元教員の資料箱

昭和43年から35年間、教育公務員を務めました。その間に使用した教育資料です。御自由に御活用ください。

エッセイ・知人A氏の「葬儀」譚

2011-06-24 00:00:00 | Weblog
昨日、今日と二日間に亘って知人A氏の葬儀が執り行われた。A氏の享年は63歳、現役を退職して五年が経過、病気療養中の見舞客も四、五人ほど、親族といっても従姉妹の二家族(五、六人)だったので、「通夜の客」は二十人程度、多くても三十人を超えることはないだろうと思っていたが、あにはからんや、職場の同僚・上司を含めて「親しい関係者」が六十人も訪れた。今さらながら、A氏の「他人思いの」「温かい」人柄が偲ばれ、深い感銘を受けた次第である。今日は、告別式。勉強熱心だったA氏のこと、冥土でも「ノート、鉛筆」は欠かせないだろうと、彼が最後まで居住していた「介護施設」の居室に取りに行ったところ、受付で職員が開口一番、「Aさんが注文してあった、英会話のテキストブックが届いています。目を通さずに逝かれてしまったので、さぞ残念でしょう。どうか、棺の中に入れてあげてください」だと・・・。人生、最後の最後まで「勉強しよう」と努力された様子に驚嘆した。「人は生きたように死んでいく」(「死に様イコール生き様」)とは、よく聞かれる言葉だが、なるほどA氏は「最後まで努力の人」だったのか・・・。告別式の会葬者は、親族五名、一般六名であったが、初七日法要を含めて四十五分間の読経、終了後、一般六名がそれぞれに弔辞を述べたので、通夜以上に充実したひとときであったと、私は思う。はたしてA氏には聞こえたことだろうか。しばらくして棺を閉じる。思い思いの品物、祭壇に飾られていた生花も盛りだくさんに納められ、棺(A氏の亡骸)は荼毘に付された。およそ1時間後、A氏は「骨灰」と化し、(会葬者全員が骨上げして)「壺」の中へ導かれた。火葬場の職員が「これは《喉仏》、これは《上顎》・・・」などと御託を並べるのを、なぜか皆「神妙に」聞いているので、私も同調せざるを得ないのだが、心の中では「そんなことは、どうでもいい」と叫んでいる。そもそも人間、死んでしまえばそれまで、生きているうちが「華」ではないか。聞くところによれば、「火葬」は「骨が残るように仕上げる」そうな。あほらしい。なぜ、そんなに骨が「大切」なのだろうか。私が死んだ「暁」には、何一つ残らない程度に「焼き尽くして」もらいたい、と思う。さすれば、「遺骨を埋葬する」などという無駄な作業は省略されるではないか。寺の墓地、霊園の類も不要、「供養料」「管理費」などと言った得体の知れない出費も不要、そもそも「金がなければ死ねない」ような「世の中」は改めなければならない。
 とはいえ、A氏は資産家、終末の医療、葬儀、埋葬に「いかほどの出費」をしようとも、それをA氏が望むなら、文字通り「故人の自由」であることを「納得して」帰路についた次第である。(2009.6.24))
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エッセイ・知人A氏の「死」

