金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

太陽暦と太陰暦作り

太陽暦と太陰暦作り
シュメール   カペラ観測    太陰暦
エジプト   シリウス観測    太陽暦
縄文人      太陽観測

            図はお借りしました         

縄文人の暦
金生遺跡の立地は、金が岳からの日の出を所謂立春に観測して
戻るまでの立冬と立春までの一年間の日数を数えると
一年で      365日
冬至から夏至まで 183日
夏至~冬至まで  182日
  ここまでは縄文前期には分っていた

 183日/2  春分と秋分が   91日 中間点
  これは縄文中期には分っていた

91日/2   45日 季節の区分 所謂四立  立春、立夏、立秋、立冬
  金生遺跡はここまで分ってから立地が決められていた。

太陰暦はどうしていたものだろうか 月の周期は分っていた。
91日/3   30日    月の周期
30日/2   15日    上下弦の半月
45日/3   15日    二十四節気の暦
  金生遺跡での立春観測から二十四節気の暦 ここまでは分ったものだろう

                  図はお借りしました

縄文時代に太陰暦はあったと云うから
ここから後は 
15日/2      7日     一週間
365日/30日     12ヶ月
183日/15日     12ヶ月-半月  半年一年暦
30日*12月      360日
一年  一回り    360日   一日  360°
一年  365日/15日      24節気
     一日        24時間
ということで暦の起源となる数字は全て出てくる。
縄文人はここまで考えていただろうか。
立春観測をして暦を作っていれば4500年経っても狂うことは無い。

引用ーーーーーー

カペラと太陽
1等星の中では、一番緯度が高く、また、夜が長い季節の空にありますから、1日の間でも、1年の間でも、ずいぶんと長い期間見ることができます。
クリスマスのころには、日没後30分ほどの17時ころから、日の出前30分の6時ごろまで、空をわたっていくさまが見られますし、関東で20時に見える期間を調べると、9月下旬に北北東の地平線に見え始め、6月下旬に北北西に沈むまで、9ヶ月間も空にあります。北緯45度以北では周極星となり、夜になれば、空のどこかで輝いているはずです。

ちなみに、0等級トリオの関東で20時に見える期間、ヴェガは4月下旬から12月下旬までの8ヶ月間、アルクトゥールスは3月下旬から9月下旬までの6ヶ月間です。これはそのまま、星たちの緯度になるわけで、カペラ、ヴェガ、アルクトゥールスの赤緯は、順に46度、38度、19度、カペラは1等星で一番北極に近い星です。

カペラという名前は、「雌の子ヤギ」という意味。星座絵でも、御者のおじさんが抱いているヤギが描かれます。この姿は、今から5000年ほど前の古代メソポタミアのころから描かれていたそうで、むしろこれを御者と見た古代ギリシャの方がずっと新しく今から2000年ほど前。また、ヤギつながりで、やぎ座の神話のひとつ、ゼウスを育てたアマルテアの姿とも言われています。

カペラと暦
ちょうど、古代エジプト人がシリウスと太陽が同時に昇るのを見て暦を決めていたのと同じように、メソポタミアでは、カペラを使って新年を定めていたそうです。
メソポタミアの暦は、春分前後の新月を新年の始まりとする、というものですが、今から5000年前、カペラは歳差運動によって春分点とほぼ同じ、赤径0時付近にありました。

実際に春分点があったのはおうし座ですが、春分に太陽が通過しますから空で観測するのは無理。カペラは同じ経度でさらに北にありますから、日の出前、日没後すぐに観測することができたはずです。カペラの観測はとても大切だったことでしょう。

暦と天文学が結びついている、というお話のひとつです。
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農作物の不作・豊作を左右する暦の存在が占星術の普及を後押ししていた
占星術の発達は、暦の成立と切り離して考えることができません。当時の暦は「農事暦」で、大河流域に住みついて農耕文明を興した古代人にとって、種蒔きや収穫の季節を知ることが何よりも重要だったからです。

古代エジプトは太陽暦を使い、バビロニアでは太陰暦が使われていた
古代エジプトでは、初め1年を、12ヶ月、1ヶ月を30日とし、それに5日間の祭日を加えた365日の「太陽暦」を使っていました。

しかし、正確な恒星年の1年は365日と4分の1日であるため、長い間にはどうしても暦と季節にずれが生じてしまいます。
そこで、これを補うために「ソティス暦」を併用しました。すなわち、ナイル河の増水を告げるシリウス星が太陽とともに東天に出現するのを見て夏至を知り、1年の長さを決めたのです。

