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シュメール人の天文学神話 縄文人の二至二分の暦の力

                            追加 2021.09.02

シュメールは出自は今もまだ明確で無い、乾燥地ながら高い生産力を持つ土地において、灌漑技術はウバイド人により始まったとするようだ。
そこに欠けていたのは適切な農耕管理技術による飛躍的な生産力アップだったのだろう。
ウバイドの灌漑技術にシュメールの太陽観測による季節の技術が加わったことで、この地の農耕生産は非常に生産力の高いものとなり、南メソポタミアは豊かな農耕生産地帯へとなっていった。シュメール人への信頼は大変に高まったものだろう。
その効果は、麦の収穫量が非常に高かった。1粒の麦を播いて、20倍から80倍の収穫があったといわれています。これが、どのくらいすごいかというと、19世紀のヨーロッパで麦の収穫は播種量の5、6倍くらい、現代でもヨーロッパで15倍から16倍、アメリカで23倍という数字があります。だから、現代と同じかそれ以上の収穫があった。
縄文人のもたらした暦の技術はそうした効果があったものと考える。

           図はウィキよりお借りしました

---おそらくは多くても数十人程度であったシュメール人達は(日本において弥生人や南蛮人達がそうであったように)技術の提供と共に信仰心を利用し巧妙に支配階級へと成り上がり、先住ウバイド人達を支配していった。という方が説明がつきます。---

ウバイド人の地域に争うこと無く入り込み、神官となって支配力を確立していった経緯は、
歴史的に世界で最初の太陽暦、二至二分の暦を開発していた縄文人の力だった。

 

              2023.06.04 年表を追加しました

 

図はお借りしました

引用ーーーーーー

1.発達した灌漑技術による高い農耕生産力
>紀元前3700年頃になると、ヒプシサーマル(太陽活動が活発化した温暖な時期)が終了し、寒冷化が始まる。同時に、北緯35度以北は湿潤化し、北緯35度以南の北半球は乾燥化した。このため、アナトリア高原での降水量が増え、チグリス・ユーフラテス川の水量が豊富になったため、乾燥化のため水を渇望する下流域の農民が大河に集中した。(リンク)

寒冷化→乾燥化による大河流域への人口集中。
しかし、メソポタミア南部地域は、北部地域が年間雨量250ミリを超えるのに対して年間降水量100mm以下の乾燥地帯であり、チグリス・ユーフラテス川流域と言えど決して農耕に適した土地ではない。そこで、大規模な灌漑農耕が発達していく。
この灌漑技術の発達により、メソポタミア南部地域は高い生産力を誇る農耕地帯へと変化する。

>麦の収穫量が非常に高かった。1粒の麦を播いて、20倍から80倍の収穫があったといわれています。これが、どのくらいすごいかというと、19世紀のヨーロッパで麦の収穫は播種量の5、6倍くらい、現代でもヨーロッパで15倍から16倍、アメリカで23倍という数字があります。だから、現代と同じかそれ以上の収穫があった。(リンク)

南部メソポタミアでも高い収穫量を誇る「グ・エディン」と言う土地は、メソポタミア~エジプトにかけての遊牧民であったヘブライ人によって、「エデンの園」のモデルにされたと考えられており、楽園のモデルになるほど豊かだった。(なお、遊牧民であったヘブライ人は、エディンに住みたいけど住めない。その現実を否定して納得する為、「楽園追放」=旧約聖書の物語が作られた)

乾燥化と人口集中と言う状況の中で、高い生産力を上げる為に開発された灌漑農耕。
この灌漑農耕は、シュメール人によって開発・発達していったと考えられているが、紀元前5000年のウバイド期、つまりシュメール人がメソポタミアに到来する(前3500年頃)以前に既に(ウバイド人によって)開発されていた形跡がある。

ヒプシサーマル終了による寒冷化は前3700年頃であるが、その一千年~数百年前から既に寒冷化→乾燥化は始まっていると考えられ、灌漑農耕を巡る事実経緯としてはウバイド人によって、(寒冷化→乾燥化への適応戦略として)前5000年頃には開発・発展していたと考えられる。

