」の1年後に発生した。

この問題と独裁に対する批判などで窮地に追い込まれた朴正熙政権が、局面を転換するために事件を企てたという小説のような陰謀論もあった。

 しかし、その朴正熙大統領自身も、釜山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭KCIA部長によって射殺された(10・26事件)

梁石目(ヤンソギュル)の「夏の炎」に宋義哲という主人公が出てくるが、これは文世光をモデルにしている。


根本陸夫

2006年03月22日 | Weblog

根本陸夫

日本大学第三高等学校→日本大学専門部→法政大学から日本コロムビアを経て、1952年近鉄に入団(捕手)。学生時代にバッテリーを組んでいた有名選手に関根潤三が居る。

大学時代は、のちの安藤組(安部譲二在籍)組長、安藤昇(法政大学同期)と銀座で暴れまわっていたなどの逸話がある。

選手としては活躍できず1957年引退。その後はスカウト(この時期に各地方の有名監督などとのパイプを作る)を経て、1962年から1966年まで近鉄コーチ。その後、1967年広島のコーチ。翌1968年辞任した長谷川良平監督の後任として監督に就任。1972年限りで退任。

この間、鉄鋼商社を友人と立ち上げ経営を行う(これがのちに、新日鉄の有力選手を獲得出来る基礎となる)

1978年にクラウンライターライオンズの監督。真弓⇔田淵の交換トレードなどを行い、翌年の1979年には西武鉄道の堤義明社長が買収したため球団名が西武ライオンズに変更され、同球団の初代監督となる。

西武時代は、他球団との大型トレード補強。また、森繁和・松沼博久・松沼雅之・石毛宏典・杉本正・秋山幸二などをドラフトなどで獲得し黄金期の礎を築いた。1981年限りで退任。1982年からは西武の管理部長。この間、ドラフトでサプライズ指名などで有力選手を獲得し黄金期を陰で支えた。

1986年には広岡の後任監督として森祇晶を据える。 監督退任後も片平晋作・高橋直樹・江夏豊・田尾安志・鈴木康友・平野謙・鹿取義隆・中尾孝義など他球団で活躍した選手をトレードなどで獲得し、常勝軍団へと成長させた。また、実質上球団経営にも携わり坂井保之球団代表(のちのダイエー球団代表。)とともに1980年代のライオンズを支える原動力ともなった。また、台湾の有名投手郭泰源を獲得し西武と台湾球界の太いパイプも築いた。

1993年福岡ドーム完成を機にダイエーの代表取締役専務兼監督に就任。監督として現場の指揮を執る一方、球団経営にも尽力した。1994年には秋山・渡辺・内山智之と佐々木誠・村田勝喜・橋本武広の交換トレード「世紀のトレード」を敢行。1994年限りで退任し、王貞治を後任監督に招聘する。

読売の監督に復帰することを熱望していた王は根本に対し無理難題を要求する。その全てを解決し、結果、王は監督になる事を了承した(その課題の一つに、台湾でのペナント開催などがある) 。

この間、小久保裕紀・城島健司・藤井将雄・斉藤和巳・井口資仁・松中信彦などをドラフトで獲得し、ダイエー初優勝の土台を築いた。その後、球団内での影響力も薄れ、退任をほのめかしていた所、「サイン盗み疑惑」があり危機的対応を行う人間が不在の為、球団も根本に頼らざるを得なくなり、1999年1月に球団社長に就任する。しかし、3ヶ月後の4月30日に急性心筋梗塞のため死去。享年72。その年のダイエーの球団創設11年目にしての初優勝を目にすることはかなわなかった。

 球界の風雲児であり、仕事人などの、あだ名があり、パリーグの実力、人気向上を望み、球界ルールギリギリのドラフト指名。現西武ライオンズ監督の伊東勤を球団職員に招き、翌年のドラフト指名を行うなど、エピソードは数知れず。

また、学生時代に安藤組組長 安藤昇と愚連隊まがいの乱闘騒ぎを起こしていた事等から「あの人の背中には、彫り物がある」などの噂もあった。 しかし、一生を球界の人気球団、読売巨人打倒、パリーグ球団の人気・実力向上。日本シリーズでON対決を実現するという夢。野球のワールドカップを行う事を最後まで唱えていた意味では、現在のWBC優勝及びホークスを常勝球団にした事。ロッテ、日ハムなどのパリーグチーム人気向上など天国で微笑んでいる事であろう。彼の一生を書いた本に「球界地図を変えた男・根本陸夫」浜田昭八/田坂頁二著(ベースボールマガジン社)などがある。