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朝の光(聖書の言葉)

1コリント(1) 1-6章 解説  2018-10-04

コリント人への手紙第1 (1) 


2018-10-04


 1-6章 




この手紙は,

パウロがエペソで紀元53年ごろ,

コリントの教会に宛て,

書いたものです。

 

コリントの教会は,

多くの問題を抱えた,

病んでいる教会でした。

 

病む教会にあてた手紙として,

病む教会をいやす十字架の福音を

語っています。

 

コリントの教会では,

教会内の分裂,結婚の問題,

食物の問題,礼拝の問題,

イエス・キリストの復活の問題

などがありました。


コリントの教会は,

パウロに質問の手紙を書きました。


その答えとして,

この手紙を書いています。


それに合わせて, 

神のことば,

十字架,復活,再臨とその意味

神の愛,聖霊の賜物,

聖餐式,教会などについて

書いています。

 

 

 

 

一致の勧め

 

(1コリント1:10)


「さて,兄弟たち。

私は,

私たちの主イエス・キリストの

御名によって,

あなたがたにお願いします。

どうか,みなが一致して,

仲間割れすることなく,

同じ心,

同じ判断を

完全に保ってください。」

 

派閥の問題を扱っています。


十字架の信仰から離れると,

教会では分裂が生じます。

 

そこで,

パウロは十字架につけられた

イエス・キリストに

目を向けるようにといいます。

 

そして,

分裂は

どのようなかたちで出来るか,

パウロは巧みな表現をしています。

 

 

十字架の言葉 

 

(1コリント1:18)


「十字架のことばは,

滅びに至る人々には

愚かであっても,

救いを受ける私たちには,

神の力です。」

 

 パウロは,

コリントの教会の多くの問題,

あるいはすべての問題の解決は,

「十字架の言葉」の中にあると

考えています。

 

「十字架のことば」とは,

福音のことです。

 

コリント教会での問題の解決は,

福音によってでした。

 

そして,福音の中心が

イエス・キリストの十字架でした。

 

 

十字架につけられたキリスト

 

(1コリント1:22-24)


「ユダヤ人はしるしを要求し,

ギリシヤ人は知恵を追求します。

しかし,

私たちは十字架につけられた

キリストを宣べ伝えるのです。

ユダヤ人にとってはつまずき,

異邦人にとっては愚かでしょうが,

しかし,ユダヤ人であっても

ギリシヤ人であっても,

召された者にとっては,

キリストは神の力,

神の知恵なのです。」

 

 イエス・キリストが

十字架で死ぬことは,

愚かなことのように思われますが,

信じる者に,

救いがもたらされます。

 

「神の力」「神の知恵」とは,

十字架につけられた

イエス・キリスト

ご自身です。

 

パウロは,

イエスキリストが

十字架で流された血によって,

信じる者が義とされることを

次のように宣べています。

 

 

(レンブラント 十字架上キリスト)

 

 信仰による義


(ローマ3:22-25)

「すなわち,

イエス・キリストを信じる

信仰による神の義であって,

それは

すべての信じる人に与えられ,

何の差別もありません。

すべての人は,罪を犯したので,

神からの栄誉を

受けることができず,

ただ,神の恵みにより,

キリスト・イエスによる

贖いのゆえに,

価なしに義と認められるのです。

神は,キリスト・イエスを,

その血による,また信仰による,

なだめの供え物として,

公にお示しになりました。

それは,

ご自身の義を現すためです。

というのは,

今までに犯されて来た罪を

神の忍耐をもって

見のがして来られたからです。」

 

 

弱い者を選ぶ


(1コリント1:26)


「兄弟たち,

あなたがたの召しのことを

考えてごらんなさい。

この世の知者は多くはなく,

権力者も多くはなく,

身分の高い者も

多くはありません。」

 

 

愚かな者を選ぶ

 

(1コリント1:27,28)


「しかし神は,

知恵ある者をはずかしめるために,

この世の愚かな者を選び,

強い者をはずかしめるために,

この世の弱い者を選ばれたのです。

また,

この世の取るに足りない者や

見下されている者を,

神は選ばれました。

すなわち,

有るものを

ない者のようにするため,

無に等しいものを

選ばれたのです。」

 

神は,誇る者を退けます。

 

神は,神御自身の,

栄光を表わそうとされています。

 

「神の知恵」は,

神が選んだ人にあらわされます。

 

 

 知恵,義,聖,贖い

 

(1コリント1:30)