恐らく、シュメール人はヒプシサーマルの終了時期に、このウバイドの豊かな農耕地帯を目指してチグリス・ユーフラテス流域に移動してきた遊牧民であり、最終的にウバイドを駆逐(又は服属)し、彼らの灌漑農耕技術も取り入れていった(技術略奪していった)のではないだろうか。

この時期には、シュメール以外の遊牧民(ヘブライやアッカドの前身)も豊かなウバイドの土地を目指して集中したものと考えられる。その中で制覇していったのがシュメール人だったのだろう。

シュメールは遊牧民族=灌漑技術との関係性は薄い。逆に星の流れや天候を読む技術(天文技術・気象観測技術)能力は高かったと考えられる。ウバイドの灌漑技術にシュメールの天文技術・気象観測技術が加わったことでシュメール国家の農耕技術は非常に生産性の高いものとなり、南メソポタミアは豊かな農耕生産地帯へとなっていった。
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これが6300~5500年前頃のウバイド期になると、神殿が建設されるようになっていく。時を同じくして、灌漑農業も行われるようになっていき、これらの変化はシュメール人達の到来によるものとされています。

このとき、注目すべきなのが、シュメール人達の到来とともに、先住ウバイド人達が信仰していた神々の中に序列が生まれていき、その統合役を担う神様(マルドゥク神)が登場するようになることです。

これは、おそらくシュメール人達によるものだと思われますが、この地域での神々が「入れ替わる」のではなく、わざわざこれまで先住民が信仰していた神々を「再統合」していることから、現実の統合場面でも先住民族ウバイド人達をシュメール人達が「追いやる」のではなく、「再統合」していったのではないかということが想像できます。おそらくシュメール人達は自らを神格化して、神官の地位(やがては王の地位)を奪い取っていったのではないでしょうか。

また、このとき、おそらくは乾燥と共に北方からやってきた(避難してきた)遊牧民であったと思われるシュメール人達が、メソポタミアに到来した時点で4,000人程度にまで人口を増加させていたと考えられる先住ウバイド人達を「追いやった」とも考えにくい。

おそらくは多くても数十人程度であったシュメール人達は(日本において弥生人や南蛮人達がそうであったように)技術の提供と共に信仰心を利用し巧妙に支配階級へと成り上がり、先住ウバイド人達を支配していった。という方が説明がつきます。

このようにして、シュメール人達は信仰を利用して、先住ウバイド人達の中に入り込み灌漑技術等の文明と共に信仰を広げ、メソポタミア地方の統合支配を広めていく。

それは、「略奪」などよりももっと巧妙で、先住民達が気付くことさえない「侵略」だったのではないでしょうか。
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シャマシュ(Shamash, ?ama?)は、メソポタミアの太陽神…
バビロニア暦(バビロニアれき、英語:Babylonian calendar)とはバビロニアなどの地域で使用されたメソポタミア文明の太陰太陽暦である。シュメールのウル第三王朝のシュルギ王(紀元前21世紀)が定めたウンマ暦を起源とする。

春分の頃の新月の直後を元日とする。紀元前6世紀までは天文観察に基づいて作られ、春分の時期を正確に予測するため恒星 カペラの動きを観察していた。

紀元前5世紀の初めより、19年が235ヶ月に等しいものとする周期を採用して作られるようになった。メトン周期の先駆とされる。
バビロニア暦の月名はバビロン捕囚の時からユダヤ暦に採用された。年の始まりを春分とする前提によっており、イラン暦のような太陽暦と共通する一方、同じ太陰太陽暦でありながら中国暦とは違いが見られる。
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シュメール文明は海洋民族によって築かれたといわれていますが、それはシュメール語の7割が漁労の言葉が含まれるからと言われているそうです。
シュメール文明はメソポタミア平原を流れるユーフラテス川とチグリス川をまたぐように広がっていますが、元々この平野にはウバイド族という勤勉で規律正しい農耕民族が住んでいて、合流して都市を築いたようですね!主に海洋民族を中心にシュメールのことが書いてありました。(参考:ペトログリフが明かす超古代文明の起源)

