気ちがい河馬さんの日記

精神病院に通院しつつ、障害年金ではとても食えないので、深夜に「ギャオ^スー」と雄叫びを発し河馬に変身し大和川の草食らう

うなぎパン

2014-07-30 07:10:24 | 風景


昨日は浅香山病院付属サポートセンターへ来た。

 昨日は土用丑の日、しかし今月は年金支給月ではない。したがって金が無い。うなぎなんて食えないが・・・。

昼過ぎ、施設長の上田さんがDルームで昼飯食べていた。
上田さんの昼飯は総じて貧しい。浅香山病院のお給料が少ないせいかも。

その点河馬の食生活は贅沢だ。

生活費の6~7割が食費だ。総収入は少ないけれど、気ちがい河馬のすることと言ったら、食べて寝る、この2語に尽きる。

それに河馬には、大和川の豊かな草原が、ある。大和川はの草はらは勿論国有地だから、国有財産を盗み食いしていることになるが、それをとがめだてするものは誰もいない。

親友の河馬の鉄っちゃんなんか、前にも書いたが、大和川の自然堤防上に、立派な一戸建ての豪邸まで建てている。彼も河馬とは病気が違っているけど障害者で年金暮らしである。したがってやっぱり年金では食えないから、同じく大和川の草食っている。彼は「もう仕事していないから1日2食で十分だ」と言っている。金を河馬のように、食費にはほとんど費やさない。その代わり、たまに旅行に行ったり、園芸を楽しんでいる。気ちがい河馬よりずっと文化的だ。

気ちがい河馬と 河馬の鉄っちゃんとの巣とはだいぶ距離があり、餌場のテリトリーで争いは無い。
大和川の豊かな草を食らう、生活は春から秋にかけて食料豊富で飢える心配が無い。幸せだ。

それに人間の格好する時も、Tシャツから、パンツまでこの10年間買ったことは無い。
みんなもらい物だ、たまに買ったとしても、病院のサロンの古着バザーで10円で買ったものばかりである。

だから河馬の生活費用はほとんど食べ物に費やされる。

食って、寝る、そして肥る。単純だ。


上田施設長の昼食に話を戻そう。
彼の昼食は、いつも河馬の目から見ればジャンクフードである。
河馬は若い頃から、ずっと肉体労働してきたので、食生活で、ジャンクフードを食らう習慣は無い。
 それではとても体が持たなかったし、カロリーが足らなかった。河馬は朝からご飯である。パン食は好まない。
昨日の土用丑の日上田施設長の昼食は何か面妖な物と出来合いのサラダだ。 その面妖な物が添付写真うなぎパンだ。
みると確かにうなぎの形をしている。
 尋ねるとうなぎの形のパンの上にチョコレートを載せたものらしい。

河馬は丑の日にうなぎを食えない彼に痛く同感し、うなぎパンなる珍物を探してくる、努力に敬礼した。

気ちがい河馬聖地へ(天理市:オジバ):その2

2014-07-28 16:16:17 | 風景




25日朝11時に河馬の巣を出発した。河馬は、梅雨明けのカンカン照りの中、約1時間ほどで国分に着いた。酷暑の中滑り出しは順調だった。

国分駅前へ1時間ほどで着いた。
駅前のスーパーライフで、1時間ほど休憩、いよいよ国道25号線の阪奈国境への緩やかな登りに差しかかった。
途中国土交通省の道路情報の標識に気温37℃の表示があった。暑いはずである。

今回の聖地オジバ帰りの目的は2つある。ひとつ目は浅香山病院某閉鎖病棟のさらに隔離室の保護室に鍵かけられたまま、押し込まれている金時二郎が早く総室へ出してもらえるようにお願い勤めを御本部ですること。

もうひとつは天理教恒例夏の子どもオジバ帰りのヒノキシン(奉仕活動)をすることであった。


緩やかな登りと言え、登りは猛暑の中さすがにきつい。15分ほど走り、大和路線(旧:関西線)の鉄橋の影の下で小休止した。

もう少し行くと本日のメインテーマ亀之瀬に着く。
亀之瀬は大地滑り地帯で、放って置くとそこで大和川がせき止められ奈良盆地は水湖になってしまう。
地滑り止めの工事は河馬が物心ついた時分からやっている。その工事は今も続いていていつ終わるともしれない。
河馬が知っているだけでも60年間だ。
よくおばあちゃんが言っていたけれど大自然の前に人間の力なんか知れている。亀之瀬の地滑り止め工事を見てそう思った。

