カロカンノート

へぼチェス日記

最新の画像もっと見る

180 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (たなか)
2020-11-05 16:50:41
あーるでこ
返信する
Unknown (たな)
2020-11-06 14:41:54
ルイ15世末期の1770年代前半になされた司法改革は、それがルイ15世の死により頓挫して、旧パルルマン法院が復帰することで終わるにしても、フランスの法律家社会に修復できないくらいの亀裂を入れた。モープーの改革当初の弁護士たちは、追放された司法官たちに連帯して新法院での業務を行おうとしなかったのであるが、モープー側は代訴士にも弁護士業務を可能にするなどの揺さぶりをかけ、1771年11月にパリ弁護士会の半数は職務に復帰することになる。しかし残りの半数はストライキをしているわけで、モープー期の1771年から1774年のあいだ弁護士会名簿は出されず、弁護士会は休止状態にあったのである。弁護士会に所属していたわけではないボーマルシェが訴訟趣意書を書いたのがこの時期であることにも注意しておこう。
返信する
Unknown (たな)
2020-11-06 14:56:54
結局、このモープー期の経験、すなわち弁護士会の一枚岩的な統制が不能となったこと、法律職の排他性が掘り崩されようとしたこと、弁護士の行為規範も機能停止に近かったことなどは、その後フランス革命にいたるまでのパリ弁護士会における除名件数が5名しかないことに象徴されるように、1770年代以降の訴訟趣意書やその書き手の自由が拡大したことにもつながっていよう。直接的な証拠とは言えないかもしれないが、1751年のパリ弁護士会による除名者には5名の作家活動をしていた弁護士がおり、1760年代にカラス事件等で活躍する弁護士の一人ロワゾー・ド・モレオンは小説のように読まれる訴訟趣意書を出し、自らを法律家より雄弁家と任じていた人物だが、1768年に弁護士会をはなれている。これにたいし、1770年代のボーマルシェの例のほか、1780年代に不倫問題からはじまったコルヌマン事件で夫のがわの弁護を引き受け訴訟趣意書を書いたベルガスという人物は、法学位は持っていたものの、弁護士会名簿には名前がなく、相手側はこの訴訟趣意書が無署名である点を攻撃するのだが、弁護士会も当局も対応した気配はないのである。
返信する
Unknown (たな)
2020-11-06 16:04:20
以上をおおよその背景として、つぎに当時の世論の注目を集めたいくつかの冤罪事件をみていくことにしよう。
最初に紹介する事件は、まだ若いお手伝いのサルモンが主人殺しの罪で死刑を言い渡されたケースである。この事件はまさに小説かドラマのような展開を見せる。ヒロインとなるマリー=フランソワーズ=ヴィクトワール・サルモンは1763年にノルマンディー地方の日雇い農家の家に生まれ、この時代珍しいことではないが、15歳で家をはなれて隣町のバイユーに出て、お針子をしていた。1781年のこと、教区司祭が力づくで犯そうとしたが、幸いにも現場が押さえられ、司祭は有罪となった。しかし彼女は悪意のうわさなどに耐え切れず、彼女と面識のあった検事ロラン・ルヴェルのすすめで、1781年8月1日、カーン市に行き、ユー=デュパルク家に住み込みの家政婦としてはたらくことになった。(実はこの検事もサルモンへの下心があったが、振られていた。)
この家にはユー=デュパルク夫妻、子供が三人、そして夫人の両親がいた。事件はサルモンが来て一週間もたたない8月6日に起こる。この日の朝、サルモンはユー=デュパルク夫人にいわれて、夫人の88歳になる父親のためにミルク粥を準備し、その後、使いを命じられる。そしてもどってみると、この老人は激しい疝痛に突然襲われていて、医者や司祭が呼びにやられていたのだった。老父はその日の夕方に死亡する。この死は痙攣と嘔吐を伴っていたこともあり、食事を準備したサルモンに毒殺の嫌疑がかけられたのである。しかも翌日、サルモンの着ていた服のポケットからヒ素と思われる白くきらきらするものがみつかり、その場で逮捕されてしまう。
返信する
Unknown (たな)
2020-11-06 16:36:27
一審はカーンのパイイ裁判所ではじまる。ところがこの担当検事が、この間サルモンに言い寄っていたロラン・ルヴェルだったのである。審理はずさんさが目立つ展開となっている。たとえばサルモンに有利な証言は取りあげられず、ユー=デュパルク夫人が申し立てていたサルモンによる盗みは証明されないままであり、そして何よりも、老人の死の翌日に姿をくらませた長男を尋問することもなかったのである。そして1782年4月18日、検事の求刑通り、パイイ裁判所はサルモンを主人毒殺で有罪とし、共犯者を自白させるための処刑先行拷問のあと、火刑に処すとの判決を下したのである。この一審判決は死刑であることから、自動的に上訴され、事件はルーアンのパルルマン法院に移った。だがここでもサルモンが無罪になるのぞみはないも同然だった。とういうのも法院検事にロラン・ルヴェルの兄弟がいたからである。法院は約1か月後の5月17日に一審判決を支持する判決をし、処刑の日を5月30日とした。
とうとうこの5月30日がやってきた。処刑台はカーンのマルシェ広場に建設され、5000人もの見物人が押し寄せたという。だがサルモンはここで賭けに出る。判決は処刑前の先行拷問を科しているが、サルモンは拷問室で自分は妊娠していると申し出たのである。助産婦が呼びにやられたが、はっきりしたことがわからず、処刑は延期となった。
返信する
Unknown (たな)
2020-11-06 16:55:48
この機会に、獄中で彼女の無実を信じてくれた聴罪司祭たちがルーアンの法院弁護士ルコーショワに事件の調査を依頼する。この弁護士は貧しきものや弱き者のための法廷活動で知られる人物だった。ルコーショワは資料を検討した結果、事件の再審理のために動き出し、たまたまルーアンにいた国璽尚書のミロメニルに直接、執行延期を願い出るのである。こうして執行延期の命令は出るが、命令書の送付はゆっくりしていて、なかなか到着しない。サルモンの妊娠の申し出は虚偽であることが分かったので、7月29日にあらためて処刑される予定であったが、執行延期の書状が届いたのは7月28日、開封されたのは29日当日であった。処刑台はふたたび解体された。
事件は国王国務会議に移り、再審の可否が決定するまで2年ほどかかる。再審開始の決定が出るのは1784年5月18日のことである。
返信する
Unknown (たな)
2020-11-06 17:02:36
再審はルーアンのパルルマン法院で行われる。だがまたもルーアン法院はよく1785年3月12日、死刑の原判決は取り消したものの、さらに証拠が集められるまでサルモンは監獄にとどめ置かれるとのいわゆる「より詳細な証拠調べ」の判決を下した。弁護士たちのさらなる尽力により、同年の10月20日、国王国務会議はルーアン法院の判決を破棄し、こんどはパリのパルルマン法院に一件資料とサルモン自身を移送した。ついに1786年5月23日、パリの法院重罪部法廷は全員一致でサルモンを無罪放免とし、ルーアン法院管区のノルマンディー全土にこの無罪判決を掲示することが命じられたのである。(p180)
返信する
Unknown (たな)
2020-11-06 17:28:27
ふたたびノルマンディー地方でおこった事件を紹介しよう。こんどもお手伝いの女性が死刑台から救い出される事件である。容疑は絹のハンカチとワインとお金を盗んだというものであるが、これはまったくの濡れ衣であった。というのもこのお手伝いマリー・クレローは主人のティボー家(ルーアンの裕福な商家)の腐敗に嫌気がさし、主人から襲われそうになったを機にやめ、彼女のほうが1784年の秋にルーアンのパイイ裁判所へ、自分のためた500ルーブルの返還請求訴訟をしていた。ティボーは裁判に負けそうになって、逆に1785年の5月、クレローを「家事使用人の窃盗」で訴え、一審のルーアン・バイイ裁判所はその年の7月の絞首刑の有罪判決を下し、パルルマン法院も追認した。このときクレローの聴罪司祭から話を聞いたルーアンの弁護士フルディエールがいそいで訴訟趣意書を書き、法院に再考を促したのである。法院は同年8月12日に死刑判決は取り消したものの、弁護士の訴訟趣意書は相手方を中傷しているとし、しばらくはフルディエールとティボー側との非難合戦が数年間繰り広げられることになる。フルディエール弁護士の訴訟趣意書は刑法改革の観点からは、直接、刑事法典を批判するというより、手続き違反を論じる(例えばティボー側の証人は親族や親しい友人になっていて無効である、など)ものであった。
返信する
Unknown (たな)
2020-11-06 17:44:58
ただ文章のスタイルはメロドラマ的で、またルソー的な描き方を取り入れるなどして読者を引き付けようとしている。ちなみにフルディエールの蔵書は900冊もあり、そのうちの100冊程度は啓蒙思想家の作品である。彼は革命期の立法議会にも選出されている。(p183)