これに対して、バビロニアでは朔望月(さくぼうげつ)をもとにした「太陰暦」が使われていました。
朔望月とは、月の満ち欠けの1周期のことで、朔(新月)から次の朔、あるいは望(満月)から次の望までの期間を言います。
朔とは太陽と月の合(太陽と月の角度が0度)、望は太陽と月の衝(太陽と月の角度が180度)の時である。
1ヶ月の始まりを細い新月が日没の空にかかる時として、そこから日を数えて1か月の長さを決めていたのです。
ところが、太陰暦の1か月は29日または30日で、1年では354日となり、本当の1年の365日とは11日も差があります。

どうしても1年を正確に計る必要が出てきたのです。
そこで、ある特殊な星が日の出時に出現するのを見て年初とし、1年の長さを決めることにしました。
この星は、現代の研究によると、馭者座(ぎょしゃざ)の1等星カペラ、後には牡羊座のアルファ星ハマルで、春分の頃の東空に太陽に先立って姿を現し、バビロニアの年始「春分正月」を定めたといわれます。
春分点は、黄道360度のスタート地点・牡羊座に太陽が入る1年始まりの日
現代の占星術が、夏至でも冬至でもなく、ましてカレンダーの1月1日でもなく、太陽が春分点に到達する時、すなわち太陽が白羊宮(はくようきゅう・牡羊座)に入る時を1年の始まりと考えているのは、遠くバビロニアの暦法の流れを汲んでいるためです。
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十 暦法と時法
 (pp. 201-203)
 太陽暦と太陰暦
 われわれの住む地球では、高緯度地方は別として、毎日太陽の出没があり、月の盈虚[えいきょ]があり、四季の交替がある。これらの現象をもとにして、時刻の経過を知り、これを将来に延長して、来るべき変化に備えようとする要求が〈暦〉を生み出した。時間を刻む単位として年(太陽の運動)、月(月の盈虚)、日(地球の回転)が当然利用された。一日を最小の単位として、週・月・年など大きな単位に区切ることを〈暦法〉といい、一日を分割して時刻を決めることを〈時法〉という。
 暦法では、「一年」を重視するのか「一ヶ月」を優先するのかによって、その暦の体系が異なる。まず、〈太陽暦〉〈太陰暦〉という二つの暦を見てみよう。

 太陽暦は、太陽の運行を基準とする。月の満ち欠けは最初から無視しているが、それでも一ヶ月の長さが、三〇日前後であるから、月とは全く無関係ではなさそうだ。太陽暦はエジプトに始まったといわれる。夏の明け方に、太陽に先んじて初めて輝くシリウス(おおいぬ座 α )を毎年観測して、ナイルの氾濫を知ったというのは有名な話である。

エジプトでは、紀元前二三八年には、四年一置閏法が出されたという。やがて、ローマが地中海を制覇することになり、ユリウス・カエサルにより、このエジプトの暦法が取り入れられ新しい暦が作られる(紀元前四六年)。以来これを〈ユリウス暦〉というが、この時は三一と三〇の大小の月が交互で、小の二月が一日少ないだけ(閏年は四年に一回三〇日)であった。カエサルの養子オクタヴィアヌスはローマ初代の皇帝となり、ユリウス暦の誤用を改めたが、その時、元老院から奉られた自分の称号アウグストゥス(尊厳なる人)を八月の呼び名とし、さらに二月から一日引いて八月を大の月とした。以来、この暦は一六〇〇年近く通用する。

 ユリウス暦は、四年一置閏法であるから、一年の長さは三六五日と四分の一、つまり、三六五・二五日である。したがって正確には三六五・二四二二二 … 日の一年に約〇・〇〇七八日大きくなる。つまり、一二八年で一日分早くなることになる。この違いは累積するため、三月二十一日の春分の日が、十六世紀になると、三月十一日になってしまった。ローマ法王グレゴリオ十三世が、このずれた春分の日を一五八二年に調整して、春分の日を三月二十一日にもどし、また置閏法を変更し、四年一回の閏年を四〇〇年に三回やめることにした。これならば、三〇〇〇年に一日の余りが出る精度である。これが、いま通用しているグレゴリオ暦で、当初この暦は旧教世界でのみ通用していたが、新教国にも十八世紀には広まった。わが国では、明治六年(一八七三)から(正確には明治三三年)同暦が採用され、中国では辛亥革命(一九一二年)からである。
 いっぽう太陰暦は、月の運行の方を重視し、太陽の動きとは無関係である。一朔望月(一六一ページ参照)は平均二九・五三日であるから、一ヶ月を三〇日と二九日の交互に並べると一ヶ月の平均は二九・五日となるが、それでも〇・〇三日足りない。そのため三三ヶ月に一日の調整日を小の月の十二月に加える(正確には三〇年に一一回の調整日)。この暦法は簡単であるが、非常に精度が高く、二千数百年に一日のずれで、複雑なグレゴリオ暦の精度に匹敵する。
 しかし、太陽暦とくらべると、一年で十一日短いため、三年で一ヶ月の季節のずれが生ずる。したがって太陰暦のイスラム暦で行うラマザーン(第九月)の行は、真冬の時もあれば、真夏の時もあることになる。また、このイスラム暦で歳を数えると、三三年で一歳多く年をとることになる。