暑さは熱し、つぎの休憩目的地は、王寺駅だったが、王寺の2つ手前の三郷駅前のコンビニにかけ込んだ。
身体中火照って、熱中症一歩手前だった。冷房の効いたコンビニ店内で、20分ほど粘って、体を冷やした。
 何も買わないで、店内で長いするのも気が引けるので、パンプキンの冷スープをひとつ買って店内でのんだ。
暑く燃えた胃袋に心地良かった。

それからと言うものはコンビニを見つける度に、店内で涼を取った。

そんな訳で、奈良県へ入ってからは、完全にバテバテで、斑鳩を過ぎ、法隆寺を過ぎる頃には、手が震え、大和郡山に入ってついにダウン、目的地まで13kmのところでガストに入って1時間以上クールダウンした。

結局、40km弱の距離を6時間かけて走破した。

オジバに着いたら御本部の拝殿に上がり、手を4つ打つのやっとで拝礼もそこそこに大教会の詰所(宿坊のようなもの)でヒノキシンの頭数の登録をして、決められた部屋で倒れ込んだ。

河馬聖地巡礼 全ては金時二郎のため。(パート1)

2014-07-27 10:48:29 | 風景


金時二郎が閉鎖病棟の隔離室の鍵のかかった個室にほうり込まれ、かれ、これ、3ケ月になる。
早く面会のできる総室に出してやりたい。

それで気ちがい河馬は決意した。
金時二郎が、やった事を反省し、医者にも認められて、面会のできる総室に移れますように、苦しい時の神頼みだ。

ただ聖地、天理市まで行っても値うちがない。
 ここは苦労して天理教の聖地オジバへ行く必要があると考えた。
そこで自転車(電動自転車)で大阪から天理まで約40Kmの道のりを走破することに決めた。
往復90Kmである。
河馬の周辺は皆、反対した。曰く、きっと熱中症になる。他所の土地で救急車で運ばれるようになったら、どうするの。
梅雨明けの暑い時に、自転車で行くのは無謀。あほや。と言う声があちこちから上がった。
しかし、河馬は現在、躁である。
誰の声も気ちがい河馬の耳には届かない。

やると言ったらやるんだ。67歳の老体に鞭打って。
 金時二郎は河馬が天理教に入れた信者だ。気ちがい河馬にも道義上の責任がある。

彼、金時二郎が閉鎖病棟だけど隔離病棟から移され、総室になれば、彼の大好きな、カフェオレを毎日持って面会に行ってやれる。

幸い主治医も、田中義Dr.のロートルから副院長の須藤パパに変わった。
河馬の主治医でもあるから、情報も取りやすい。

なんとしても、御本部へ参ってお願い勤めをしなければならない。


いよいよ出発


25日朝11時準備万端整え、電動自転車の予備のバッテリーも積んで、首からは緊急連絡先を書いた迷子札も吊って出発した。

大阪から羽曳野、石川のほとりまでは一気に来た。

ここまで来れば3分の1あと少しで国分。そこで昼休みを取ろうと思った。

まもなく近畿日本鉄道の国分駅前につく。
駅前のスーパーライフで赤飯を買って昼御飯とした。スーパーの店内で40分ほど休憩食事を取った。涼しいスーパーの店内でも汗が吹き出してくる。

今日は雲一つないカンカン照りだ。
休憩中凍らせて持って来た。水をのむ。

国分の交差点を25号線、奈良方面へ向かう。途中国土交通省の道路情報機械があった。標識には現在温度、37度とあった。

緩やかな登りが続く、左手は大和川だ。 (この項続く)

女神:をや様

2014-07-27 06:15:01 | 風景


気ちがい河馬の作品。10数年前気ちがい河馬がクレーン車の運転士を病気退職した直後浅香山病院OT室で制作。浅香山病院の廊下の壁に飾ってある。河馬は病院に対し絵画テロを敢行した。誰も気付いていないか、無視されている。


河馬の属する教団では不文律ではあるが、偶像崇拝はあまり勧められていない。それでは河馬は寂しいとと考え をや様をイメージしてこれを描いた。
浅香山病院の某所の廊下の壁に飾ってある。病院に対し絵画テロを敢行した。

我が教団で 唯一神聖なものは教祖中山みきが、神の力を借りて書いたお筆先と呼ばれる聖書であり、信者皆が神聖視して拝んでいるものは 雛形甘露(ひながたかんろうだい)六角の断面をもつ三メートルばかりの木製の柱の上に木製の鉢をを置いたものである。
ひながたは何処まで行ってもひながた(模型)であり、聖なるものか疑問が残る。

 だから、仏教の仏像や、神道の鏡のような正面から、拝跪(はいき)する対象ではない。
ひながたかんろうだい は、四方正面と言って四方から拝んでいる。丁度人間(神の子ども)たちが向かい会って拝み合う形となる。

