元教員の資料箱

昭和43年から35年間、教育公務員を務めました。その間に使用した教育資料です。御自由に御活用ください。

教諭の「保護者提訴」は《一億総未熟化社会》への途

2012-06-13 00:00:00 | 事件
東京新聞朝刊(25面)に「教諭が保護者提訴 慰謝料求め「苦情で不眠症に」行田の市立小」という見出しの記事が載っている。その内容は以下の通りであった。〈埼玉県行田市の市立小学校の女性教諭が、担任する女児の親から再三嫌がらせを受け、不眠症になったとして、両親に慰謝料500万円を求める訴訟をさいたま地裁熊谷支部に起こしたことが分かった。訴状などによると、昨年6月、女児は同じクラスの女児とトラブルになり、教諭が解決のためクラス内で話し合いをしたところ、母親から「相手が悪いのに娘を謝らせようとした」と非難の電話があった。7月中旬までに計8回、連絡帳に「先生は人間関係を円滑にする能力も著しく劣る」などと書き込んだ、としている。また、県教委や人権擁護委員会、文部科学省にも教諭を非難する文書を送ったり口頭で伝えたりしたという。市教委を仲介役に、学校・教諭側と両親で話し合う場も設定しようとしたが、両親は拒否。9月には、給食の片付けを指導するため女性教諭が女児の背中に2回触れたところ、両親は警察に暴行容疑で被害届を出したという。訴えでは、一連の苦情への対応で女性教諭は不眠症に陥ったと主張している。学校側は取材に「管理職が不在で話せない」とするが、、市教委への説明で「モンスターペアレンツに学校や教師が負けないようにし、教諭が教員を代表して訴訟を行っていると受けとめている」との文書を提出したという。市教委は「裁判中なのでコメントできない」としている。女児の両親は「うちの子が女性教諭や友だちにいじめられているのに、学校にモンスターペアレントに仕立て上げられている。こちらが精神的なダメージを被っており、和解はあり得ない」と話している〉。文字通り、《子どもの喧嘩に親がでる》といった按配で、まことに見苦しく、日本の「大人たち」もここまで「未熟者」になり果てたか、というのが率直な感想である。事の発端は、女児同士の「些細な」トラブル、それが「慰謝料500万円」を争う事案にまで発展したというのだから、開いた口がふさがらない。要するに、事の原因は「女性教諭」と「女児・両親」の《相性》が悪かったというだけの話。成熟した大人同士なら、いくらでも「解決方法」は見つけられる。例えば、女性教諭。さっさと退職すればよい。子どもの喧嘩を「円満に」解決できなかった「事実」に加え、「不眠症を訴えながら」「学校や教師が《負けないように》」争うエネルギーがあろうとは・・・、(両親の指摘通り)「人間関係を円滑にする能力も著しく劣る」ことは一目瞭然である。一方、両親。そんな教員の掌中に「愛児」を送り出すことはない。その担任が替わるまで「登校拒否」させればよい。親は、子どもの「教育を受ける権利」を守るのが義務であり、その権利が剥奪される(いじめられる)ことが明らかな以上、学校に行かせる必要はないのである。両者」ががそうしないのはなぜか。自分が「損をする」(と思っている)からである。「負けたくない」からである。「自分を守りたい」からである。女性教諭並びに両親の姿勢・態度はまさに「同じ穴の狢」、それぞれの私利私欲(我執)を「ヒステリックに」主張しているに過ぎない。両者には、成熟した大人なら誰でも持っていた「謙譲」の徳、相手の立場に立って考えるといった「常識」(社会的視野)が致命的に欠けている。未熟な教員(学校・市教委)、未熟な両親のもとで育てられる子どもたちが「哀れ」である。かくて、平成の日本社会は「一億総未熟化」への途を辿るだけと相成った。御愁傷様。(2011.1.19)

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コラム・小学校教諭「土下座強要」問題にみられる道徳的末期症状

