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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

内神田鎌倉町会

2007-05-13 15:10:17 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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天正18年(1590)に徳川家康は江戸城へ入り、「鎌倉町【かまくらちょう】」の付近は江戸城の築城【ちくじょう】工事の際、資材の荷揚げ場【にあげば】となっていました。多くの材木石材が相模の国【さがみのくに】(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚場が「鎌倉河岸【かまくらがし】」と呼ばれ、それに隣接する町が「鎌倉町【かまくらちょう】」と名付けられたといわれています。
 
 鎌倉町【かまくらちょう】は400年以上の歴史がある江戸最古の町の一つです。本年は、明暦3年(1657)に「新添江戸之国【しんてんえどのくに】」に「かまくら丁」の名が記載されてから350周年目の年になります。

 町内にある御宿稲荷神社【おやどいなりじんじゃ】は、小さいながらも江戸が都市化する以前から祀【まつ】られている数少ない神社の一つです。家康がはじめて江戸に来たときに、一夜を明かした家の庭に祠【ほこら】があり、後に幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進【きしん】されたため、世に御宿稲荷神社の大神【だいしん】と祀られるようになりました。本年5月に新築された美しい社殿をご覧下さい。 

 町会の該当区域は内神田一丁目一番5~9・12・14号、5~8番及び内神田二丁目1~7、内神田三丁目1~4となっています。


 当町会の神輿は朱色【しゅいろ】の飾網【かざりあみ】が美しい、2尺5寸の大神輿です。昭和38年に宮本重義【みやもと しげよし】により作られました。担ぎ手の緑色の衣装【いしょう】と神輿の鮮やかな対比をお楽しみ下さい。綺麗な担ぎ方が当町会の自慢です。



司町二丁目町会

2007-05-13 14:58:18 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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「司町二丁目【つかさちょう2ちょうめ】」は、「新銀町【しんしろがねちょう】 、雉子町【きじちょう】 、関口町【せきぐちちょう】 」等が合併し、昭和10年に設立しました。

 新銀町【しんしろがねちょう】は江戸時代に銀細工を扱う者が住んでいたことに由来し、明治5年に設立しました。

 このうち雉子町【きじちょう】には、『江戸名所図会』 【えどめいしょずえ】を親子三代にわたって完成させたことや、『東都歳事記【とうとさいじき】 』『武江年表【ぶこうねんぴょう】 』などで有名な、斎藤 月岑【さいとう げっしん】が住んでいました。斎藤家は代々、雉子町【きじちょう】の名主をつとめていました。

 関口町は江戸時代に開かれた町屋で、関口弥太郎【せきぐち やたろう】という人物が草創名主【そうそうめいしゅ】だったので、それに因【ちな】んで名付けられたといわれています。
 
 町会の守護神として、「真徳稲荷【しんとくいなり】神社」が祀られており、五穀豊穣【ごこくほうじょう】、悪疫鎮護【あくえきちんご】、商売繁盛の神様として現在に伝えられています。

 昭和22年、神田区と麹町【こうじまち】区が合併して千代田区が成立すると、司町二丁目【つかさちょう2ちょうめ】は神田司町二丁目となりました。その後、「神田」が無くなり、司町二丁目となり、現在に至っています。

 町会の該当区域は司町二丁目全域となっています。


 当町会の神輿は昭和27年、宮本重義【みやもと しげよし】の手により作られました。大きさは2尺5寸で、二重台座【にじゅうだいざ】になっています。本塗【ほんぬり】の屋下総金箔押【おくか そうきんぱく おし】で彩られています。台輪の四方には四神【しじん】彫刻が入っています。総勢400名の担ぎ手で、750キロの神輿を担ぎます。平成13年に大補修をしました。丈は低いですが、重厚な神輿となっています。連合の中でも一番の神輿であると自負しています。