「しかしあなたがたは,

神によって

キリスト・イエスのうちに

あるのです。

キリストは,私たちにとって,

神の知恵となり,

また,義と聖めと,

贖いとになられました。」

 

コリントの教会における,

あらゆる問題において,

また信じる者の生活の

あらゆる領域において,

キリストは

解決を与えてくださいます。

 

キリストのうちに

適切で十分な答えがあります。

 

わたしたちが誇るのは神だけです。

 

そして,キリストを信じたとき,

わたしたちのうちに

キリストが入ります。

 

そのキリストが,

わたしたちに神の知恵,

義,聖と贖いを

与えてくださいます。

 

 ○

 

 「神の証し」

 

(1コリント2:1)


「さて兄弟たち。

私があなたがたのところへ

行ったとき,

私は,すぐれたことば,

すぐれた知恵を用いて,

神のあかしを宣べ伝えることは

しませんでした。」

 

「神のあかし」とは,

神がキリストにあってなされた

救いの事実の証言です。

 

ここでの「神のあかし」とは,

イエスが十字架上で

死んだことによって,

神に人間の罪と罰を

すべて払ったことです。

 

 ☆

 

(ローマ3:25-26)


「神は,キリスト・イエスを,

その血による,また信仰による,

なだめの供え物として,

公にお示しになりました。

それは,

ご自身の義を現わすためです。

というのは,

今までに犯されて来た罪を

神の忍耐をもって

見のがして来られたからです。

それは,

今の時に

ご自身の義を現わすためであり,

こうして神ご自身が義であり,

また,イエスを信じる者を

義とお認めになるためなのです。」

 

 

神の知恵

 

(1コリント2:6,7)


「私たちは,成人の間で,

知恵を語ります。

この知恵は,

この世の知恵でもなく,

この世の過ぎ去って行く

支配者たちの

知恵でもありません。

私たちの語るのは,

隠された奥義としての

神の知恵であって,

それは,神が,

私たちの栄光のために,

世界の始まる前から,

あらかじめ

定められたものです。」

 

 「隠された奥義としての神の知恵」

(2:7)とは,

人間の知恵では理解できないが,

 神が啓示された救いの計画です。

 

神の啓示は,

神の御霊による啓示によってのみ

与えられます。

 

 

 

(エルグレコ  聖霊降臨)

 

御霊は知っている,御霊による啓示

 

(1コリント2:10)


「神はこれを,

御霊によって

私たちに啓示されたのです。

御霊はすべてのことを探り,

神の深みにまで

及ばれるからです。」

 

御霊は,

わたしたちの心の底に

来てくださり,

 神のすべての真理を

知らせてくださいます。

 

 ☆


(ヨハネ16:13)


「その方,

すなわち真理の御霊が来ると,

あなたがたを

すべての真理に導き入れます。

御霊は自分から語るのではなく,

聞くままを話し,

また,

やがて起ころうとしていることを

あなたがたに示すからです。」

 


神の霊を受ける


(1コリント2:12)

「わたしたちが受けたのは,
この世の霊ではなく,
神からの霊である。
それによって,
神から賜わった恵みを
悟るためである。」 

 

 ○


成長させて下さる神

 

(1コリント3:6,7)


「私が植えて,

アポロが水を注ぎました。

しかし,成長させたのは神です。

それで,たいせつなのは,

植える者でも

水を注ぐ者でもありません。

成長させてくださる

神なのです。」

 

 わたしたちの信仰を

成長させてくださるのは

神御自身です。

  

 

わたしたちは,神の建物です。


(1コリント3:9)


「私たちは神の協力者であり

あなたがたは神の畑,

神の建物です。」

 

土台は,

イエス・キリスト御自身です。

 

(1コリント3:10)


「与えられた神の恵みによって,

私は賢い建築家のように,

土台を据えました。

そして,

ほかの人がその上に

家を建てています。

しかし,

どのように建てるかについては

それぞれが

注意しなければなりません。」

 

土台であるイエス・キリスト以外は

崩れて行きます。

 

(1コリント3:15)


「もしだれかの建てた

建物が焼ければ,

その人は損害を受けますが,

自分自身は,火の中を

くぐるようにして助かります。」

 

 

うちに宿る聖霊

 

(1コリント3:16)


「あなたがたは

神の神殿であり,

神の御霊があなたがたに

宿っておられることを

知らないのですか。」

 

 

聖霊は,

イエス・キリストを

信じる者の心に宿り,

いつまでも共にいます。

 

※ 聖書の最も大切な教えは,

神が共にいますということです。

 

人の体は,「神の宮」です。

 

 

(ヨハネ14:17)