 ○ 上の引用文中でも参照されていた、『暦の科学』(p. 149) には、地球の自転が 100 年に約 18 秒遅くなるという計算式が書かれているのですが、暦の歴史についてもまた述べられています。そちらも参照しておきましょう。

『暦の科学』 〔山崎昭・久保良雄/著〕
 第 2 章 一日、一月、一年の話
 2 太陽日と恒星日
 (p. 50)
太陽日、恒星日  地球上の任意の子午線(経度の線)が、太陽に対して同じ方向を向く周期が一日であるが、恒星に対するものと区別して、正確には「太陽日[たいようじつ]」という。恒星に対する一日は「恒星日[こうせいじつ]」という。恒星日の長さは、太陽日の長さより約四分短い。
 本当の地球の自転周期を示すのは、恒星日のほうである。太陽日は、恒星の中を動いている太陽を地球の自転が追っかける周期であるから、真の自転周期とはいえない。この関係をたとえてみると、うさぎとかめが陸上競技のトラックで競争していて、うさぎが一周してきてスタートラインに戻るまでが一恒星日、その間に、少しは前に進んだかめに追いつくまでが、一太陽日といったところである。
 5 月の満ち欠けを見る
 (pp. 60-61)
新月(朔) 月が太陽と同じ方向にあるとき、正確には両者の黄経が等しいときは、「新月」または「朔[さく]」で、この前後、月は見えない。太陽に近くて見づらいせいもあるが、月は本当に光っていないのである。また、この前後は、当然のことながら、月出、月没、および正中の時刻は太陽のそれらとほぼ同じである。
 それから、二、三日すると、月は太陽の東にだんだん離れて、夕方、太陽の沈んだあとの西の空に見えるようになる。いわゆる三日月[みかづき]というのは、朔から三日目ごろに見える細い月である。
 

上弦  このころの月は天空に高くかかっているとき、右側が光っている。夕方遅く西の空に沈むときには、弦[つる]を上にした弓のようであるというので、上弦[じょうげん]の月という。天文学的には「上弦」とは、右半分の光った半月の状態、正確には、月の黄経が太陽のそれより九〇度大きいときをいう。月出、正中、月没は次第に遅くなり、上弦では、すべて太陽より六時間ぐらい遅れる。したがって、上弦では正午ごろ昇り、太陽が沈むころに正中し、真夜中ごろ沈む。
 

満月(望) 月はさらに太ってきて、朔から一五日目ぐらいには全面が輝き、「満月」となる。「望[ぼう]」ともいう。満月は、正確には、太陽と月の黄経の差が一八〇度になった瞬間をいう。満月のころ、月は夕方昇り、真夜中ごろ正中し、明け方沈む。全面が光っているうえに、夜どおし空に出ているということになる。満月が古代人にとって、いっそう有難かったわけである。
 