 気ちがい河馬の所属する教団での師匠は、かんろうだいの側で、河馬に一言、かんろうだいを指し「ひながたや!」と吐き気捨てるように言った。

本物の甘露台(かんろうだい)の建設がなった時、初めて神人和楽の理想世界ができる。
それは遥かに遠い。

信者みなが、崇拝するかんろうだいを、ひながたやと言い切った河馬の師匠は本物の布教者と思った。

それは誰にでも言える、言葉ではない。

我が師匠の、いち布教者は、ある有名な話しと似ている。
 コメディアン・植木等、の父親は寺のおっさん(寺の檀家を預かる坊さん=住職)で、気ちがい河馬の祖地三重県渡会郡四郷村字朝熊、の近辺で戦前に農民運動や社会運動に手を染め、近郷近在から尊敬された坊主だった。
 しかし、我が息子、植木等だけには親子二人っきりの時、寺の仏像を、着物を作る時使うクジラ尺の目盛りの付いたサシで、ピシャッ、ピシャッ叩いてこんなものは仏教とはなんの関係も無い、化体のものだとして幼い植木等に仏教の本質を教えたそうな。

我が師匠の布教師も一刀両断の下に我が教団の教義の虚構性を気ちがい河馬に教えてくれた。

 が、その布教師は最も教条的に教会では思われ、祭りの際の形式美、儀式の一挙一投足に教条的に厳しいしうるさい。

河馬からすればニ律背反も甚だしい。矛盾している。

しかし、その布教師は毎月東南アジアの諸国に出かけ、言葉も知らない国々で布教の実を挙げている。


また、ある大教会の幹部と詰所で(大教会詰所、寺の宿坊のようなもの)親しくなった。
 彼はは実にアッサリと「お前は共産党か、と河馬の身元調査をどこでしたのか不明だが初対面で尋ねかた。うちの教会の会長にもそんなあほおるわ、とこともなげににいった。
 そして、教会ではあほになれ。あほになれ。と簡単に言うが、なんの間違いか、人間は「をや(親神)」が作ったものであるにも関わらず、そう簡単にあほにはなれるものでは無い、三歳児にして、もうすでにずる賢い。人は皆、ずる賢く生まれれついとる。
 これを直し、泥まみれの布教をするのは至難の技や、我々は世間の常識とまるで反対の教えを布教しなければ為らん。」と言う、この人も通り一辺のことを言う人ではなかった。 教会で、教えられた事とまるで反対の事を言う。

気ちがい河馬は信仰の初め、教団本部の中学校程度の、学校に半強制的に行かされたが、金が15万円ちょっといるから、嫌だと断った。
 学校は授業料は無かった。只である。ただし、3ヶ月間食べて、住み込む居住する費用が、要るとのことだった。

そう考えると高くは無い。

 1ヶ月あたり五万円だから、大阪でただ住んでいるだけで5万円は要る。とても5万円では1ヶ月生活できない。

しかし河馬には絶対的にお金がなかった。

 その直前、躁病で、駅前の値段のついていない寿司屋で、開店から看板まで飲み、かつ食って、40日間ほど通いつめ、3ヶ月分の生活費を使い果たして、もう生きては行け無いと、自殺も考えて、浅香山病院相談室の柏木一恵心理ケースワーカーに相談に行っていた。

柏木PSWは実に簡単に、「自殺ははた迷惑です。1日500円有ったら生きて行けます。あなたの信仰でも自殺はいけない事でしょう。陽気ぐらしは500円でできます。」と自殺願望は一言で蹴飛ばされた。

そんなわけで気ちがい河馬はその時、絶体的にお金がなかった。

師匠は金が無いなら河馬の父河馬に出してもらえないか相談に行け。と言ったので行って頼んで見た。
河馬家は祖父母の代から我が教団に属している。三代教会にお尽くししている。一言に祖父母から三代と言うけれど、たかが三代されど三代百五十年近くになる。
だから父河馬は言った。「事故で片手しかなかった祖母ハナは70歳の高齢の時、教団の中学校みたいな学校に御本部 で3ヶ月勉強し、正式の信者になった。 おばあちゃんハナは自分の小遣いを貯めて行った。金の15万ぐらいなくはないが、自分で段取りするのが筋や、本当に無かったら教会に凭れ。」と言った。

さすが若い時分から教会の事を知っている父河馬はキィワードを知っている。
そんなわけで小遣い一万円ほど持って教団の中学校みたいな学校に教会に凭れて、3ヶ月勉強に行った。

