音楽の前の…… （谷川 俊太郎）

音楽の前の……　（谷川　俊太郎）

この静けさは何百もの心臓のときめきに満ちている
この静けさにかけがえのないあの夜の思い出がよみがえる

この静けさに時を超えた木々のさやぎがひそんでいる
この静けさをあなたと同じようにモーツアルトも知っていた

この静けさもまた時代のざわめきの中から生れたが
この静けさをどんな権力も破ることはできない

この静けさを私たちは愛する死者とわかちあう
この静けさはまだ生れてこない者たちに捧げられる

美しい大きな木の箱の宇宙でやがて私たちは無垢な子ども
音符の蝶々と戯れ旋律の急流を泳ぎ和音の森に憩い

トレモロの指にくすぐられアダージョの手に抱かれて
いつか見知らぬたましいの地平へと連れ去られる

人が音楽を愛するよりももっと深く　音楽は人を愛してくれる
せめぎあう人の歴史に背いて今日私たちは杯をあげる

この静けさに音は生れ　この静けさに音は還る
この静けさから聴くことが始まりそれは決して終わることがない