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Nietzsche

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの哲学・思想

ルー・ザロメとの交友

2006-06-23 21:54:40 | 生涯

ニーチェは1881年に『曙光:道徳的先入観についての感想』を、翌1882年には『悦ばしき知恵』の第1部を発表した。またこの年の春、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークとパウル・レーを通じてルー・ザロメと知り合った。ニーチェは(しばしば付き添いとしてエリーザベトを伴いながら)5月にはスイスのルツェルンで、夏にはテューリンゲン州のタウテンブルクでザロメやレーとともに夏を過ごした。ルツェルンではレーとニーチェが馬車を牽き、ザロメが鞭を振り回すという悪趣味な写真をニーチェの発案で撮影している。ニーチェにとってザロメは対等なパートナーというよりは、自分の思想を語り聞かせ、理解しあえるかもしれない聡明な生徒であった。彼はザロメと恋に落ち、共通の友人であるレーをさしおいてザロメの後を追い回した。そしてついにはザロメに求婚するが、返ってきた返事はつれないものだった。レーも同じころザロメに結婚を申し入れて同様に振られている。その後も続いたニーチェとレーとザロメの三角関係は1882年から翌年にかけての冬をもって破綻するが、これにはザロメに嫉妬してニーチェ・レー・ザロメの三角関係を不道徳なものとみなしたエリーザベトが、ニーチェとザロメの仲を引き裂くためひそかに企てた策略も一役買っている。後年、自分に都合のよい虚偽に満ちたニーチェの伝記を執筆するエリーザベトは、この件に関しても兄の書簡を破棄あるいは偽造したりザロメのことを中傷したりなどして、均衡していた三角関係をかき乱したのである。結果としてザロメとレーの二人はニーチェを置いてベルリンへ去り、同棲生活を始めることとなった。失恋による傷心、病気による発作の再発、ザロメをめぐって母や妹と不和になったための孤独、自殺願望にとりつかれた苦悩などの一切から解放されるため、ニーチェはイタリアのラパッロへ逃れ、そこでわずか10日間のうちに『ツァラトゥストラはかく語りき』の第1部を書き上げる(ただし、ニーチェ本人が『この人を見よ』の中で「インスピレーションを得てから10日もあれば充分だった」と豪語してはいるものの、遺された手稿を精査する限りでは、本当に10日で一息に書いたかどうかは疑わしい)。

左からルー・ザロメ、パウル・レー、ニーチェ。1882年ルツェルンにて
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左からルー・ザロメ、パウル・レー、ニーチェ。1882年ルツェルンにて

ショーペンハウエルとの哲学的つながりもヴァーグナーとの社会的つながりも断ち切ったあとでは、ニーチェにはごくわずかな友人しか残っていなかった。『ツァラトゥストラ』の新しいスタイルを手にしたいまとなっては、彼の著作はますます親しみやすさを失い、読者の反応もおざなりで慇懃無礼なものとなっていった。ニーチェはこの事態を甘受し、みずからの孤高の立場を堅持した。一時は詩人になろうかとも考えたがすぐにあきらめ、自分の著作がまったくといってよいほど売れないという悩みに煩わされることとなった。1885年には『ツァラトゥストラ』の第4部を上梓するが、これはわずか40部を印刷して、その一部を親しい友人へ献本するだけにとどめた。

 1886年にニーチェは『善悪の彼岸』を自費出版した。この本と、1886年から1887年にかけて再刊したそれまでの著作(『悲劇の誕生』『人間的な、あまりに人間的な』『曙光』『悦ばしき知恵』)の第2版が出揃ったのを見て、ニーチェはまもなく読者層が伸びてくるだろうと期待した。事実、ニーチェの思想に対する関心はこのころから ―― 本人には気づかれないほど遅々としたものではあったが ―― 高まりはじめていた。メータ・フォン・ザーリス(Meta von Salis)やカール・シュピッテラー(Carl Spitteler、1919年にノーベル文学賞を受賞した作家。処女作『プロメテウスとエピメテウス』はしばしば『ツァラトゥストラ』からの影響が指摘される)、ゴットフリート・ケラー(Gottfried Keller、ニーチェはケラーの教養小説『緑のハインリヒ』を、ゲーテ作『ヴィルヘルム・マイスター』やシュティフター作『晩夏』とともにドイツ文学の中で最も高く評価している)と知り合ったのはこのころである。1886年、妹エリーザベトが反ユダヤ主義者のベルンハルト・フェルスターと結婚し、パラグアイに「ドイツ的」コロニーを設立するのだという(ニーチェにとっては噴飯物の)計画を立てて旅立った。書簡の往来を通じて兄妹の関係は対立と和解のあいだを揺れ動いたが、ニーチェの精神が崩壊するまで二人が顔を合わせることはなかった。