2011-06-23 00:00:00 | Weblog
訃報が入った。パーキンソン病と闘っていた知人A氏が今日午前6時に他界した由、謹んで冥福を祈りたい。身の回りの友人、知人が一人、二人、三人と旅立って逝く。寂しいとはいえ、それが生きとし生けるものの宿命である。A氏の享年は63歳、私より2年後輩だが「早すぎる」とは思わない。古来より「人間五十年」と言われているように、還暦(六十歳)まで生き延びれば、「天寿を全うした」に等しい、と私は思う。「お前百まで、わしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで」という俚言は、それが全く実現不能な理想(夢)、絵空事だからこそ、「永久の愛」を語るキャッチフレーズとして意味があったのだ。気がつくと、今は「高齢化社会」、かつては「夢」「絵空事」であった俚言の世界は、実のところは「リハビリ」「老老介護」にあけくれる毎日、最後は「心中」「殺人」「孤独死」などで決着をつけざるを得ない実情ではないか。「人間五十年」という尺度は、人類共通の「理にかなった」尺度であり、それにしたがっている限り、人々は(死ぬに死ねない)「無駄な苦しみ」を味わうことはなかったのではないか。多少の「未練」を残しながら旅立つ、といった「程々の人生」(知足の人生)が最高ではないか、と私はつくづく思う。そのためには、「人間長生きをしたくない」「生き恥(老醜)をさらすな」「年寄りは若い者に道を譲れ」といった意識の涵養が肝要であろう。
 A氏の享年は63歳、まさに「理想的な死」である、と私は思う。加えて、A氏は、独身・独居を貫き(親族をつくらず)、誰にも迷惑をかけず(多額の財を残したにもかかわらず)、悲しませず、「独りで」堂々と「天寿を全うした」。そのたくましさ(精神力)に衷心から敬意を表したい。「死」は「生」に比べて「忌まわしい」「穢らわしい」「悲しむべき」出来事のように思われているが、私は同意しない。「生」(誕生)は、人生のスタート、「寿」「祝」という言葉がピッタリだとすれば、「死」(臨終)は人生のゴール、「お疲れ様」「よくやった」と「寿いでも」罰は当たるまい。まさに「祝・卒業」といった雰囲気が必要なのだ。(冥福という言葉もあるではないか)
 A氏の闘病生活は約十年続いたが、晩年の一年弱は「ほぼ寝たきり」で、「お決まりの」処置(気管切開、胃瘻等々、体調不安定による入・退院のくりかえし)を施され、ただ「自力呼吸」をしているだけの生活のように、私は感じていた。「自分だったら、耐えられない。早く楽にしてくれ(殺してくれ)」とパニックになるだろう。A氏は「よく(死ぬまで)耐えた」と思う。だからこそ、「おめでとう」という言葉をかけたいのだが・・・。なぜか、私の目には涙が湧いてきて止まらない。(2009.6.22)
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コラム・「君が代不起立」教職員」と田母神・前空幕長の「共通点」

2011-06-19 00:00:00 | Weblog
 新聞報道によれば、〈神奈川県教育委員会が、君が代斉唱時に起立しなかった教職員の氏名を情報収集したのは「県個人情報保護条例」に違反するとして、同県立学校の教職員十八人が十七日、収集した情報の消去や原告一人当たり百万円の慰謝料などを県に求める訴訟を横浜地裁に起こした〉(11月18日付け東京新聞朝刊26面)そうである。
 この十八人は、自己の思想・信条(反民族主義・反軍国主義)に基づいて「起立しなかった」のだろうが、そのことは教育公務員として「職務命令違反」(違法行為)に該当することを認めるか否か。もし認めるなら、自己の氏名が報告・収集されても当然、県教育委員会は(県民にかわって)「行政処分」を行わなければならないからである。もし否なら、堂々と自己の氏名を「公表」して闘えばよい。ただし、君が代斉唱は「文科省学習指導要領」(全国共通の基準)に基づく教育活動であり、一教育委員会、一校長、一「職員会議」の「恣意」や「独断」で行われたり、行われなかったりするものではない限り、「不起立」という行動が「闘争」になり得るかどうか。「学習指導要領」の改訂、撤廃を目指す方が先決(本筋の闘争)ではないだろうか。だが、現状から見て、そのような取り組みは「夢のまた夢」、手っ取り早く(自爆・特攻的に)「不起立」で闘う他はないといったあたりが「本音」ではあるまいか。はたして、生徒には「起立」を強要しておきながら(もしくは「不起立」を指導せずに)、自分だけは「不起立」にこだわるといった教員の姿勢に共感し、支持する生徒・保護者がどれくらいいるだろうか。
 いずれにせよ、この訴訟は「自己の個人情報」が「保護されなかった」という趣旨であることは間違いない。もし原告十八人が勝訴した場合、慰謝料百万円はどのように使途するつもりだろうか。公務員が「私権」(個人情報の保護)を主張している、という点では、先に空幕長を更迭された田母神俊雄氏の「言動」(「自分のことより国家、国民のことを常に優先する言動をとってほしい」と部下に訓示しながら、自分自身は、民間の懸賞金付論文コンクールの懸賞金300万円を私物化、合わせて、「更迭」されたのにもかかわらず、ちゃっかりと定年退職金数千万円を私物化しようとしている自己矛盾、しかもそのことに気がついていない鈍感さ、または厚顔無恥)と「五十歩百歩」あるいは「瓜二つ」もしくは「同じ穴の狢」という感想を持ってしまうのは、私ばかりであろうか(2008.11.18)
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コラム・「日の丸・君が代」訴訟