2012-06-08 00:00:00 | 事件
産経新聞(12月25日15時29分配信)に以下の記事が載っている。〈「児童28人に土下座強要 前橋の小学教諭 頭髪からかう曲注意」 前橋市立桃木小学校(同市上沖町)で、頭髪が薄いことを嘲笑する内容の歌が校内放送で流れたことなどに怒った40代の男性教諭が、児童28人に土下座させていたことが25日、分かった。同校では「不適切な行為だった」として、男性教諭と斎木雄造校長が児童の家庭を訪ね、謝罪した。同校によると、歌が流されたのは今月3日昼の校内放送。放送委員会の顧問である男性教諭は、CDを持ち込み歌を流すように求めた6年の男子児童に対し、「人の体つきを笑うのはよくない」と説諭。「誠意を持って心から謝るには、土下座という方法がある」などと土下座を強要した。翌4日には、校内放送を聞いて笑ったとして、4年生27人に土下座をさせた。男性教諭も髪が薄いというが、「人の心を思う気持ちを教えるつもりだった」と話しているという〉(YAHOOニュース)この記事を読んで、私は以下の疑問をもった。①男性教諭は、「なぜ」怒ったのだろうか。②6年の児童は「どんな目的で」CDを持ち込み歌を流すように求めたのだろうか。③男性教諭は、「誰に対して」土下座(謝罪)させたのだろうか。④同校(校長)は、男性教諭の行為の「どこが」不適切だと判断したのか。⑤校内放送を聞いて笑ったのは4年生27人だけだったのか。 
 一方、同日の中日新聞(12月25日12時40分 共同)には、以下の記事が載っている。〈「児童28人に土下座強要 頭髪からかう曲で教諭」 前橋市立桃木小学校で、頭髪が薄い人をからかう歌詞の曲が校内放送で流れたことを問題視した40代の男性教諭が、児童28人を土下座させ反省を強要していたことが25日、分かった。斎木雄造校長は「不適切だった〉としている。教諭は校長に伴われて児童の家庭を訪ね、保護者に謝罪した。斎木校長によると、曲は今月3日昼の校内放送で流れた。教諭は「人の身体的特徴を笑いの対象にしてはいけない」と、CDを学校に持ち込み放送委員会の児童に流すよう頼んだ6年の男子児童を注意。「誠意をもって反省の態度を示す反省の態度を示す方法がある」と自分の前で土下座させた。翌日には、曲を聞いて笑った4年生27人にも土下座を求めた。曲はインターネットで流されていた。教諭は4年の担任で放送委員会の顧問。「人の心を大事にしてほしいと願う指導のつもりだった。個人的感情で怒ったのではない」と釈明しているという〉
 この記事を読んで、私は前述の疑問がいくつか解けたような気がする。誰が考えても、「人の体つきを笑うのはよくない」「人の身体的特徴を笑いの対象にしてはいけない」という男性教諭の考えは「正論」である。にもかかわらず、それを教えようとした方法が「不適切」であったとすれば、それはどこか。二つの記事を読み比べて分かったことは以下の通りである。①男性教諭は、「自分に対して土下座を強要する」ことによって、「個人的感情で怒った」ことに「されてしまった」。②校内放送を聞いて笑ったのは4年生27人だけではなかった筈なのに、懲戒の対象を「自己判断」で「私的に」限定した。といったあたりが「不適切な行為」(私憤による公私混同)とみなされた所以であろう。それにしても、「嗤われた」立場の教員が、「嗤った」立場の児童・保護者に謝罪する「世相」は道徳的に末期症状、なんとも救いようのない事例であった。新聞記者は社会の木鐸、せめてその犯罪的なCD曲の「歌詞」(作詞者)ぐらいは報道すべきではなかったか。(2009.12.25)


