雑感2011~軽井沢高校校長室から

校長の視点で書いた折々の感想や校内外へ寄稿した文章を掲載します。ご愛読ください。

 1月16日(月) 「当たり前」のことと「有り難い」こと 32

2012年01月16日 | エッセイ

 先週の火曜日、1月10日から3学期が始まりました。
 凛として冬の軽井沢らしい日が続いています。
 今日も「真冬日」でしたが、最低気温は-6℃台、特別に気温が低いというわけではないのですが、陽が出ていないせいでしょうか、日中も気温が上がらず、みな口々に「今日は寒いですね」と言い合っていました。

 さて、現在軽井沢高校へは自宅から通勤できていますので、犬の散歩を毎朝の日課にしています。
 夜の帰宅時間は日によっては当てになりませんが、朝は、泊まりの出張でもない限り自宅にいるので、自分の運動も兼ねてそうしているのです。
 夏場はしらじらと夜が明けるころに出かけるのですが、冬場になると、真っ暗な中、暖かい格好をして、月星と街灯の明かりを頼りに、白い息を吐きながら歩くことになります。
 そんな時刻でも、数は少ないものの、新聞や牛乳の配達車や、出勤と思われる人の車とすれ違うことがあります。
 一戸建ての家や集合住宅の何軒かに、明かりがついているのが見えます。
 暗闇に点る家の明かりを見ると、この家にも人(家族)が暮らしていて、一緒に食事をしたり、テレビを観たり、泣いたり笑ったりしながら毎日の生活を送っているのだろうな、といつも思います。
 特に昨年の大震災以降は、そういった「当たり前」の日常が、実は「当たり前」ではなく、とても尊く「有り難い」ものなのだと強く思うようになりました。

 そんなことを毎日考えていたせいでしょうか、ある映画の中で、観覧車から町を見下ろしながら一人の女性が発した言葉が心に残りました。
 彼女は、日頃は大きく見える家々がとても小さく見えることを言い、少し前までは誰も知らない都会の喧噪の中に紛れていたいと思っていたが今はそこに住む一人一人に声を掛けて話をしてみたい、と言うのです。
 ある出来事をきっかけに心を閉ざし人との接触を断ってきた女性が、以前のように前向きに生きてみたいと思い、その気持ちを絞り出すように言葉にした瞬間でした。
 その女性とは、榮倉奈々さん演じる「ゆきちゃん」、映画は、12月6日(火)の記事に「万難を排して観に行きたい」と書いた「アントキノイノチ」です。
 この映画がついに地元で上映されました。
 予想どおりわずか2週間程度の短期間の上映で、今週の金曜日までしかやっていないということなので、唯一のチャンスである先週末に観に行きました。
 映画館で観た映画は必ずパンフレットを買うようにしているのですが、今回購入したのが上の写真です。
 映画は、期待に違わぬすばらしい作品でした。
 できたら原作と映画、両方を体験してほしいのですが、映画を観る機会が当面ないという人は、ぜひ原作を読んでほしいと思います。

 以前「原作のある映画は原作とはまったく別のものとして観た方がいいのではないか」というようなことを記事の中に書きました。
 先日、映画「容疑者Xの献身」がテレビで放送されたので、録画しておいて時間のあるときに観ました。
 この映画も映画館に観に行ったものですが、再度観ても、初めての時のように画面に引き込まれ、心が大きく揺り動かされる、文句なしにすばらしい作品でした。
 「容疑者Xの献身」の場合には、設定もストーリーも原作に忠実です。
 にもかかわらず、原作を読んだ人にとっても、映画として非常に高いレベルの作品として成立しているのは、まず原作自体が図抜けてすばらしいこと、その上で、スタッフや出演者が、原作の風景や心理を、映像の力を最大限に使って描き切ろうとしたからではないかと思います。
 一方「アントキノイノチ」は、さだまさしさんの原作と比べると、設定や筋書きは大きいところでは変わらないものの、榮倉奈々さん演じる「ゆきちゃん」が遺品整理業社で岡田将生さん演じる「杏平くん」の先輩社員という設定になっていたり、その2人が同じ高校の出身ではなかったり、原作にないシーンが出てきたり、原作にあるシーンでも違う描き方をしたりしています。
 特にラストシーンは原作とはまったく違うものになっていて驚きました。
 言い換えれば、原作をスタートラインとして、映像を作り上げていく中で、設定もストーリーも別のものにする必然性が出てきたということでしょう。
 そして、どちらにも共通しているのは、映画作りにかかわった人たち一人一人が原作を強烈に「咀嚼(そしゃく)」し、自分たちに引き寄せて血や肉とし、本当に伝えたいことを伝えるためにはどう描くのが一番いいのか、必死で考え、もう一度自分のものとして自分たちの中から吐き出した映画なのではないかということです。
 原作に忠実か原作と異なるかということはあくまでも表層の姿で、どちらも、真に伝えたいことを伝え切りたいという思いが根っこにある、とでも言ったらいいでしょうか。
 と書いて、ふと、不易と流行という言葉が浮かびました。

 最近、日本の映画界やドラマ界に監督や脚本家など独創的で発想力豊かな人材がたくさん出てきていますが、若い人を含めて、本当に演技のうまい役者さんが多いなあということも思います。
 その人たちに共通して感じるのは、「演じる」ことと真剣に向き合い、悩み、試行錯誤をくり返し、迷いながらも「これ」と思ったことを演じて‘みている’のではないか、ということです。
 若手の俳優が共演してみて「すごい」と言う役者の一人に、大ベテラン、大御所の山崎努さんがいます。
 山崎さんは台本にびっしりと書き込みをし、自分なりの役づくりを仕上げて現場に臨むと言います。
 若いときに努力や工夫をしたとしても、ベテランになってから、それまでの経験だけを頼りに軽く役をこなす人がいるとすれば、おそらくその人の演技は次第に人の心を打たなくなっていくでしょう。
 面接の時などに生徒によく話すのは、「大人を含めて自信満々に見える人だってみんな不安を抱えている。不安があるから一生懸命努力しようと思う。方法や見通しに100%自信があるわけではない。でも、できることはすべてやった、最大限の努力をしたということに自信を持って物事に取り組むことはできるし、そのことがいい結果につながることは多い」ということです。
 誰かに合わせて動くのではなく、また適当に帳尻を合わせるのでもなく、自分自身で真剣に考え、「これだ」と思ったことを本気でやって‘みる’。
 「アントキノイノチ」の関係者は、役者だけでなくスタッフも当たり前のように、遺品整理業を体験したそうです。
 遺品整理業を体験してもいい作品ができるとは限らないが、体験しなければ実際のところはわからない、ということでしょう。
 「容疑者Xの献身」で犯人役を演じた堤真一さんは、「くたびれた感じ」を出すために前髪を抜いたそうです。
 そのことをインタビューで訊かれ、「でもそれは一番簡単な役づくりですから」と、当たり前のように答えていました。

 仕事や勉強のために、あるいは日々の生活の中で、大変なことを厭わず、当たり前のようにやれる人はすばらしい人だと思います。
 そして、きっと、その積み重ねが、その人を高みに導いていくのだと思います。