2011-06-16 00:00:00 | Weblog
新聞報道によれば「日の丸・君が代をめぐる教諭による訴訟は、少なくとも東京、福岡の両高裁、東京、神奈川、広島の三地裁で係争中。原告の総数は八百人を超える」。(「東京新聞」2月28日付け朝刊)この原告たちの主張は、日の丸・君が代の強制(校長の職務命令)は、思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反するということであろう。では、原告たちの「思想・良心」とはどのような内容のものだろうか。最高裁小法廷の判決(2月27日)では「・・・君が代が過去の日本のアジア侵略と結びついており・・・」と指摘されているので、憲法9条にもとづいた「反戦思想」であることは推察できる。「反戦」を信条とすることは「自由」であり、私も共感する。しかし、では、学校現場で「強制」に従わないことが「反戦」に結びつく行動だといえるだろうか。大切なことは、その行動が、児童・生徒、保護者、地域住民に支持され、広く「世論」として国民に定着するかどうかを見極めることである。全国公立学校教職員の総数に比べ、原告の総数が八百人に過ぎないという「現実」をどう見るか。「強制」のジレンマの中で、校長が自殺した事例もあった。原告たちは、その死をどのように受けとめ、評価しているか。 
 憲法9条の「反戦思想」は、他の「基本的人権」と同様に「学校教育」全体の中で具現化されなければならない。原告たちの「思想・良心」が係争のためばかりでなく、崩壊した学校現場で苦しむ児童・生徒の「生存権」「学習権」にまで波及することを期待する。
(2007.3.4)

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コラム・犯罪の「発生源」

2011-06-15 00:00:00 | Weblog
東京新聞11月9日付け朝刊「こちら特報部」によれば,日本の警察の検挙率が20%を割ったという。しかも,五年前水準は84%であったそうだ。わずか五年の間に,八割から二割未満に低下したなどとは,にわかに信じられない。しかし,それが事実だとすれば,もはや日本は「法治国家」であるとはいえず,放置できない問題である。総選挙に臨んだ各政党は「警察官を増員」することでその解決を図ろうとしているが,それだけで十分だろうか。
そもそも犯罪が皆無の社会になれば,警察の業務など不要である。たとえば,ほとんどの「家庭」「保育園・幼稚園」に警察は不要である。ほとんどの「学校」でも警察官を必要としない。それらの「社会」では,通常の場合,犯罪は皆無に等しい。なぜなら,壊すこと,盗むこと,騙すこと,傷つけること等,「悪いこと」(犯罪)をしてはいけないことを「教育」しているからである。
ところが,最近の日本社会においては,児童虐待,いじめ,校内暴力,教員の不祥事など,その「ほとんど」がほとんどではなくなり,「通常」よりも「異常」の場合が激増している。この現象を,はたして「警察官を増員」することでくい止めることができるだろうか。
私は,この問題を解決するために,本来「教育」の場として存在する「家庭」や「学校」での「犯罪」を根絶するこが必要不可欠だと思う。つまり,犯罪の発生源は,人間が成長過程にある幼児期,学齢期までさかのぼって考察することが大切であり,その時期にかかわった両親や教員の責任をないがしろにしてはいけないと思う。
日本全国の「家庭」や「学校」が「犯罪とは無縁である」という状況になれば,一般社会の治安状況は改善されるに違いない。
競争社会のすべてを否定することはできないが,「勝てば官軍」「一人勝ち」だけで終わればよいという価値基準をくつがえす「道徳の涵養」が必要であり,それできるのは,「家庭教育」「学校教育」の担い手である両親および教員をおいて他にない,と私は考える。
                        (2003年11月9日))
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コラム・少年の罪と罰