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コラム・「元厚生事務次官ら連続殺傷事件」の《核心》

2012-06-03 00:00:00 | 事件
連日、元厚生事務次官ら連続殺傷事件についての報道が繰り返されているが、「核心に迫る」内容の記事は少ない。要するに、「何が何だかわからない」「いたずらに不可解感を高める」だけのように感じる。その極め付きは、〈犬を殺され、その元締は厚生省だと思った。初めは厚生大臣を狙おうと思っていた。日本は官僚社会だから、官僚の方が実権を握っていると思い、殺害を計画した〉〈やりたいことをやって人生に未練がない。体力的に考えても今しかない〉などという小泉容疑者の供述を「そのまま」記事として採用していることである。なるほど、その供述は「事実」であろう。しかし、そこで語られている内容は、(①元次官らの名前・住所を国立国会図書館で調べた、②サバイバルナイフなど計十本の刃物を三カ月以上前から準備していた、③レンタカーを借り、宅配便業者を装って犯行に及んだ、といった)彼の「行動能力」と比べて、あまりにも「未熟」「幼稚」「非常識」で「小・中学生並み」、誰もが「肯ける」代物ではない。つまり、その供述は「口から出まかせの思いつき」「虚偽の口実」、言ってしまえば「ガセネタ」に等しいのである。事件の核心はただ一点、小泉容疑者の「単独犯行」か否か(彼の背後に共犯者がいるかどうか)ということであろう。そのためには以下の点を究明することが肝要である。①「出頭時数百万円の借金を抱えていた」、その債権者は誰か。どのように返済してきたか、②現在まで、日々の生活費をどのように調達してきたか。(誰が、援助してきたか)、③犯行に費やした経費(凶器購入、レンタカー借用、宅配業者を装おう衣装・大道具・小道具の準備)は、どのように調達したか。(誰が、援助・協力したか)
 事件の様相からして「怨み」「仇討ち」による犯行であることは間違いない。大切なことは、誰が、どんな怨みをもっていたか、を明らかにすることである。供述どおり、「ペットの仇討ち」が「事件の核心」だとしたら、小泉容疑者の「情緒未熟」(人格障害?)が白日の下に晒された(個人情報の暴露に他ならない)だけのこと、連日、トップ記事で報道するほどの価値はない。興味本位な「売れる記事」を垂れ流すよりは、犠牲者の冥福、被害者の一日も早い回復を祈ることの方が先(マスコミの使命)だと、私は思う。(2009.11.26)
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コラム・江戸川・小1長男暴行死、「教育公務員」の職責