主治医稲谷Dr.にも相談したら、反対された。河馬の今の状態が3ヶ月続く訳はなく、危険だ。第一薬が手に入るか?と尋ねられた。
薬は手に入ります。教団設立の大病院があり、そこに精神科もあります。と答えたら、処方箋と紹介状をかいてくれた。

教団の中学校みたいな学校で勉強している時、御本部で大事件が起きた。

雛型かんろうだいが、ある不届きな信者によって結界を破られ、かんろうだいをぶっ倒してしまった。

御本部役員などは三日三晩にわたる、お詫び勤めをし、汚されたかんろうだいを新しく建て直すのに大わらわだったらしい。その事件の事について正式な発表は一切なかった。

犯人の所属する大教会はお詫びに本部に対して一億円のお詫びとお許しのお供えをしたと言うような噂話も流れた。本部周辺はその事件のうわさ話で持ちきりだった。
気ちがい河馬は、雛型かんろうだいがぶっ倒されようと、どうと言う事無いと思って全く無関心だった。
御本部での3ヶ月の生活は気ちがい河馬の心に癒しと、安らぎを与えるものであった。

しかし3ヶ月目、河馬はひどい鬱状態に落ち込み、本部設立の病院の精神科を受診した。
御本部設立病院の医者は河馬に1日も早く家に帰って、あなたの主治医の診察を受けなさい、と勧めた。学校には、またいつでも来れるからと言い、これから御本部は夏に向かって恒例行事で騒がしくなるからと、つけ加えた。
御本部の学校生活は竜頭蛇尾に終わった。

成績は散々だった。

教会に凭れて、つまり借金してかろうじて卒業した。

教会への負債は障害年金を毎月一万円づつ貯めて、一年半後に親会長、会長婦人に返した。

師匠の親会長は大変よろこんでくれ、胸つかえがおりた。


(この稿続く)

五番街のマリーは現在、躁病激しく閉鎖病棟の中の隔離病棟保護室に入院してる。

2014-07-26 19:41:56 | 風景
マリーは正真正銘の躁病である。
鬱は無い。比較的落ち着きのある時でも、気ちがい河馬の目から見れば、躁状態にある万年躁である。
躁(そう)状態が常態と言っても過言ではない。

しかし躁がひどい時、入院が必要な時には河馬には直ぐ解る。その指標は河馬への電話、ストーカーに近い、電話の回数とその一回あたりの時間で解る。河馬携帯番号をいくら話しても電話代がかからない只電話に、勝手に指定しているので、電話代など気にしないで、30
~40分でも電話を切らない。

 もう10年も前に聞いた話を何度でも繰り返す。自分が言った事を忘れているのだ。


気ちがい河馬はかって浅香山患者会の会長をやっていて、「浅香山患者会便り」を月一回発行し、発行責任者として名前も本名と携帯電話番号をその機関紙に掲載していたから、名前と携帯電話番号は公開だった。

公開した電話番号を患者会の会員や、不特定の匿名の患者からの電話相談のの窓口にしていた。

電話番号の公開は大きなリスクがともなった。が、患者会会長が全体を代表することと、全責任を負う意味合いでも必要で、あった。
又当時、「フーテン河馬日記」というブログを立ち上げ。患者会の公式サイトにしていた。「フーテン河馬日記」には幹部役員数名に限り、本人の了解のもとに、顔写真入りの、紹介記事を載せて、幹部役員としての自覚と責任をってもらうことにしていた。
何しろ残された記録に寄れば、役員だけで総勢十数名いたからである。

患者会が患者会員のプライバシーを守ることは瞳のように大切にしていたが、浅香山患者会が無責任な鵺(ぬえ)のよう な秘密組織に思われたくなかった。

マリーは一時患者会の婦人部長をしてもらった。

そのころマリーには髪を金髪に染めニコニコ笑っていた。 会長河馬はカミングアウトすることを何度も確かめ、本人の了承を取り付け、写真を撮った。

公式ブログに登場してもらった。

さすがににブログは仮名にしたが。機関紙「患者会便り」には本名で載せた。
マリーは10年ほど前、山田という、男と同棲していた。

山田は精神病、でアル中で、糖尿病で、DVを繰り返す男だった。

十数年前病院の近くをトボトボ歩いているマリーと出くわした。 マリーの顔はたんこぶ、目のしたは青タン、赤タンでとても見ていられない様になっていた。

「どうしたん だ?」と尋ねたら、「山田さんがどついた」と答えた。

河馬は近くのファミリーレストランに連れて行き、話し合いした。

アルコール中毒、糖尿病の人間がどういう末路を辿るか、河馬の身の周りの実例を挙げ、「色々、男女間の問題には他人が立ち入れない、こともあるだろうが山田と言う男はアルコール中毒の適切な治療を受けなければ、今後も何度でも問題は起こるよ。」と別れられるなら、別れたほうが良いよ。と忠告した。