2011-06-06 00:00:00 | Weblog
「凶悪犯罪」を犯してしまった少年の罪と罰とは何か。マスコミ・ジャーナリズムの論評によれば,十四歳未満の少年は刑事責任を負えないので,法律的に少年を罰することはできない,どうやって少年の罪を償わせればよいか,困惑している様子が窺われる。
十四歳未満の少年が刑事責任を負えないのはなぜか。負えないわけではない。そのように大人が決めただけのことである。つまり,「十四歳未満の少年が,刑法に触れるような犯罪を犯すはずがない」という大人の認識がそのような困惑を招いているだけのことである。
では,だれが少年の責任を負わなければならないか。そのような刑法を是認している,私を含めた大人達であることには明白である。
報道によれば,少年の学業成績はトップクラスだと言う。誰がその成績を評価したのだろうか。学校関係者である。これまで(いくつかの経緯はあったにせよ)少年を成績優秀な「いい子」として評価し続けてきた。そのことを少年自身はどのように自己評価してきたのだろうか。「自分は成績優秀だ。テストで間違わないのだから,悪いことをするはずがない」と思ったとしても当然であろう。       事件後,少年は「悪いことをしました。お父さん,お母さんごめんなさい。後悔しています」と言ったそうである。私の独断によれば,少年は今回,生まれて初めて「悪いことをした」という「後悔」(懺悔)の気持ちを味わったのではないだろうか。私たちは「悪いことをした」という後悔の気持ちを積み重ねることによって,子どもから大人に成長していくのではないか。失敗,間違い,いたずら,からかい等は,子ども時代には日常茶飯事である。子どもはそのたびに「しまった。悪いことをしてしまった。相手を傷つけてしまった」という罪の意識にさいなまれ,「もういやだ。二度としたくない」という後悔の気持ちを育てていくのだと思う。(私自身,年下の幼児を溝に突き落とし,家に逃げ帰った経験がある。友達と生まれたばかりのネズミを見つけだし,圧殺した。トカゲや蛙,トンボ,蝉,蝶等は,おもちゃのように犠牲になった。しかし,幼児期,学童期の「悪いことをした」後悔は,初老期の今になっても私を責め続けている。)
当然のことだが,その成長には大人からの支援(教育)が不可欠である。乳児はもとより一,二歳の幼児には「悪いことをした」という気持ちはない。親から罰せられることによって「してはいけないこと」「守らなければ行けないこと」(善悪の判断)を学ぶのである。(刑法ではなく民法で,親には懲戒権が与えられている)これまで少年は両親からどのような罰を受けてきたのだろうか。
さらに,後悔の気持ちは,「善いこと」に感動することによって確固としたものになる。民話,童話,小説,伝記等の文学作品をはじめ,音楽,美術等の芸術・文化に触れ,「真善美」といった価値基準を学ぶ(感動する)ことを通して,「悪いことをしたくない」という気持ち(道徳,哲学)がより確かなものに裏打ちされるからである。現在,養育環境としての家庭に提供されるマスコミ文化は,子どもたちにどのような感動を与えているだろうか。テレビ画面を見ているだけで発作を起こしてしまうようなアニメ番組は論外として,モザイクだらけの画面,変質した音声による匿名の報道,繰り返し挿入されるコマーシャル等々,要するに「なんでも(金銭に換算して)鑑定する」功利的な価値基準や,「赤信号みんなで渡ればこわくない」流の「軽薄」で「無責任」な処世術の数々を提供し続けてきた責任を誰が負うのか。「国民の知る権利」「表現の自由」という文言を楯にして,相手の立場,気持ちなどおかまいなく,「おもしろければよい」「売れればよい」(視聴率が上がればよい)ことを至上目的にしたマスコミ文化の関係者に「悪いことをした」という「後悔」はあるのだろうか。これまで少年は,マスコミ文化(情報社会)からどのような感動を与えられてきたのだろうか。
 また,学校で展開される教育活動は,徳育教材としてどのような題材を準備しているだろうか。いたいけな子雀,やせ蛙はもとより,有害な蝿にさえ愛情を感じる小林一茶の「心」をどのように伝えてきたか。童話「きかんしゃやえもん」の「悪かったしゃー」という後悔の「心」をどのように伝えてきたか。知識として伝達し記憶させることに終始していなかったか。
その少年に対する知育が成功したことは証明済みである。では「道徳」の評価はどうするのか。「特別活動」の評価はどうなのか。その成績もトップクラスだったといえるのだろうか。少年が在学する中学校の校長は匿名で謝罪した。しかし,校長はどのような「悪いことをした」のだろうか,誰に対して「悪いことをした」のだろうか,また少年のように「後悔して」いるのだろうか,どのようなことを「後悔している」のだろうか,はっきり理解することができなかった。
さらに言えば,少年にこれまで直接関わってきた(少年の成績を評価してきた)小学校,中学校の教員は「悪いことをした」と思っているのだろうか。「後悔して」いるのだろうか。このまま,沈黙を守り,時間が過ぎ去るのを待っているのだろうか。
いずれにせよ,少年は刑事責任を負うことはできない。しかし被害者に対する責任は誰かが負わなければならないのである。それが,私を含めた大人達であることは間違いない。
                         (2003年7月26日))))
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コラム・なぜ殺せたか