2012-05-31 00:00:00 | 事件
@niftyニュース(読売新聞3時8分配信)に、「『食べるのが遅い』両親が小1暴行→病院で死亡」という見出しで、以下の記事が載っている。〈小学1年生の長男に暴行を加えたとして、警視庁小岩署は、東京都江戸川区○○、電気工A(31)、妻のB(22)の両容疑者を傷害容疑で逮捕した。長男は搬送先の病院で死亡し、背中などに複数のあざがあることから、同署は普段から暴行を受けていた疑いもあるとみて25日に司法解剖を行い、死因を調べる。発表によると2人は23日午後8時頃、自宅アパートで、長男で区立松本小1年のC君(7)を「ご飯を食べるのが遅い」と言って正座させ、顔面を平手打ちしたほか、左足をけるなど約1時間にわたって暴行した疑い。C君がぐったりしたためB容疑者が119番したが、24日朝、搬送先の病院で死亡した。死因は不詳で両腕と背中に多数のあざがあった。調べに対し、2人は「しつけのつもりでたたいた」と容疑を認め、A容疑者は「普段からうそをついた時などに平手で殴っていた」と供述しているという。C君はB容疑者の実子で、B容疑者がA容疑者と結婚した後の昨年4月から3人で暮らしていた。松本小によると、昨年9月、C君が数日間学校を休んだため担任が家庭訪問したところ、顔を腫らすなど暴行を受けた形跡が見られたため、同日中に校長と副校長、担任が改めて訪問した。応対した両容疑者に「子供に手をあげてはいけない」と諭し、C君を病院に連れて行くよう勧めると、A容疑者は「今後は絶対にやらない」と約束した。その後、病院にも連れていったと連絡があったため、同小では児童相談所などに通報しなかったという。〉悲しいことだが、昨今では、この種の「児童虐待」は珍しくなくなってしまった。それにしてもB容疑者は22歳、C君が7歳なら、Bが15歳時の出産という勘定になる。尋常ではない。A容疑者は31歳の継父、B容疑者は「子連れの幼妻」(元・シングルマザー?)という構図をみれば、誰が考えても、C君が「きわめて不安定」「危なっかしい」家族関係の中に置かれていることは明らかであろう。まして、4か月前(3人同居から5か月後)には「暴行を受けていた形跡」を確認しているとすれば、松本小学校の「対応」は不十分極まりない、と私は思う。保護者が学校に反発、助言に従わないので学校としては手の施しようがない、という場合ならともかく、〈A容疑者は「今後は絶対にやらない」と約束した〉のではないか。つまり、その時点では学校と家庭の「信頼関係」は成立していたのである。私は部外者、詳細は知るよしもないが、〈近所の女性は「あいさつができる子だった」と話し、別の男性は「父親と仲良くキャッチボールをしていたのに・・・」と驚いた様子だった〉(東京新聞1月25日朝刊・27面)という情報もある。だとすれば「育児」「養育」に未熟すぎた両親が「手加減を知らずに」、(図らずも)犯してしまった「悲劇」ではなかったか。今や、松本小学校に代表される「教育公務員」としての職責は、「保護者・家庭・家族丸抱え」の支援まで「全うしなければ」果たせない時代に入ったのである。いずれにせよ、7歳男児の「尊い生命」が失われたことに変わりはない。(人の命は地球よりも重い、その理念を具現化することが「教育公務員」(松本小学校教員)の使命である、と私は確信する)その責任を「幼い」「未熟な」両親に負わせるだけでは、何の解決にも至らないことを如実に物語る事例であった。(2010.1.25)
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コラム・「医師の妻」とは誰か(新聞表現の問題点)

2012-05-24 00:00:00 | 事件
 新聞報道(「東京新聞」6月23日朝刊)によれば、奈良県の高一長男が「自宅に放火、二階に寝ていた医師の妻、小学二年の二男、保育園児の長女を焼死させた疑いで逮捕された。」という。医師とは、長男の父のことだが、『医師の妻』とは、長男にとって誰なのか。その記事の中で次のようにも述べられている。「長男は父と同じ医師を目指し関西で有数の進学校に通学。父は長男が小学校入学前に離婚。間もなく勤務先の病院で知り合った母と再婚し、二男、長女が生まれた。一家は近所でも評判の教育熱心な仲良し家族だった。長男は小学校時代から成績が良く、塾では一学年上のクラスに入った。サッカーも上手で所属していたチームでは中心メンバーだった。」ところが「母親は最近、長男について『進学校に行っているけど、勉強しないし、ゲームばかりしている』と知人に相談しているという。」
 つまり、『医師の妻』とは、長男にとって「継母」のことなのだが、それを長男との関係を無視して『医師の妻』と言ったり、別のところでは『母親』と表現したりしていることが問題なのである。この記事を書いた記者は、それぞれの文脈の中で「ふさわしい表現」を試みたのだろうが、当該の長男がもしこの記事を読んだとすれば、「今のお母さんは、結局『医師の妻』に過ぎなかったのだ」と感じてもおかしくない。実を言えば、そうした「記者の眼」に代表される無神経な「世間の視線」が、「仲良し家族」の「優等生」を精一杯演じてきた長男の心情を、微妙に「逆なで」してきたかもしれないのである。 
 長男は、「動機の一部として『成績のことで父に言われた』と供述。」したそうだが、そのとき、彼の心の中に「実母」の姿はどのように浮かんだのだろうか。「お母さん、ボクはやはり独りぼっちだ。もう、我慢できない。『いい子』は、今日で終わりだ。自分の生きたいように生きていくからね」と呟いて犯行におよんだのかもしれない。 
 「少年が家族を殺傷する事件は後を絶たない」のはなぜか。少年の心が「凶悪」になったのではなく、家族を支える大人の絆が「希薄」になり、大人の心が「冷淡」になったためであることを「反省」することが肝要である。
(2006.6.23)