 病気の発作が激しさと頻度を増したため、ニーチェは長い時間をかけて仕事をすることが不可能になったが、1887年には『道徳の系譜』を一息に書き上げた。同じ年、ニーチェはドストエフスキーの著作(『悪霊』『死の家の記録』など)を読み、その思想に共鳴している。またイポリット・テーヌ(Hippolyte Taine、ニーチェは1886年に『善悪の彼岸』をテーヌに寄贈し、後日テーヌから好意的な礼状を受け取っている)やゲオルク・ブランデス(同じく『道徳の系譜』を寄贈されたことがニーチェとの交流の契機となった)とも文通を始めている。ブランデスはニーチェとキェルケゴールを最も早くから評価していた人物の一人であり、1870年代からコペンハーゲン大学でキェルケゴール哲学を講義していたが、1888年には同大学でニーチェに関するものとしては最も早い講義を行なってニーチェの名を世に知らしめるのに一役買った批評家である。ブランデスはニーチェにキェルケゴールを読んでみてはどうかとの手紙を書き送り、ニーチェは薦めにしたがってみようと返事をしている(キェルケゴールはニーチェが著述活動を始める前の1855年に亡くなっており、またニーチェはこの後すぐに発狂してしまったため、ともに「実存主義の始祖」として知られる二人は互いの思想に触れることがなかったと長らく信じられてきた。しかしその後の研究によって、キェルケゴールの思想を解説・批評した二次資料のいくつかをニーチェが読んでいたことが明らかになっている)。

 ニーチェは1888年に5冊の著作を書き上げた(著作一覧参照)。これらはいずれも、長らく計画中の大作『力への意志』のための膨大な草稿をもとにしたものである。健康状態も改善の兆しを見せ、夏は快適に過ごすことができた。この年の秋ごろから、彼は著作や書簡においてみずからの地位と「運命」に重きを置くようになり、自分の著書(なかんずく『ヴァーグナーの場合』)に対する世評について増加の一途をたどっていると過大評価するようにまでなった。『偶像の黄昏』と『アンチクリスト』を脱稿して間もない44歳の誕生日には自伝『この人を見よ』の執筆を開始、序文には「私の言葉を聞きたまえ! 私はここに書かれているがごとき人間なのだから。そして何より、私を他の誰かと間違えてはならない」と、各章題には「なぜ私はかくも素晴らしい本を書くのか」「なぜ私は一つの運命であるのか」とまで書き記す。12月、ニーチェはストリンドベリとの文通を始める。またこのころのニーチェは国際的な評価を求め、過去の著作の版権を出版社から買い戻して外国語訳させようとも考えた。さらに『ニーチェ対ヴァーグナー』と『ディオニュソス賛歌』の合本を出版しようとの計画も立てた。また『力への意志』も精力的に加筆や推敲を重ねたが、結局これを完成させられないままニーチェの執筆歴は突如として終わりを告げる。


1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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人生と孤独・・・・。 (天高馬肥秋)
2006-10-13 10:30:47
★「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを

 愛している。」(聖書:イザヤ書43:4)。



はじめまして。

北海道に住んでいます。

お邪魔でしたらごめんなさい。

もう10月になり、日毎に秋が深まって来ました。

秋は、人生の哀愁とか「孤独」を感じさせる季節ですね・・。



ところで、



人はどこから来て

何のために生きて

どこへ向かっているのでしょうか・・・?。

この世界の終末はどうなるのでしょうか・・・?



神の存在、愛とは何か、人生の意味は何か、いのちと死の

問題などについて、ブログで分かりやすく聖書の福音を書き

綴っています。ひまなときにご訪問下さい。



What is the life?



人は何のために生きているのか!?



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