 (p. 62)
下弦  満月から七日目ぐらいに再び半月になる。ただし、今度は左半分が光っている。「下弦[かげん]」の月である。これを下弦というのは、朝方、西の空に入り残っている半月が、弦を下にした弓のように、上半分が光っているからである。下弦の正確な定義は、月の黄経が太陽のそれより九〇度小さくなる瞬間である。
 月は次第に太陽に近づいていき、夜明け前に昇って、明け方、少しの間だけ見えている状態になり、やがて再び、太陽といっしょになる。
 朔から朔までの長さは約二九日半である。月出、正中、月没は毎日少しずつ遅くなるが、二九日半かかって二四時間の遅れとなり、元に戻る。したがって、計算するとわかるように、遅くなり方は、一日平均約四九分である。
 6 朔望の周期と月の公転周期との関係
 (pp. 62-63)
朔望月  月の黄経と太陽の黄経が等しくなってから、次にまた等しくなるまで、つまり、朔から朔までは「朔望月[さくぼうげつ]」という。
 朔望月の周期は前節にものべたが、約二九・五日、正確には二九・五三〇五八九日である。この数字は、こよみにとって非常に重要なものである。この周期はあくまで平均的なもので、実際には、これより長くなったり、短くなったりし、二九・二日から二九・八日ぐらいの間で変化する。これは月の軌道上の運動が一様でないこと、および太陽の運動も一様でないためである。
 12 星座は移る
 (pp. 82-85)
星霜  年を意味する〝星霜[せいそう]〟という言葉がある。〝霜〟は暑さ、寒さの周期を表わしている。つまり、霜が降[お]り、また次に霜が降りるまでが一年という意味である。〝星〟はやはり、ある星がつぎにまた見えるようになるのが一年ということである。このように、一年とは、太陽によってもかぞえられるし、星によってもかぞえられると考えられているわけである。
 ところで、これはほぼ正しいのであるが、厳密には正しいとはいえないのである。太陽による一年と、恒星による一年とは正確にいうと少し長さが違う。太陽による一年は、恒星による一年よりも〇・〇一四日、つまり二〇分ぐらい短い。
 このわけを考えてみよう。太陽は黄道の上を動いている。そして、黄道と天の赤道との交点(二つあるうちの一方)を春分点ということは、すでにのべた。そして春分点は恒星に対して、ほぼ固定しているが、くわしくいうとそうではないことに、本章の第 7 節のところで少しふれた。
 黄道も少しは動くが、その動きはあまり大きくない。これにくらべると、天の赤道は、ずっと速く動く。その結果、大ざっぱにいって春分点は、ほぼ固定している黄道上をかなりの速さで動く。それは黄道上を、恒星に対し西へ西へと動き、二万五八〇〇年で一周する。一年にすると、角度の約五〇秒という大きさである。つまり、四〇年足らずで、太陽の直径ぐらい動くのである。
 暑さ、寒さは、太陽が地球上のどこを照らすかによって決まるものであったことを思い出そう。そうすると、暑さ、寒さの周期は、太陽が赤道を、たとえば、南から北に横切ってから、つぎに同じ方向にまた横切るまでの周期でなければならない。これは、とりもなおさず、太陽が春分点を通過してから、つぎに再び通過するまでの時間である。
 一方、この間に、春分点は西へ、つまり、太陽の運動に向かって行く方向に動いているので、太陽がある恒星に追いつくまでには、これより少し長い時間がかかる。
 人間の一生ぐらいの時間では、この差はまず目につかない。七〇年で、やっと角度の一度ずれる程度だからである。であるから、七〇年後にもやはり、オリオン座はいぜんとして冬の星座であり、さそり座は夏の星座であり続けるだろう。
 しかし、これは永遠の真理ではない。二万五八〇〇年の半分の、一万二九〇〇年後には、夏の星座と冬の星座は完全に逆転してしまっている。つまり、オリオン座は夏の星座に、さそり座は冬の星座になっている。逆にいえば、星によって季節を定義したとすると、約一万三〇〇〇年後には、夏に雪が降り、冬に太陽がギラギラ照りつけることになる。
 どちらが便利かというと、やはり夏は暑いもの、冬は寒いものと決まっていたほうがよいので、太陽の春分点通過の周期が、私たちの常識的に考える一年であるというべきであろう。〝星霜〟のうち、〝霜〟は正しく一年を表わすが、〝星〟は表わさないのである。
 なお、地球が太陽のまわりを一回転するというのは恒星に対してである。すなわち、地球の一回転を表わすものは〝星〟である。
 〔 図 2. 15 〕 (p. 80)
図 2・15 自転軸のみそすり運動歳差運動  ところで天の赤道が、ということは地球の赤道が、そしてまた自転軸が動くのはどうしてであろうか。
 これは、地球が球でなく、赤道部分がふくれた、極端にいうとハンバーガーのような形をしていること、また、赤道面が黄道面および白道面(月の軌道面)と一致していないという二つの事実が重なり合って生じるのである。その結果、地球には複雑な力が働いて、地球の自転軸は図 2・15 のような〝みそすり運動〟をするのである。その周期が二万五八〇〇年である。
 この運動は「歳差[さいさ]運動」と呼ばれる。この結果、春分点が同じ周期で黄道上を動くことは明らかであろう。また、歳差運動の結果、現在の北極星はいつまでも北極星として留まっていられない。天の北極は図 2・17〔引用注:図は省略〕のように、恒星の間を同じく二万五八〇〇年かかって移動し、約一万二〇〇〇年後には、こと(琴)座のベガ、すなわち織女星の近くに来る。