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コラム・16歳少年の責任能力・「発達障害?」「統合失調症?」

2012-05-16 00:00:00 | 事件
東京新聞3月2日付け夕刊(9面)に、「町田高1女子殺害 少年、二審も懲役11年」という記事が載った。2005年当時16歳だった少年が、同級生(高一)の女子を刺殺した事件の控訴審判決で、東京高裁は一審判決を支持、少年の控訴を棄却したとのこと、〈中山隆夫裁判長は「少年は、被害者の生命を奪った結果の重大性の自覚に乏しい。刑事責任は極めて重い」と指摘した。殺意と責任能力の有無が争点だった。弁護側は、殺意を否定したうえで「当時、心神喪失または心身耗弱の状態だった」と主張。少年の更生には少年院での保護処分が必要として、家裁送致を求めていた〉そうである。この記事では言及されていないが、(テレビニュースの報道に拠れば)当該少年には「発達障害がある」そうである。弁護側が「当時、心神喪失または心神耗弱の状態だった」と主張する根拠はその辺にあるらしい。また、裁判長が「少年は、被害者の生命を奪った結果の重大性の自覚に乏しい」と指摘するのも肯ける。だとすれば(少年に「発達障害」があったとすれば)、いったいこの事件の責任は誰にあるのだろうか。判決は「少年にある」と結論した。私見によれば、「それだけではない」。少年に「発達障害がある」ことを知りながら、彼が「殺人」という重大な結果の「加害者」になってしまうことを、なってしまうまで放置し、あるいは未然に防ぐことができなかった(私自身も含めた)周囲の人々の「過失責任」は免れられまい。少年を「発達障害」と診断した医師、育児・教育にかかわった保護者、教員など等・・・。裁判長自身、裁判にかかわった一人として「結果の重大性」を自覚しているのだろうか。さて、この話はそれだけでは終わらない。東京新聞編集者は、こともあろうに、件の記事に続けて、「母殺害被告が否認 弁護側、責任能力争う 東京地裁」という記事を載せた。内容は、東京都新宿区で母親を殺害したとして、殺人罪に問われた次男が、東京地裁の初公判で殺意を否認した、というものである。記事には〈弁護側は責任能力も争う姿勢を示した。被告は事件当時、統合失調症と指摘されたため、検察側は精神鑑定を実施した上で「責任能力がある」として起訴。〉とあるが、加えて〈(当該)被告は十六歳だった2001年10月、北海道中富良野町で父親=当時(55)=を殺害したとして家裁送致された。旭川家裁が、父親の暴力や父母の不和による家庭内での強い緊張状態を動機とみて「教育的処遇で更正を図ることが適切」と判断。中等少年院送致の保護処分を決めた〉という内容まで載せている。ごていねいにも、さらに続けて〈母親殺害の罪に問われた(当該)被告は、十六歳のとき父親殺害の非行事実で少年院送致されました。これは少年時代の犯罪歴ですが、今回の起訴内容と密接に関連するとみられるため記事中で言及します。被告は捜査段階では、統合失調症で責任能力に疑問があったため匿名扱いでしたが、殺人罪で公判請求されたため実名で報道します〉などと「解説」とも「言い訳」ともとれる「丁寧文体」で書いている。要するに、16歳の少年が父親を殺害、少年院送致の保護処分を受けたが、その6年後、今度は母親を殺害したとして件の少年(今は成人)が「殺人罪に問われている」という事件である。つまり、「責任能力の有無を争って」弁護側が求めている「保護処分」なるものが、再犯を防ぐことができなかった、という事例であり、「発達障害」「統合失調症」という違いはあっても、高一女子殺害容疑の少年と、両親殺害容疑の成人被告は「似たり寄ったり」ではないか、といった「風潮」「世論」形成を意図してはいないか。
 加害者が「発達障害」であれ「統合失調症」であれ、被害者の「基本的人権」を侵害した犯罪に変わりなく、相当の刑罰から逃れることはできない、と私は思う。言い換えれば、この世の社会生活に参加している限り「責任能力がない」等という立場があるはずがない。そのことを「争う」なんて、裁判とは「児戯に等しい」というのが私の実感だが、「発達障害」「統合失調症」といった「レッテル」が、安易に「犯罪」と結びつけられ、「だから言わないこっちゃない」「彼らは特別な存在なんだ」「隔離する必要がある」といった「風潮」「世論」形成も看過できない。「殺人」をはじめ、あらゆる、すべての犯罪は「まともな心身」で実行されるはずがないからである。
 この世の誰もが、一つ間違えれば(その条件さえ整えば)易々と犯罪を実行できてしまうという「重大性」を「自覚」することの方が先決だと、私は思う。(2009.3.2)