「その方は,

真理の御霊です。

世はその方を

受け入れることができません。

世はその方を見もせず,

知りもしないからです。

しかし,あなたがたは

その方を知っています。

その方はあなたがたとともに住み,

あなたがたのうちに

おられるからです。」

 

信じる者のうちに聖霊が宿るとは,

創世記の記事を思い浮かべます。

 

 

(創世記2:7)


「神である

土地のちりで人を形造り,

その鼻に

いのちの息を吹き込まれた。

そこで人は生きものとなった。」

 

 

主の再臨 ― 主による審判

 

(1コリント4:5)


 「あなたがたは,

主が来られるまでは,

何についても,

先走ったさばきを

してはいけません。

主は,

やみの中に隠れた事も

明るみに出し,

心の中のはかりごとも

明らかにされます。

そのとき,

神から各人に対する

称賛が届くのです。」

 

この世の終わりにキリストが

再び天から地上に来られます。

 

その時,キリストは栄光のうちに

天の雲に乗って来られるのです。

 

そして,キリストは,

さばきの座について

すべての者をさばき,

救いを完成させます。

 

 ○

 

 不信仰な者について 

 

(1コリント5:12)


「外部の人たちをさばくことは,

私のすべきことでしょうか。

あなたがたがさばくべき者は,

内部の人たちではありませんか。」

 

 このところでは,

キリストを信じる者に対しては,

不信仰について

厳しく臨むべきだと言っています。

 

 

義認,聖化

 

(1コリント6:11)


「 あなたがたの中のある人たちは

以前はそのような者でした。

しかし,

主イエス・キリストの御名と

私たちの神の御霊によって,

あなたがたは洗われ,

聖なる者とされ,

義と認められたのです。」

 

「洗われ」とは,

霊的な新生のことです。

 

「義と認められる」のは,

罪人がキリストを

信じることによって,

罪を赦され,

キリストの義のゆえに,

信じる者が義と認められるのです。

(義認とよばれます。)

 

「義と認められる」とは

法的用語であり,

無罪とされ,

神の前に

正しい者とされることです。 

 

「聖なる者とされ」

(聖化のこと),

とは,神に用いられるために,

神の者とされることです。

 

「聖なる者とされ」るなら、

聖霊が心の中に働き,

罪から解放し,

神のかたちに似せて

新しい人として,

良い行いができるようになります。

 

イエス・キリストを信じる者は

聖なるものとされます。

 

 

不品行を避ける

 

(1コリント6:18)


「不品行を避けなさい。

人が犯す罪はすべて,

からだの外のものです。

しかし,

不品行を行なう者は,

自分のからだに対して

罪を犯すのです

 

 コリントの教会では,

不品行な行為がありました。

 

パウロは、

「不品行を避けなさい」

といいます。

 

 

体は聖霊の宮

 

(1コリント6:19,20)


「あなたがたのからだは,

あなたがたのうちに住まれる,

神から受けた聖霊の宮であり,

あなたがたは,

もはや

自分自身のものではないことを,

知らないのですか。

あなたがたは,

代価を払って買い取られたのです。

ですから自分のからだをもって,

神の栄光を現わしなさい。」

 

 

イエスを信じる者は,

代価を払って

買い取られた(贖われた)のです。

 

罪,死,悪,律法の呪い,

この世の問題などからから

救われたのです。

 

信じる者の体は,聖霊の宮です。

 

自分のからだを

大切にしなければなりません。

イエス・キリストを信じる者は,

自分の体の内に

聖霊が宿っているからです。

 

○ 

 

(2コリント4:7)


「私たちは,この宝を,

土の器の中に入れているのです。

それは,

この測り知れない力が

神のものであって,

私たちから出たものでないことが

明らかにされるためです。」

 

 

 

 

贖(あがな)い

 

(1コリント6:20)


「あなたがたは,

代価を払って買い取られたのです。

ですから自分のからだをもって,

神の栄光を現しなさい。」

 

 「贖い」は,元来は代価を払って

買い取るという意味ですが,

キリストによる救いを

意味するようになります。

 

キリストの十字架における死は,

イエス・キリストが

命をささげたことです。

 

イエス・キリストのいのちは

贖いの代価であり,

それにより,わたしたちは罪人は

罪から救い出され,

義と認められます。

 

罪の奴隷から,救い出され,

神の子とされました。

代価は,父なる神に払われました。


 

(ローマ3:24)

「神の恵みにより,

キリスト・イエスによる

贖いのゆえに,

価なしに

義と認められるのです。」

 

 

2018-10-04


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