章動  歳差運動のほかに、同じ原因によって、地球の自転軸は、いろいろな小さい振幅、短い周期の振動をする。これを「章動[しょうどう]」という。もっとも大きい振動は、周期が一八・六年で、振幅が角度の約九秒のものである。章動によって、春分点が周期的に細かく振動するほか、黄道と天の赤道の傾斜角が、周期的に小さな変動をする。
 13 いろいろな一年
 (pp. 85-86)
回帰年(太陽年) 一ヵ月に、いろいろな一ヵ月があったのに対応して、一年にも数種類の一年が考えられる。
 月のところで出てきた分点月に対応するものは分点年であるが、分点年とはいわない。これを「回帰年」あるいは「太陽年」という。春分点から春分点まで太陽が動く長さで、寒暖の周期と同じ、いわゆる季節の変化を表わす一年である。
 一太陽年の長さは、三六五・二四二二日である。厳密には、これは一九〇〇年の初頭における一日の長さで測ったものある。また、小数点以下の数字は、ここで切れるわけではなく無限に続く。以下、他の一年についても同じである。
 

恒星年、近点年、交点年(食年) 恒星に対する一年は「恒星年」とよばれる。前にも述べたように、一太陽年よりも約〇・〇一四日長く、平均三六五・二五六四日である。
 地球が近日点を通過してから、つぎに通過するまでの時間は、平均三六五・二五九六日であり、これを「近点年」という。この長さは、恒星年よりさらに長い。これは、地球の近日点が地球の公転と同じ方向に移動しているためであることは、これまでの説明から容易に見当がつくであろう。これにともない、現在、太陽が、いて(射手)座にあるときに起っている近日点通過は、数万年後には、正反対方向の、ふたご(双子)座で起るようになる。
 さらに、太陽が黄道と白道の交点を出てから帰ってくるまでの時間は、「交点年」である。交点は一八・六年という速い周期で回転しているから、一交点年の長さは、他の一年とかなり異り、三四六・六二〇一日である。
 日食、月食は、太陽が白道との交点付近にあるときに起こる。すなわち、交点年の正月ごろ、および年の半ばごろに起こる。ただし、かならず起こるというのではない。起こるとすれば、このころでなければならない。このため、交点年を「食年[しょくねん]」ともいう。

 第 3 章 こよみとは何か
 2 太陽暦のあゆみ
 (pp. 94-97)
 現在、世界中で、ほとんど統一的に使われているこよみは「太陽暦」である。正確にいえば、古代エジプトで生まれ、ローマでほぼ現在の形となり、その後少し改良されながら、全ヨーロッパに、そして全世界に広まったグレゴリオ暦という名の太陽暦である。
 

エジプト暦  太陽暦が、農耕と密接にかかわりをもちつつ発生したことは、明らかである。現行の太陽暦の起源となったエジプト暦を作り出した古代エジプトは、ナイル川の三角州に高度な農耕文明を築き上げていた。
 ナイル川は定期的に起こる洪水によって、肥沃な土壌をエジプトの平野にもたらした。したがって、ナイル川の洪水はエジプト人にとって、災害であるより恵みであった。しかし、そのためには洪水の時期を正確に予知して、それに合わせて農作業を行う必要があった。
 ナイル川は毎年、きまった季節に洪水を起こしたが、それは、おおいぬ座のシリウスが日出の直前に東の空に姿を現わすころに、はじまったという。このため、真剣な天体観測が行われた。そして、西暦紀元前四〇〇〇年ごろには、一年の長さは三六五日では短すぎ、三六五日と四分の一日に近いことを知っていた。
 気がつかれたかも知れないが、シリウスと太陽との関係で一年の長さを決める方法は、厳密にいうと間違っている。このやり方で求まるものは一恒星年であって、一太陽年ではない。前章でのべたように、約一万三〇〇〇年で、星と季節との関係は逆転してしまう。したがって、このシリウスの観察による洪水の予知法が、数千年にわたって行われたと考えることはできない。
 

