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朝の光(聖書の言葉)

8.「イエスの姿が変わる」 (復活の朝)

8.「イエスの姿が変わる」   

マルコによる福音書9章2-13節  
(イエスの姿がかわる)                 


すると,雲が現れて彼らを覆い,

雲の中から声がした。

『これはわたしの愛する子。

これに聞け。』

弟子たちは急いで辺りを見回したが,

もはやだれも見えず,

ただイエスだけが

彼らと一緒におられた。」

(マルコ9:7,8)





(創世記1:27)

創世記に,

「神は御自分にかたどって

人を創造された」

(創世記1:27)

という言葉があります。


この言葉は,

「神の栄光を反映させるものとして,

人を創造された」

と理解できます。


今日の説教の主題(テーマ)は「栄光」です。


この理解に従って,

「人」を考えたいと思います。


人は神様の栄光を反映するものとして

造られていますが,

神様によって造られたものとして,

人は神さまの栄光を反映していません。


旧約聖書が示す人間の歴史を見ますと,

人間は神様の栄光を現わすことが

できていないことが分かります。


人間は誘惑に負け,

神様のように善悪を知り,

神様のように賢くなることを求めました。


そのため,

人間は神様の栄光を現すことが

できなくなりました。




(ローマ3:9-12)

(正しい者は一人もいない) 


このことを新約聖書はローマの信徒への手紙で,

旧約聖書の言葉(詩篇14:1-3)を

引用して次のように書いています。


「正しい者はいない。

一人もいない。

悟る者もなく,

神を探し求める者もいない。

皆迷い,

だれもかれも役に立たない者となった。

善を行う者はいない。

ただの一人もいない。」

(ローマ3:10-12)


これが,人間の現実の姿です。


自分の栄光は求めますが,

神様の栄光を求めない

人間の有様を罪人と言います。




(マルコ8:27-30) 

(ペトロ信仰を言い表わす)


この罪人を救い出すために,

神様はイエスさまを

お遣(つか)しになりました。


イエスさまは苦難の道を歩み,

十字架を背負うために

エルサレムへと向かわれます。


この苦難の道を歩まれるイエスさまを

「何者」として受け入れるかが,

イエスさまに関わる人に問われます。


イエスさまは

フィリポ・カイザリア地方にお出かけになり,

その途中で,

弟子たちに次のようにお尋ねになります。


「人々は,

わたしのことを何者だと言っているか。」

(マルコ8:27)


弟子たちが

「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。

ほかに,『エリヤだ』と言う人も,

『預言者の一人だ』と言う人もいます」

(マルコ8:28)

答えます。


そこでイエスさまは

次のようにお尋ねになります。


「それでは,

あなたがたは

わたしを何者だと言うのか。」

(マルコ8:29)


この問いは,

イエスさまに関わるすべての人たちに

向けられています。


その問いに,ペトロは次のように答えます。


「あなたは,メシア(キリスト)です」

(マルコ8:29)


確かにイエスさまは,

メシア(ギリシャ語ではキリスト)

すなわち救い主です。





(マルコ8:31-9:1) 
(イエス,死と復活を予告する)


わたしたちは,

この救い主をどのような方として

受け入れているでしょうか。


神様がお遣わしになった救い主は,

自分の栄光を求め,

神様の栄光を現そうとしない罪人を,

罪から贖い出します。


そのために苦難の道を歩み,

十字架を背負われる救い主です。


このことはイエスさまに招かれた弟子には,

まだ理解できませんでした。


イエスさまは,次のように教え始めます。


「人の子は必ず多くの苦しみを受け,

長老,祭司長,律法学者たちから

排斥(はいせき)されて殺され,

3日の後に復活することになっている。」

(マルコ8:31)


すると,

「ペトロはイエスをわきへお連れして,

いさめ始めた」

(マルコ8:32)のです。


このことからも,弟子たちもまた罪人として,

イエスさまに贖(あがな)って

いただかなければならないことが分かります。


「正しい者はいない。一人もいない」

(ローマ3:10)のです。


ですから,

イエスさまを正しく理解できる人も

一人もいません。


罪人は,神様もイエスさまも

正しく理解できないのです。




(マルコ9:2-9 イエスの姿が変わる)


イエスさまは,

そのような弟子たちの中心となる

「ペトロ,ヤコブ,ヨハネだけを連れて,

高い山に登られます。」

(マルコ9:2)


それはイエスさまが弟子たちに,

御自分を理解させたいと

切に願われたからです。


父なる神様は

このイエスさまの願いを聞き入れられ,

イエスさまを神様の栄光に輝く方として

明らかにされます。


「イエスの姿が,

彼らの目の前で変わり,

服は真っ白に輝き」

(マルコ9:2)

ます。


そして,天に上げられた

「エリヤがモーセと共に現れて,

イエスと語り合っている」

(マルコ9:4)のです。


人間の歴史を超えた神様の歴史が,

高い山の上で展開します。


ペトロ,ヤコブ,ヨハネという人間の歴史を

歩んでいる人々の前に,

神様の歴史が展開されます。


人間の現在に,永遠が関わり,

神様が関わって来てくださいます。


そのすばらしさに,ペトロは

「先生,わたしたちがここにいるのは,

すばらしいことです。

仮小屋を3つ建てましょう。

一つはあなたのため,

一つはモーセのため,

もう一つはエリヤのためです」

(マルコ9:5)

と言います。


このことに関して,聖書は

「ペトロは,

どう言えばよいのか,

分からなかった。

弟子たちは非常に恐れていたのである」

(マルコ9:6)

と説明しています。


このとき,雲が現れて彼らを覆い,

雲の中から

「これはわたしの愛する子,これに聞け」

(マルコ9:7)

という声がしました。


神様がイエスさまの願いに答えて,

弟子たちにイエスさまは

どういう方であるかを明らかにされます。


神様は,イエスさまが御自分の

「愛する子」であることを

明らかにしました。


しかし,弟子たちはこのことを

正しく理解できませんでした。


まだ,弟子たちの罪が贖われて

いなかったからです。


だから,神様の栄光を見ても,

ただ恐れるばかりで,

その栄光を

正しく受け止められなかったのです。


このことを見抜かれたイエスさまは,

「人の子が死者の中から復活するまでは,

今見たことをだれにも話してはいけない」

(マルコ9:9)と,弟子たちに命じました。   


イエスさまが十字架で弟子たちの罪を贖い,

復活して再び神様の栄光を現されるまでは,


弟子たちは神様の栄光を見ても,

その栄光を神様の栄光であるとして,

正しく受け止め,

その栄光を賛美できませんでした。


イエスさまの十字架によって,

罪の贖いを受けたわたしたちは,

苦難を通して示された神様の栄光を

賛美する者であります。


そして,わたしたちは神様のかたちに

造られた人間として,

御霊よって栄光から栄光へと

主と同じ姿に造りかえられていきます。


パウロは次のように言います。


「わたしたちは皆,

顔の覆いを除かれて,

鏡のように主の栄光を映し出しながら,

栄光から栄光へと,

主と同じ姿に造りかえられていきます。

これは主の霊の働きによることです。」

(2コリント3:18)


(松隈 牧師)

2019-06-12

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