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東金事件・「被告の指紋一致せず」(弁護側独自鑑定)の《意味》

2012-05-09 00:00:00 | 事件
私は「《東金事件無罪へ》の意味」というコラムで以下のように書いた。「大切なことは、あくまでも「物証」、〈被害者の衣服が入ったレジ袋から被告の指紋が発見された〉のは「事実か」、もし「事実」だとすれば、どのような経過の中で、被告の指紋がレジ袋に付着したかを「争点」にして「真実」を明らかにしなければならない。間違っても、「被告の自白内容に信憑性があるか」などといった不毛な論争が展開されることのないよう、祈りたい」(2009.9.14)
 しかるに、今日の報道(東京新聞朝刊・27面)によれば、〈東金事件「被告の指紋一致せず」 公判前手続き 弁護側が独自鑑定〉ということである。その内容の梗概は以下の通りであった。〈千葉県東金市で昨年九月、保育園児Yちゃん=当時(5)の遺体が見つかった事件で、殺人罪などで起訴されたK被告(22)の弁護団が三日、東京都内で記者会見し、同日千葉地裁で開かれた公判前手続きで、検察側が証拠提出した指紋がK被告と一致しないとする鑑定書を提出したことを明らかにした。検察側は弁護側の証拠採用を留保したという。無罪主張する方針の弁護団は、九月上旬に元栃木県警鑑識課の民間鑑識鑑定士、斎藤保氏(63)に指紋などの鑑定を依頼。検察側証拠の指紋と掌紋が、K被告のものと「不合致」との結果が出た。指紋は、Yちゃんの靴が入ったレジ袋から検出された。レジ袋はK被告の住むマンションの駐車場で見つかった。検察側は、K被告の左手親指だとしている。(以下略)〉「争点」は、あくまで「物証」、レジ袋から検出された指紋がK被告のものかどうか、「調べれば分かること」であり、「水掛け論」で終わる話ではない。
 さすれば、検察側も弁護側も「一致協力」して、その指紋が誰のものであるか(真相)を、一日も早く究明することが肝要である。もし、その指紋が弁護側の鑑識どおりK被告のものでないとすれば、「真犯人が別にいる」ことは明らか、今も、事態の推移を「冷静に」もしくは「小躍りして」見守っているに違いない。弁護側にとっても、その真犯人を究明してこそ、K被告の無罪が証明できるのではないだろうか。けだし、「足利事件」から学んだ「教訓」である、と私は思う。(2009.12.4)