うるう年  それはともかく、太陽暦は、もっぱら季節の変化に忠実であろうとだけ努める暦法であって、月の満ち欠けは、最初から無視している。したがって、太陽暦の暦法上の技術といえば、いかに一年の長さを、一太陽年に合致させるかということのみにあるといってよい。
 ところで、一太陽年の長さは三六五・二四二二 …… 日であるから、どうがんばってみても、一年を毎年同じ日数にすることはできない。そこで、三六五日の年と、三六六日の年を適当に置くことになる。エジプトの初期の民間暦は、三六五日に固定されており、ひとり僧侶階級のみが、四年に一回、三六六日のうるう年を置いていた。しかし、西暦紀元前二三九年に、四年に一回のうるう年を置くことが制度化された。
 
ローマ暦  私たちが使っているこよみは、ローマで制定されたものをほぼ受け継いでいる。ローマは初期には、一年が一〇ヵ月、三〇四日から成る妙なこよみを使っていたが、後に二ヵ月を加え、一年を三五五日とする太陰暦を用いるようになった。そしてさらに、ときどき、うるう月を挿入して季節と合わせる太陰太陽暦を採用した時代もあった。
 追加した二ヵ月は、当然、年の終りに置かれたが、つぎにのべるユリウス・カエサルの改暦のときに、これが最初にもってこられた。つまり、現在の二月は、かっては年の最後の月であった。現在、九月 ……、一二月を表わすラテン語系の名前、英語でいえば、セプテンバー、……、ディセンバーの語幹である、セプテム、オクト、ノベム、デセムがそれぞれ、七、八、九、一〇を表わすラテン語であるのは、そのためである。
 

ユリウス暦  やがて、ヨーロッパを制覇し、エジプトを征服したローマは、エジプトの暦法をそのまま取り入れ、西暦紀元前四六年、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)のときに、平年を三六五日、四年に一度のうるう年を三六六日とするこよみを制定した。これを「ユリウス暦」という。
 はじめのころ、運用を間違えたりしたが、西暦紀元前八年、アウグスツス帝のときに、改正を行い、その後、一六〇〇年近く、このこよみはキリスト教文化圏で用いられた。
 ユリウス・カエサルのときのこよみは、一ヵ月は奇数月が三一日、偶数月が三〇日であった。ただ、最後の月の二月のみは、平年は二九日であった。ユリウス・カエサルは、七月に自分の名前のユリウス(英語のジュライ)をつけたが、アウグスツス帝もそれにならい、八月をアウグスツス(英語のオーガスト)とした。ところが八月が三〇日であったのを嫌い、七月に続けて八月を三一日とした。そして、その後の大の月、小の月も適当に順序を変え、足りなくなった一日を、かつて年末であった二月から減らした。このため、それでなくても平年には二九日しかなかった二月が、二八日になってしまったといわれている。
 7 太陰太陽暦と農業
 (pp. 112-114)
 月の満ち欠けにも、季節の変化にも、等しく配慮をはらったこよみが太陰太陽暦である。顕著な周期である月の朔望を尊重し、かつまた、農業などを行ううえから季節を無視することのできなかった地方に、必然的に発達したこよみである。
 したがって、太陰太陽暦は、世界の各地で独立に発生している。すなわち、バビロニアで、インドで、中国で。そして、それぞれ似たような発達をとげている。太陽暦のもとを作ったエジプト暦にしても、一ヵ月を三〇日にしていたから、初期には何らかの形の太陰太陽暦であったと思われるし、また、ローマも古くは太陰太陽暦を用いた時代があったことは前にのべた。
 
置閏法  チグリス、ユーフラテスの両河のほとりに栄えたメソポタミア支明の中でも代表的なバビロニアは、西暦紀元前三〇〇〇年ごろに、現在も用いられている星座の原形を作った民族の建てた国であるが、古くから太陰太陽暦を発達させていた。そして、西暦紀元前八世紀には、一九年に七回のうるう月を置く「置閏法[ちじゅんほう]」を発見していた。

