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枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

西海の教会堂を訪ねて その8 青砂ケ浦天主堂 (五島、中通島)

2018-05-09 | 教会・天主堂を訪ねて
青砂ケ浦(あおさがうら)天主堂 。上五島、奈摩郷青砂ケ浦の地に、明治43年の献堂。鉄川与助、3棟目の天主堂です。重層屋根構造、レンガによる帯状装飾によって3分割され、バラ窓や縦長アーチ窓によって飾られた外観。さらに細かく見れば、色の違うレンガと石材を多用した窓周り、入口周りの立体感に惹かれます。内部は3廊式、主廊部、側廊部ともに漆喰仕上げの4分割リブ・ヴォールト天井。高く美しい天井に迎えられ入堂すれば、その荘厳さに声を失うほどです。日本人設計者の手で建てられた最初の本格的天主堂と評されるこの御堂。国重文指定。

私が訪れたのは朝。奥様方4、5人が掃除の最中でした。赤ん坊を背負った方もいます。
「ごくろうさまです。素晴らしいお堂ですね・・・」と声を掛けます。恥ずかしそうに頷いて手を動かされているだけでした。

ここで、五島とキリシタンの係わりについて記しておきましょう。

五島のキリシタンの歴史は、江戸時代中期、寛政9年(1797)、大村藩内外海(そとめ)地方(現長崎市)の信徒を開拓のために五島に移住させたのがその始まり。それを契機として、信仰の自由をもとめた移住者は3000人を超えたと言われます。
そのころ歌われた俗謡・・
        五島へ五島へと皆行きたがる
        五島はやさしや土地までも
        ・・・・・
        五島は極楽行ってみて
        地獄よ地獄よ
        二度と行くまい五島の島へ
江戸時代を通じての禁教の間、西九州の各地に隠れ住んだいわゆる「かくれキリシタン」。明治6年、禁令が解かれるまでの250年もの長い期間、その信仰を保ち得たということ。それは驚くべきことです。江戸時代の初め、外海に居て殉教したというバスチャンという名の日本人伝道士。「バスチャンの予言」という言い伝えがあったそうです。それは、7代の後、神父が黒船に乗ってやってくる・・やがて、大きな声でキリシタンの歌が歌える時代が来る・・といった予言。250年の間、かくれキリシタンの心を支えたと言われます。かくれキリシタンが露見し弾圧される事件を、キリシタン側では、信仰組織の破壊と見なし、「崩れ」と呼んだそうです。それは、江戸中期の浦上1番崩れから明治3年の4番崩れまで続きます。明治の世になる直前、これらの弾圧を避けて、五島 に逃亡した森松次郎は、有川蛤や頭ケ島に居を構え、五島各地に潜むキリシタンをまとめたと言います。バスチャンの予言の通り、すでに長崎に建てられたフランス寺(大浦天主堂)に来ていたプチジャン司教に来島を依頼します。来島した司教の代理クザン神父からミサと洗礼を受け、多くのかくれキリシタンは、教会に復帰した復活キリシタンになったと伝えられています。

・・それから、五島の島々の入江、入江に多くの天主堂が建てられました。そうですね・・。大きな声でキリシタンの歌が歌える世になったのでしょうね。(2009年11月)





































































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