改訂 2021.10.28 地図追加
火焔型土器は出自は西会津
という話がある。
この土器の模様は水の流れを示していると思う
海では無く内陸の川、その流れ 阿賀川 信濃川
阿賀野川流域の福島県西部
海の波は感じられない
加曽利土器に感じるものとはかなり違う
うねりは無く、小さい波の周期が短く大空間に有る波のような動きでは無い
波三態
ここから信濃川流域に伝来したと言うようだ。
この地域は郷土料理や産物の利用で関係がある様で、その背景に縄文時代があるのだろうか。
この土器の作られたのは500年間という短い期間だという。その間に変化したものだろうか。
こうした歴史を見ようとして探したが、この一連の地域を包括する分布図が無い
地域おこしなのか理解もままならない状況にある。
このようにこの時は記載したが、その後いろいろ調べた結果地図がありましたので、追加しておきます。
この上 福島 西会津が見えます、内陸に広がっていた。
西会津が無い
写真はお借りしました
引用ーーーーーー
新潟県立歴史博物館 「火焔土器の国」
興味深いのは火焔型土器が使用されていた年代が
紀元前3350年から2850年の僅か500年年間しか用いられなかったことだ。
その間、姿も少しずつ変化している。古いものは土器の口縁部の鶏頭冠突起の形が不明瞭で横長であるが、時代が新しくなると鶏頭冠突起の鶏頭と尻尾、脚部が明瞭になる。やがて鶏頭冠突起の脚部と尾部が立ち上がり横長感がなくなる。そして最終的には鶏頭冠突起はさらに伸び上がり土器の胴部も絞り込まれ上部が大きく下部が狭いアンバランスな姿になってくる。一見派手だが文様もメリハリがなく形骸化が認められるそうだ。
土器の様式が集団の主体性、アイデンティティーを象徴するものであったのだから姿を消したのは必然なのだろうか。
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「西会津町歴史文化講演会・シンポジウム」が開催されました。
西会津町には、7万㎡の広大な面積の集落跡・遺跡があります。
遺跡からは、縄文土器の代表的とも言える
火焔型土器や王冠型土器など、「会津タイプ」と呼ばれる土器の破片が多数発掘されており、
ほんの一部でのみの発掘でさえ、ダンボール2000個分の土器の破片が発掘、収蔵されているのだとか!
その縄文土器の代表格とも言える「火焔型土器」のルーツが会津にあるのでは!?
という内容のシンポジウムです。
國學院大學文学部名誉教授で、縄文研究の第一人者の小林達雄氏を始めとする、その道の方々を迎え、昨日のシンポジウムで、「火焔型土器」のルーツが会津であったことが正式に認められ、これまでの縄文史を覆す発表が行われたのです!!!
これまで、火焔型土器は新潟県や長野県で多く出土され、
ルーツは新潟県エリアと考えられてきました。
国宝である火焔型土器は、新潟県十日町の物であり、
2020年のオリンピックの聖火台デザインに提案中とのことで
日本のルーツであり、誇るべき縄文時代の文化を世に出されるかもしれないこのタイミングでの発表!会津に生まれた私たちにとっては、誇るべき事実かと思います!
その裏側には、一人の長い研究の努力がありました。
西会津に生まれ、全国の様々な土器研究に携わり
西会津で出土された土器を何十年も研究に人生を注いだ
佐藤光義さんの努力された結果、
このような発表に至りました。
とは言え、実際に優美で装飾性の高い火焔型土器は、いずれにせよ北陸から出土された土器であることは間違いありません。
会津タイプと新潟タイプの違いにおいても、シンポジウムの中で説明がありましたが、
新潟の土器は、より立体的であったり、精密な造りで会津にルーツがありながらも、新潟でより一層発展していった歴史の流れのようです。
土器を抜いては語れない縄文史がまた1ページ書き換えられた発表ではありましたが、一番興味深いことは、その地域性と、縄文時代の交流を追った“人の動き”だと思います。
縄文時代、かなり多くの集落が点在し、共に交流し、情報を交換していた暮らしぶりがある、ということに是非焦点を当てて、日本人のルーツを知るきかっけになればと願っております☆
福島県と新潟県は、東北と北陸ということで異なる文化圏のような印象もありますが
同じ雪国同士、更には食文化においては
古くから新潟県からの水路、阿賀川(大川)を利用した交流は、
伝統的な会津の食文化を語る上で、どうしたって切り離せません。
例えば、代表的な郷土料理、「こづゆ」、「鰊の山椒漬け」はまさに、新潟からの海の恩恵を受けた証です。
更に昭和村の特産品、苧(からむし)は山を超えて新潟十日町で越後上布となり、地域資源を共に活用して発展しました。
このような縄文時代からあった交流は、一見、聞けば当たり前のようですが
相互の地域の特性の関係があった上で、様々な発展をしてきたのだと思うと、実に興味深い話だと思います。