ケースワーカーに相談したのか?と尋ねたら、まだ若い女のケースワーカーで話にならなかった。 と、彼女は言って首をふった。

マリーもただ殴られていたわけではなかった。話を聞いているうちに、マリーもフライパンを持って男の頭をどつき、反撃したそうだ。
 さすが万年躁のマリーだただの女ではない。

 が、狂った男の暴力にはかなわなかった。
結局、顔をボコボコにされた。もし夫婦でなかったら立派な傷害事件である。

別れる事を勧めましたが、夫婦喧嘩は犬も食わぬ、の例え道理その後、8~9年二人の関係は続いた。

最近になってやっとマリーから電話があって、山田とは別れる。縁切ったけど、つきまとわれている。ストーカーに山田がなってしまった。
警察署もにも行ったがラチあかん。警察署は逃げなさい。と言うばかり。で何もしてくれない、と愚痴をこぼした。

河馬は仕方ないないから、主治医に相談して病院へ入院して、しばらくほとぼりを冷ますのだな。
と、助言した。

それで3ヶ月ほど入院して、無事退院した。マリーが入院した病棟は比較的急性期の患者が入る病棟で緩い病棟だった。
マリーはその病棟で女王様気どりで、同じ病棟のおっさんたちを侍らしていた。

3ヶ月と言う切りが、来たのでマリーの主治医は退院させたようだ。


マリーの退院後河馬に対する激しい電話ストーカーが始まり、河馬は辟易とした。

退院後1ヶ月位立って、夜の10時ごろ、電話がかかって来て「河馬のところ泊まりに行って良いか」と聞いたので、
別にかまわないけどと言ったら、今病院に来て入院希望出したのだけど、断られた。と言う。

そらそうだろう。夜間に、急迫、緊急状態で主治医が当直医でもなければ、入院できる訳はない。

10時ごろ電話をかけて来たマリーは、タクシーで片道の料金しかもたず、病院にかけ込んだみたいだ。

電話で金なんぼもってる?と訪ねたら、300円くらいと答えた。それだけあったら十分な河馬の最寄り駅までこれるから。駅前着いたら電話して、と言って電話切った。


しばらくするとまた電話かかってて来て、駅迄来たけれど、河馬の言った駅ない。切符変われへん。と言う。
いったいどこの駅にいるのかと聞くと。浅香山駅にいる。

河馬の最寄りの駅の切符が、買えないのは当然だ。

鉄道会社が違う。
河馬は正確にマリーのマンションの最寄りの駅から乗れる鉄道会社だと何度も念押した。
浅香山駅で無く浅香駅から乗れと何度も念押したがダメだった。
まるで反対の方角へ歩いている。完全に混乱している。


河馬は説明する気力を失って、電話を切った。混乱した状態で受け入れても迷惑被るのはこちらだ。
そのあとどうなったか河馬の知るところではない。

河馬に責任はないが彼女はタクシーの無賃乗車をして自分のマンションに帰ったらしい。当然トラブルになって警察行ったのかも知れない。

冷静、正常であれば、自宅まで、少し歩かねばならないが、300円で十分帰ることができた。

しかし、躁でぶっ飛んでいるときは、そんなものだ。

気ちがい河馬も病院へ通うのに毎日タクシーを使ったことがあった。電車とバスで行けば350円ぐらいで行けるところを1500円以上、使った。


マリーは後日主治医の診察を受けて、めでたく御入院となった。

ところが本人の希望に反して、閉鎖病棟の隔離病棟の保護室への入院となった。

保護室から河馬のところへ、電気かけてくる。
テレホンカードの度数の残っている限り、保護室へ入っていても通信の自由はある。

河馬のところへ電話かけて来て、散々悪態をつく。

しまいにはテレホンカード差し入れして、等と要求しだす始末だ。
喉が渇くから水差し入れてと言ってきた。しかし面会は家族しか、できない。マリーは内縁の夫になってくれ、という。
やさしい河馬は、内縁の夫で一度は面会したが、二度目は彼女の状態が悪いから、面会出来ません。と病棟看護師に断られた。水だけ差し入れて、これ幸いと帰った。

2~3日後、また電話がかかって来て、お金が入ったら面会に来いと言う。

河馬は腹たてて、3ヶ月保護室に入っとれ、痩せて美容に良いわ。と電話切った。

以上躁病マリー騒動記。