暦は太陰太陽暦を用いたが、太陰太陽暦では1年が約11日短くなることが紀元前3000年紀にはすでに知られていたため、調整のため適宜閏月が挿入されていた[9]。
シュメール時代の暦は各都市によって異なっており、新年のはじまりも春分が多かったものの、夏至や秋分を起点とする都市も存在した[10]。
その後、バビロン第一王朝時代にはバビロニアで暦が統一され、のちに周辺地域にも広まった[11]。
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 シュメール人はよく儀式を行なっていました。
そのなかでも重要な儀式とされていたのが「聖婚儀礼」です。その年の豊穣を願って、宇宙のはじまりの日とされた元日(今日でいう春分)に行われるもので、神に扮した王と女神官が交わるのです。

「大杯」の図像をゆっくり眺めてきたが、それでは図像全体でなにを表しているのだろうか。[中略]

下段と中段に表された場面を踏まえると、上段は都市国家の王が豊穣を祈願あるいは感謝する場面であることは間違いないが、さらに踏み込んで王と女神官による「聖婚儀礼」が表されているとも解釈され、「大杯」の図像はその最古の例になると考えられる。

「聖婚儀礼」は男女の交合により、混沌から秩序を回復し、不毛を豊穣に変えることなどを意味する。シュメルだけの特異な儀礼ではなく、世界中で広く見られる。シュメルでは女神官と王が「聖婚儀礼」をおこない、豊穣がもたらされると考えられていた。

「聖婚儀礼」は元旦におこなわれていた。元日の持つ意味は現代日本では薄れてしまい、単に一年の最初の休日となってしまっているが、シュメルのみならず古代社会では元日は宇宙のはじまりに重ね合わされる日、つまり新しい生の循環が始まる日であった。

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迷信「シュメール人の高度天文知識説」
 日本の天文関係で語られる根拠のない迷信には「星座の起源・カルデアの羊飼い説」の他に「シュメール人は高度な天文知識を持っていた。」という迷信がある。

 シュメールの時代に書かれた粘土盤(タブレット)からは天文に関する記録は見つかっていない。シュメールの時代の天文タブレットがないにもかかわらず星座の起源をシュメールとするのは、後の時代に書かれた天文タブレットがシュメール語(表意文字)とアッカド語(表音文字)の混在の文章で書かれており、星座名にシュメール語(表意文字)が用いられているためである。これは日本語で書くとき星座名を漢字で表記する場合と同じである。したがってシュメール時代の天文知識の程度を知る根拠となる記録は無い。
 ではなぜ日本では「シュメール人が高度な天文知識を持っていた。」とされるのか?
 不思議ではあるが、この伝説も「カルデアの羊飼い伝説」と根は同じで起源は明治のカルデア伝説にある。以下の旧制中学の教科書の「カルデアの天文」の記述をシュメールに読み替えると「シュメール人の高度

天文知識説」になる。野尻抱影と同じく、明治時代のカルデア人伝説をシュメール人に読み替えた人がいて伝承したことになる。

 ちなみにここで書かれているカルデアの天文はギリシャ人が伝えた紀元前数世紀のカルデア人の天文である。欧米の知識層ではO.Neugebauerの「The exact sciences in Antiqyity」(1969,1957初版)p.101-102などにより、バビロニアで数理天文学が発達したのはBC2,3千年の古代では無く、ギリシャ人がカルデア人と呼んでいた新バビロニア王朝(カルディア王国)より新しいBC5世紀頃(19年7回の閏月の発見)からで、さらに発達したのがアレキサンダーのメソポタミア征服後のセレウコス朝時代(BC306~)であったことが1950年代には常識になった。しかし日本では、明治時代の「羊飼い物語」と同じく「カルデアの天文」を「シュメールの天文」に呼び替えただけの話が残ってしまった。最近はそれにとんでも科学が尾ひれをつけている。


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