2011-06-05 00:00:00 | Weblog
高校一年の長男が両親を殺害した。マスコミ・報道関係者は、「なぜ」「どうやって」といった犯行の動機や手口を明らかにしようとしているようだが、そのことが事件の再発防止に役立つとは思えない。今や、殺人事件は「日常茶飯事」として、枚挙にいとまがないからである。
大切なことは、高校一年の少年が「なぜ両親を殺したか」ではなく、「なぜ殺せたか」という「可能性」の問題を明らかにすることだと思う。
私たちは「相手を殺したい」と思っただけで、すぐにそれを実行することができるだろうか。「でも殺せない」と思い直すのが、人間の本心ではないだろうか。かつての米国陸軍中佐デーヴ・グロスマンは、「何百年も前から、個人としての兵士は敵を殺すことを拒否してきた。」(『戦争における「人殺し」の心理学・安原和見訳・ちくま学芸文庫』)と述べ、最前線の兵士ですら、自らの銃器を発砲する者は15~20%に過ぎなかったことを明らかにしている。
高校一年の少年は、軍事訓練を受けた兵士ではない。にもかかわらず、「なぜ殺せたか」。
マスコミの情報によれば、少年は「無差別殺人ゲーム」の愛好者だったという。だとすれば、少年は知らず知らずのうちに、「相手を殺したい」と思っただけで、すぐにそれを実行することができるような「オペラント条件づけ」の学習を「重ね続けて」きたのかもしれない。
前書によれば、米軍はベトナム戦争後、兵士の発砲率を上げるために、軍事訓練の中にテレビゲームを導入し、湾岸戦争以後の戦争では大きな効果をもたらしている。今、そのゲームソフトが民間に流出し、アメリカの子どもたちが、知らず知らずのうちに「遊びとして」「殺人の条件づけ」学習を重ねていると、グロスマンは危惧している。
「では、そのようなゲームを愛好するすべての子どもたちが殺人を実行しているだろうか」、という反論があるかもしれない。確かに、すべてとはいえない。しかし、私の経験によれば、60年前には、皆無に等しかった未成年の殺人が、今日では「決して珍しくない」程度にまで「増加」し続けていることは確かなのである。それは、なぜだろうか。
                         (2005年6月24日)
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