メトン周期と一九年七閏の法  ギリシアでは、はじめ、八年に三回のうるう月を置く方法が行われていたが、西暦紀元前五世紀の天文学者メトンのときに、一九年に七回のうるう月を置く方法が採用された。一九年は、太陽年のはじまりと、朔望月のはじまりが、かなり正確に一致する周期で、メトンの名をとって「メトン周期」とよばれる。
 中国でもこのことは知られていて、一九年のことを「章」とよび、「一九年七閏」の法と称して、西洋と同じく一九年に七回のうるう月を置くことが、西暦紀元前五世紀ごろから行われた。
 一朔望月は二九・五三〇五八九日であるから、二九日と三〇日の一ヵ月を適当に置き、一日が朔とあまりズレないようにしていくことは、太陰太陽暦でも第一の問題点である。しかし、太陰太陽暦の、同様に重要な問題点は、季節と調和させることである。
 一年を一二ヵ月とすると、三五四日ないし三五五日となり、一太陽年に一一日ほど足りない。ほうっておくと、月[マンス]と季節がどんどんズレてイスラム暦のようになる。そこで、ときどき「うるう月」なるものを入れて、一三ヵ月の年を作り、季節と合わせる。これが、一般的な太陰太陽暦の暦法である。
 問題はこれをどのように入れるかだが、八年に三回置く方法では、この間の月数が九九ヵ月、平均日数が二九二三・五日であり、一方、八太陽年は二九二一・九日であるから、一・六日多すぎる。つまり、八年につき、一・六日ずつ季節が早くなる。
 中国で行われた一九年七閏の法では、一九年間の月数が二三五ヵ月で、平均日数は六九三九・六九日、一方、一九太陽年は六九三九・六〇日であるから、一九年間で、わずかに〇・〇九日多すぎるだけである。約二二〇年で一日季節が早くなるだけだから、非常に正確ではあるが、これで決して満足してはいなかった。
 朔のズレない、季節のズレない、そして天文現象をよく予報できる、さらに精密な暦法が、中国数千年の歴史を通じて求め続けられた。そして、その努力は、太陰太陽暦を中国から輸入したわが国でも、同様に行われた。他の国では、それほど精密な太陰太陽暦を、もとうとはしなかったようである。おそらく、月と季節とがズレてくれば、その都度、適当にうるう月を入れて調節したのであろう。あるいは、そんな季節とのズレが目立つ前に、国が亡びてしまったという場合もあろう。

 8 旧暦のしくみ  (pp. 114-116)
 太陽にも太陰にも忠実であろうとする太陰太陽暦が、複雑な構造になるのは当然である。これを解決しようとして古来、太陰太陽暦には無数の暦法が考案された。
 
天保暦  その中で、もっとも完成された太陰太陽暦といわれる、日本の江戸時代末期の「天保暦[てんぽうれき]」を、ややくわしく見ることによって、太陰太陽暦の構造を理解することにしよう。
 日本は推古天皇のころ(七世紀はじめ)、中国から輸入したこよみを、はじめて採用したといわれる。それ以来、中国輸入のこよみを用いてきたが、一六八五年に渋川春海によって、はじめて、わが国独自のこよみ、「貞享暦[じょうきょうれき]」が作られ、以後、宝暦暦、寛政暦と改暦を経て、一八四四年に、天保暦が作られた。
 

真の朔と平均の朔  中国、日本の太陰太陽暦では、月の第一日を決めるのに、平均的な朔ではなく、真の朔をもってしてきた。
 平均の朔を用いる方法では、二九日の月(小の月)と三〇日の月(大の月)を交互に置き、これでは少し平均の一ヵ月が短くなりすぎるので、一六ヵ月か一七ヵ月ごとに大の月を余分に置く。しかし、この方法では、月の第一日と朔とが一致せず、日食が二日に起こったり、前月の晦日[みそか]に起こったりする。これを嫌ったのであろうか、月の第一日を平均の朔でなく、真の朔で決めるようにしたのである。
 一口でこういうが、これは大変なことである。平均朔望月の長さをくわしく知っているだけでは十分でなくなる。月および太陽の運動の遅速を経験的に知って、それを考慮して、少なくとも一年先の真の朔の日付を予報しなくてはならない。これを中国および日本のこよみでは、実際に実行したのである。
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こよみ
ナイルの氾濫と古代エジプトの興隆
ナイルの氾濫 ... more/close
紀元前5000年までにナイル川下流域に集落が形成され農耕が始まった ... more/close
「エジプトはナイルの賜物」、上エジプトと下エジプト ... more/close
3,000年続いたエジプト王国(31王朝) ... more/close
古代エジプトの暦の歴史
「一年という単位を発明したのはエジプト人」 ... more/close
BCE 約3000年ごろまでは一ヶ月を30日、12ヶ月を1年とする伝統的な暦 ... more/close
BCE 4000年頃には氾濫の周期と星の観測から、1年365日は知られていた ... more/close
BCE 約3000年ごろ一ヶ月30日の12ヶ月に5日の閏日を加えた1年365日とする民衆暦が定められた ... more/close
王国の神官たちは4年の閏年に閏日を1日加えるソティス暦(シリウス暦)を使用 ... more/close
古代エジプトの民衆暦(シビル暦)
1年は3シーズン ... more/close
1シーズン4ヶ月、1年は12ヶ月 ... more/close
古代エジプトの日にちは、「王の何年目の何シーズンの第何か月の何日目」 ... more/close
神話に5追加日(閏日)の生まれた理由が語られる ... more/close
「ソティス暦」(シリウス暦)
太陽暦の基となる、ただし、太陽ではなくシリウス観測による暦 ... more/close
シリウスが日の出直前に上る日が新年の始まり(夏至の頃)、月やシーズン名は民衆暦と同じ ... more/close
ソティス暦は神官が農耕や年中行事に使用、しかし、公式の暦は民衆暦 ... more/close
ソティス暦と民衆暦が一致するのは1460年周期、ソティス暦はBCE 4241年、または、BCE 2781年に始まった ... more/close
シリウスは全天で一番明るく目立つ星(太陽を除く) ... more/close
「ヒライアカル(ヘリアカル)ライジング」と「デカン(デカノス)」 ... more/close
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エジプト暦
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エジプト暦(エジプトれき、英語:Egyptian calendar)は、紀元前2900年頃から古代エジプトで使用されていた暦法(太陽暦)である[1][2][3]。太陽暦で、1ヶ月を30日、1年を12ヶ月と5日(年末の余日)の、合計365日(一暦年)とした[2]。暦法が世界各地で発生した古代において、それらの多くは太陰暦法であったと言われているのに対し、エジプトでは太陽暦法であった[4]。