次に述べるケースはやや色合いがちがってくる。まず有罪判決を受けるのが社会的に下層の男性で、弁護に回るのは偶然い事件を聞き知った裁判官であり、つぎに告発側個人の横暴さなどよりも法制度上の欠陥が強く批判されることになる。したがって訴訟趣意書そのものが裁判所当局のはげしい反発を招いている。つまりメロドラマ的というよりも政治的な論争を巻き起こす内容が訴訟趣意書に込められていたのである。
「三人の車刑囚の事件」とよばれるのがそれであり、その訴訟趣意書を書いたのが開明的な司法官デュパティ(CharlesMarguerite Dupaty)である。
返信する
Unknown (たな)
2020-11-06 18:00:35
事案は1783年1月29日から30日の深夜、シャンパーニュ地方の農家に三人組の男が押し入り、農家の5、60歳代の夫婦をしばりあげ、現金およそ150リーブルと銀の十字架そして衣服類を奪って逃げたというものだである。被害者夫婦の供述をもとに、まもなく日雇い農でときどき物乞いもしていたラルドワーズ、馬や家畜の取引商人で義理の兄弟関係にあるブラディエとシマールが逮捕された(当初もう一人逮捕されていたが獄中で死亡)。
その根拠はブラディエの赤いジャケットが強盗のひとりと同じ服装であったこと、シマールが銀の十字架をもっていたこと、そして犯行前日三人が酒を一緒に飲んでいたことによる。事件は裁判管轄の問題など絡んで、ようやく実質審理がショーモンのバイイ裁判所で始まるが、それは1785年6月のことである。2年以上ものあいだ三人は勾留されていたことになる。判決は2か月後の8月11日、三名とも終身ガレー船徒刑とされた。この量刑には検察側が軽すぎるとして、いわゆるアペル・ア・ミニマの上訴をパリのパルルマン法院に行う。法院判決は二か月後の10月20日に出る。それは検察側の主張を受け入れ、被告人側の無実の主張を退けて、三名を車刑の死刑にするものであった。
返信する

コメントを投稿