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「東金事件 無罪主張へ」の意味

2012-05-07 00:00:00 | 事件
東京新聞朝刊(25面)に「東金事件 無罪主張へ 弁護団『自白誘導、証拠と矛盾』」という見出しの記事が載った。この事件は、千葉県東金市で、昨年9月、5歳の保育園・女児が殺害され、知的障害がある(とされている)22歳男性が殺人罪などで起訴されているというものである。記事によれば、〈副島洋明主任弁護人は「現場の状況や証拠が被告の自白と矛盾する。自白は、知的障害があって迎合しやすい被告から、誘導により引き出された」などと話している〉ということだが、私自身、昨年12月、この事件について以下のような見解を述べた。〈「気づいたら(幸満ちゃんが)玄関にいた。部屋にいたらぐったりした」という供述に加えて、容疑者が新たに「風呂の水に沈めた」という供述をしていることを続報しているが、容疑者には「軽い知的障害」があるとのこと、その供述内容は信ずるに値しない。大切なことは、「軽い知的障害」という、その障害の実態を的確に理解することである。「軽い」とは、何が軽いのか。排泄、食事、更衣、清潔などの基本的生活習慣、移動能力、作業能力などに生じる「支障」が「軽い」のであって、記憶、弁別、類推(関係把握)などの抽象的な認知能力、言語理解、言語表現などの思考能力に関する「支障」は「決して軽くない」。つまり、複雑な事象のことになると「言葉が通じない」「正確な言葉のやりとりができない」場面が増えることは間違いないのである。また、時間が経てば経つほど記憶はあいまいになり、周囲の環境や他人の言動に左右されやすくなるという特徴もあるだろう。それが容疑者(「軽度知的障害」)の実態である、と私は思う。したがって、彼の供述内容で事実を解明しようとればするほど、事実は「藪の中」という結果になりかねない。マスコミがその片棒を担がぬよう細心の注意が必要であり、まず「物証」を集めること、それ以外にこの事件の真相を解明する方法はない、ということを肝銘すべきである。(2008.12.16)〉したがって、今回、弁護団が無罪を主張することは「当然至極」のことと思われるが、同時に、それは、この事件が「でっち上げ」「証拠の捏造」「自白の強要」による《冤罪事件である》ことを主張することと同義であることを覚悟しなければならない。冤罪事件の場合、弁護団の使命は「被告の冤罪を晴らすこと」と同時に「真犯人を究明すること」が加わらないと、足利事件の「二の舞」を演じることになる。たとえ被告の無罪が証明されたとしても、「では真犯人は誰か」と改めて捜査を始めたとしても「時すでに遅し」という結果になりかねない。検察は、当然のことながら「被告を有罪にする」こと以外、念頭にあるまい。有罪か、無罪か、を争う「不毛なやりとり」を繰り返しているうちに、真犯人はまんまと「逃げおおせてチョン」という結末になりそうな予感がする。
 大切なことは、あくまでも「物証」、〈被害者の衣服が入ったレジ袋から、被告の指紋が検出された〉のは「事実か」、もし「事実」だとすれば、どのような経過の中で、被告の指紋がレジ袋に付着したか、を「争点」にして「真実」を明らかにしなければならない。間違っても、「被告の自白内容に信憑性があるか」などといった不毛な論争が展開されないよう、祈りたい。(2009.9.14)

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コラム・福岡小1殺害・父「断腸の思い」、報道の意図は?