淡路町一丁目町会

2007-05-13 14:36:50 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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江戸時代のはじめ、この地には「西福寺【さいふくじ】 」「西念寺【さいねんじ】 」という、将軍家と関係が深い寺院が、観音坂【かんのんざか】を下りきったあたりに位置していました。西福寺【さいふくじ】は慶長【けいちょう】3年(1598)、徳川家康が故郷の三河【みかわ】から呼び寄せた寺です。

 神田淡路町一丁目【かんだあわじちょう1ちょうめ】と名付けられたのは明治5年(1872年)になってからです。この名前は、鈴木淡路守【あわじのかみ】の屋敷があったことから名付けられたという「淡路坂【あわじざか】 」に由来しています。

 当町会は、昔からのしきたりを尊重し大切に守る町会です。

 町会の該当区域は淡路町一丁目の奇数番地となります。


 当町会の神輿は、昭和40年に、宮本重義【みやもと しげよし】により作られました。小型の神輿ではありますが、担ぎ手衆の迫力と技に御注目下さい。


淡路町二丁目町会

2007-05-13 14:27:47 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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江戸時代、この界隈【かいわい】は、武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。永井信濃守【ながいしなののかみ】の屋敷が松平伊豆守【まつだいら いずのかみ】の屋敷となり、のちに若狭小浜【わかさおばま】藩酒井家の上屋敷【かみやしき】となりました。

 明治5年(1872)、ここに神田淡路町二丁目【かんだあわじちょう2ちょうめ】という名前が正式に付けられました。町名の由来とされる淡路坂【あわじざか】は、鈴木淡路守【すずきあわじのかみ】の屋敷があったためといわれています。
 
 明治初期、現在の淡路公園の場所に、明治後期の日本を代表する知識人を輩出した共立【きょうりつ】学校(後の開成【かいせい】学園)が創設されました。ここでは正岡 子規【まさおか しき】や南方 熊楠【みなかた くまぐす】などが学びました。また町内には一時期、『たけくらべ』などで知られる女流作家で、歌人でもあった樋口 一葉【ひぐち いちよう】も住んでいました。

 淡路町は文化の町となり、その新進の気風【きふう】は町並みにも表れていました。大正末期から昭和初期にかけては、昌平橋【しょうへいばし】近くに活動常設館【かつどうじょうせつかん】(映画館)の名門である神田シネマパレスがあり、多くの人で賑【にぎ】わっていました。
 
 町会の該当区域は淡路町二丁目【あわじちょう2ちょうめ】 1~29番地までの奇数番地となっています。


 当町会の神輿は、昭和52年の宮本重義【みやもと しげよし】の手によるものです。神田明神氏子町会のどこにも負けないような担ぎをします。応援宜しくお願いします。



神田鍛治三会町会

2007-05-13 14:14:35 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 昭和8年に「鍋町【なべちょう】北の大部分・鍛冶町【かじちょう】北の一部・鍋町西横町の内の一部」等が統合して「神田鍛冶町三丁目【かんだかじちょう3ちょうめ】」となりました。

 この界隈が鍋町と呼ばれていた理由は、江戸幕府の御用鋳物師(ごよういもじ)を務めていた、椎名山城(しいなやましろ)が屋敷を構えていたためといわれています。鋳物師とは。鍋や釜をつくる職人のことです。他にも御腰物金具師(おこしものかなぐし)や御印判師(ごいんばんし)なども住んでいました。

 鍋町に住んでいたのは、このような御用職人【ごようしょくにん】ばかりではありません。紅【べに】や白粉【おしろい】などの化粧品、傘、菓子、釘や打物【うちもの】などを扱う各種の問屋をはじめ、馬具【ばぐ】や武具【ぶぐ】をつくる職人まで店を構えて住んでいました。江戸時代、この界隈は鍋のような日用品から馬具や武器まで、多種多様な商品がそろう町でした。

 町会の該当区域は神田鍛冶町三丁目・内神田三丁目19~21番地となっています。


 当町会の神輿は浅草岡田屋【おかだや】製です。総勢250名の担ぎ手により宮入を行います。宮入時の神輿振りに御注目下さい。大興奮間違いなしです。