ひと 林 陽一さん
天皇在位10周年記念切手文様を撮影した写真家
12日に発売される天皇陛下在位10年の記念切手に、雅楽の装束から撮った
文様「桐竹」と「鳳凰」の写真が使われた。
10年前の即位切手には、今年2月に亡くなった父親で
写真家の林嘉吉さんの作品が選ばれている。
サラリーマン生活から、雅楽を専門とする写真の道に入ったのは、
50歳を目前にした4年前。それまで、父親の助手として
歌舞伎や文楽など日本の伝統芸術を見、ときにシャッターを押していた。
多少の自身はあったというが、嘉吉さんは猛反対した。
理由を聞くと、「食っていけないぞ」の1点張りだったという。
22歳のときに、ガンを告知され、いったんは治癒したが、
5年後に再発。その後は進行が収まって入るものの、
放射線治療の影響であごの骨が曲がったまま直せない。
ずっと死への不安を抱えて生活してきた。
「だから、父は反対したのだと思う。でもだからこそ挑戦したかった。
正しい選択だったと確信している。ファインダーをのぞいていると
会社では得られなかった満足感が生まれる。ただ食えないのは
父が言っていたとおりだったけれど。」
腎臓を患っていた嘉吉さんから、愛用の機材をすべてプレゼントされたのは
一昨年春。
「プロとして認めてくれたのだとうれしかった。一方で、
父の半世紀にわたる写真家人生の終わりを告げられたようで悲しかった。」
切手になった2種類の文様はそのなかの旧型国産カメラで撮影をした。
「たった4年で、1人前扱いされるのは、父が築いた基礎の上に立って
いられるからだ。雅楽がもっと身近な伝統芸術だということを
知ってもらうために力を注ぎたい。」
10日に出版した「雅楽への招待」にはそうした願いをこめた。
12日朝、郵便局で記念切手を買い、本と一緒に嘉吉さんの墓前に供える。
「意気に感じて、パートで家計を支えている妻に、感謝感謝です。53歳」
(朝日新聞 1999年11月12日 総合面 ひとより抜粋)
現代の名工と呼ばれるものを、ご存知だろうか。
厚生労働省が、9日、卓越した技能を持つ今年度の「現代の名工」として
150人を発表している。
最高齢は80歳、最年少は38歳である。
若くして才能が開花し、脚光をあびるケースもあるが、この年齢を見ると
技術は経験によって、確固たるものになることが多いのだろう。
ベンチャー企業が掲載されているインタビュー雑誌を読めば、25歳前後、
30歳前後で、トップ営業マン、年間MVP、など会社内で、成績を上げ、
起業などの言葉が多くある。もらえるお金もよいのだろう。
一方、現代の名工で取り上げられていた
パティシエの稲村省三さん
最初に目指したのは、フレンチレストランの料理人だった。
19歳の時にホテルで修行を始めたが、掃除や荷物運びなど
厨房にすら入れない下働きの日々が2年ほど続いた。
ホテル内で空いていたベーカリー部門でパンや菓子を作らせてもらううち、
小麦粉や生クリームから好きな形を生み出す魅力にとりつかれ、
24歳で菓子職人の道へ。
「パティシエとしては遅いスタートだった。」
(読売新聞 2009年11月10日 社会面より一部抜粋)
写真家として、歩んだ林嘉吉さんも、同じような人生だったのではないだろうか。
決してすぐに結果が出せるものでもない、財政面として、豊かなものでも
なかっただろう。1人の父親としても、息子に同じ道は歩ませたくなかったのかも
しれない。
次々と若手社員であっても結果を出せる仕事に比べて職人の道は、
なかなか結果を出せないものに感じる。
童話でいったら、うさぎとカメになるのではないだろうか。
極めたいという想いと技術のレベルとが、同等のものになった時、
カメはうさぎを追い越すことが出来るのでないかと考えました。
天皇在位10周年記念切手文様を撮影した写真家
12日に発売される天皇陛下在位10年の記念切手に、雅楽の装束から撮った
文様「桐竹」と「鳳凰」の写真が使われた。
10年前の即位切手には、今年2月に亡くなった父親で
写真家の林嘉吉さんの作品が選ばれている。
サラリーマン生活から、雅楽を専門とする写真の道に入ったのは、
50歳を目前にした4年前。それまで、父親の助手として
歌舞伎や文楽など日本の伝統芸術を見、ときにシャッターを押していた。
多少の自身はあったというが、嘉吉さんは猛反対した。
理由を聞くと、「食っていけないぞ」の1点張りだったという。
22歳のときに、ガンを告知され、いったんは治癒したが、
5年後に再発。その後は進行が収まって入るものの、
放射線治療の影響であごの骨が曲がったまま直せない。
ずっと死への不安を抱えて生活してきた。
「だから、父は反対したのだと思う。でもだからこそ挑戦したかった。
正しい選択だったと確信している。ファインダーをのぞいていると
会社では得られなかった満足感が生まれる。ただ食えないのは
父が言っていたとおりだったけれど。」
腎臓を患っていた嘉吉さんから、愛用の機材をすべてプレゼントされたのは
一昨年春。
「プロとして認めてくれたのだとうれしかった。一方で、
父の半世紀にわたる写真家人生の終わりを告げられたようで悲しかった。」
切手になった2種類の文様はそのなかの旧型国産カメラで撮影をした。
「たった4年で、1人前扱いされるのは、父が築いた基礎の上に立って
いられるからだ。雅楽がもっと身近な伝統芸術だということを
知ってもらうために力を注ぎたい。」
10日に出版した「雅楽への招待」にはそうした願いをこめた。
12日朝、郵便局で記念切手を買い、本と一緒に嘉吉さんの墓前に供える。
「意気に感じて、パートで家計を支えている妻に、感謝感謝です。53歳」
(朝日新聞 1999年11月12日 総合面 ひとより抜粋)
現代の名工と呼ばれるものを、ご存知だろうか。
厚生労働省が、9日、卓越した技能を持つ今年度の「現代の名工」として
150人を発表している。
最高齢は80歳、最年少は38歳である。
若くして才能が開花し、脚光をあびるケースもあるが、この年齢を見ると
技術は経験によって、確固たるものになることが多いのだろう。
ベンチャー企業が掲載されているインタビュー雑誌を読めば、25歳前後、
30歳前後で、トップ営業マン、年間MVP、など会社内で、成績を上げ、
起業などの言葉が多くある。もらえるお金もよいのだろう。
一方、現代の名工で取り上げられていた
パティシエの稲村省三さん
最初に目指したのは、フレンチレストランの料理人だった。
19歳の時にホテルで修行を始めたが、掃除や荷物運びなど
厨房にすら入れない下働きの日々が2年ほど続いた。
ホテル内で空いていたベーカリー部門でパンや菓子を作らせてもらううち、
小麦粉や生クリームから好きな形を生み出す魅力にとりつかれ、
24歳で菓子職人の道へ。
「パティシエとしては遅いスタートだった。」
(読売新聞 2009年11月10日 社会面より一部抜粋)
写真家として、歩んだ林嘉吉さんも、同じような人生だったのではないだろうか。
決してすぐに結果が出せるものでもない、財政面として、豊かなものでも
なかっただろう。1人の父親としても、息子に同じ道は歩ませたくなかったのかも
しれない。
次々と若手社員であっても結果を出せる仕事に比べて職人の道は、
なかなか結果を出せないものに感じる。
童話でいったら、うさぎとカメになるのではないだろうか。
極めたいという想いと技術のレベルとが、同等のものになった時、
カメはうさぎを追い越すことが出来るのでないかと考えました。
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