2012-05-06 00:00:00 | 事件
10月19日付け朝日新聞(3時0分配信・http://www.asahi.com/)に、〈「妻追い込んだ 私も加害者だ」 福岡小1殺害、父語る〉という記事が載った。内容は、朝日新聞の取材に対して、被害者(小1男児)の父が「私も加害者だ、妻(容疑者)に誤りたい」と「断腸の思い」を語った、というものである。要するに、夫として、また父として「何もしてやれず」「妻子を追い込んでしまった」責任を、吐露したということであろう。そのことに全く異論はないが、朝日新聞は、そうした父親の「断腸の思い」を報道することによって、何を訴えたかったのだろうか。つまり、被害者の父であり容疑者の夫でもある「人物」に取材した目的(意図・理由)は何か。ただ単に、「記事が売れればよい」ということだったのか、それとも、父親の「断腸の思い」を報道することが、「問題の解決」につながるとでも考えたのだろうか。
 もし父親が、「何もしてやれず」「妻子を追い込んでしまった」ことによって「私も加害者だ」と言うのなら、小1男児を「ADHD児」だと診断した専門家(おそらく精神科医)、特別支援教育の担当者(学級担任、校長)もまた、「何もしてやれず」「母子を追い込んでしまった」という点では変わりなく、彼らもまた「加害者」ということになるだろう。それ以上に、そうした家庭(家族)を「特別」な存在として、「冷たい視線」(白い眼)を注ぎ続ける「世間」(その構成員である、私たち一人一人)、もしくは、面倒なことにはかかわりたくないと「無視」し続ける「傍観者」(その構成員である、私たち一人一人)、さらには、「他人の不幸は蜜の味」とばっかりに、「事件だ事件だ!」と騒ぎ立てるだけの「野次馬たち」(その構成員である、私たち一人一人)もまた、「加害者」であることは間違いなく、むしろ、私たちの「罪」の方が重いのではないか。朝日新聞の取材が、それらの「加害者たち(私たち・自分たち)」を告発する目的(意図)で行われたのかどうか・・・。父親の「断腸の思い」を、どこまで「共感」できるかどうか、そのことが、今、私たち一人一人に問われているのだと思う。(2008.10.20)
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コラム・「福岡小1殺害」事件の真相(責任)

2012-05-03 00:00:00 | 事件
 「福岡小1殺害」の容疑者として、被害者の母親が逮捕された。この事件の第一報では、被害者のフルネームが公表されているのに、母親、父親(保護者)は「匿名」であった。
まことに「不可解きわまる」報道姿勢だったが、このような結果になったとすれば、「なるほど」と、肯けないこともない。だがしかし、はじめから「わかっていた」からこそ「匿名にしておいた方が無難」ということだったのかもしれない。いずれにせよ、第一報を見聞して、おそらく九割以上の人が「(「報道の内容は)何かおかしい」と感じたはずである。インターネットによる「情報交換」では、「犯人は母親」といった記事が、当初、極めて「興味本位」に流され、ある時点から「ピタッと」「削除」された事実をどのように解釈すればよいのだろうか。時間が経つにつれて、事件の真相が「はっきり」しつつある。①被害者は「注意欠陥多動性障害」と診断されていた、②母親は病弱で育児にストレスを感じていた(自殺衝動があった)、③母親は、仕事を辞め育児に専念しようとしていた、等々。9月24日の報道(「東京新聞」朝刊27面)では、〈薫容疑者は病気で体調が悪く、弘輝君は注意欠陥多動性障害(ADHD)のため育児に手がかかる状態だった。学童保育を利用していた時間を家庭で過ごすようになり、薫容疑者の育児負担が増えたとみられる。専門家は「関係機関と連携して注意深く見守っていれば事件を防げた可能性がある」と指摘、市の対応に課題が残った形だ。〉とある。この専門家とは誰(どのような立場)だろうか。また、関係機関とは、具体的にどのような機関だろうか。母親を「適切にサポートしていれば」事件を防げたことは当然、大切なことは、誰が、どのようなサポートをすべきであったか、言い換えれば、(被害者を救えなかったという点では)母親と「同罪」に等しい関係者(責任者)を明らかにすることである。私見によれば、まず第一に、被害者をADHDと診断した専門家である。第二に、被害者が通学していた小学校の教員(特別支援教育担当者、その監督責任を負う校長)である。そして第三は、集団の一員として「周囲に迷惑をかけないこと」「みんなと同じことが同じようにできること」を金科玉条のごとく尊重している「世間の眼」(白い眼)、その持ち主である「われわれ」(マスコミ、世論)の存在に他ならない。何とも「やりきれない」結果ではある。(2008.9.24)))
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