概要
古代エジプトにおいて、暦は、人々の生活ないし人間の行為の宗教的な意味付けに、重要な役割があった[5]。エジプトでは雨が降らないため、生命はすべて「ナイルの賜」とされている[3]。すなわち、古代エジプト人にとっては、定期的なナイル川の増水・氾濫による洪水が最大の関心事だったのである[3]。

古代エジプト人は、1年を太陽の運行に必要な周期とは考えずに、彼らが自分達の農業生産物を得るために必要な期間と見なした[3]。そのため、農業との関係が強いナイル川が増水する時期を、恒星シリウス(おおいぬ座α星)が日の出の前に初めて出現する時によって予測するようになった[5]。

ヘリオポリスやメンフィスなどでは、7月下旬からナイル川が増水し始め、これとほぼ同時に、シリウスが日の出の直前に東天に昇って出現(ヘリアカル・ライジング)する光景が見られたという[4][3]。すなわち、エジプトではシリウスが昇るころの一定時期に、ナイル川が氾濫して農業や生活に大きな影響が及ぼされていたのである。

そのため、シリウスの日の出直前の出現を予知する必要があり、洪水と洪水との間を1年の単位とし、365.25日と数えた[5][4][6]。

また、グノモンという柱を使用した、太陽による観測法も行われており、これらの基礎のうえに太陽暦が使用され始めた[5]。これは紀元前4241(一説には紀元前2781)年頃に成立[5]。年始は7月中旬からとされた[5]。

当初は1年を12か月、1か月を30日、1年を360日としていたが、紀元前20世紀ごろから365日の移動年(年始は年ごとに移動)とし、30日ずつある12の月に、余日として5日を最後に付加する太陽暦法であった[4]。この余日は、オシリス、ホルス、セト、イシス、ネフテュスの5神の誕生日をそれぞれ祭日としたものである。

前述の、シリウスが出現する日は「元旦」とされた。以上のような歴史的背景から、1年はシリウス年とも呼ばれる。

そしてこの1年は、「シャイト(洪水)」「ピリト(種蒔)」「シェムウ(収穫)」の3つの季節に分けられ、それぞれの季節は4ヶ月となった[4]。

ただしこのエジプト暦においては、前述の通り年は移動年であるから、季節には次第にずれが生じる。1461暦年は、1460シリウス年でもあり、季節は1461移動年で元に戻る。この周期はシリウス周期と呼ばれる[4]。紀元前238年、プトレマイオス3世は4年ごとに歳末に1日を追加し、いわゆる現在の「閏年」を設けるよう、法令を出したが、すぐには実施されず、実際に行われたのは、ローマ時代にユリウス暦が制定されたときからであった[5][4]。

ちなみに、古代エジプト人の子孫であるコプト人が使用していたコプト暦は、エジプトと同様の太陽暦であり、エチオピアにおいても使用された[4]。
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暦Wiki
古代エジプトのこよみ †
古代エジプトの暦は1年12か月、各月は30日、10日ごとの週で構成されます。
さらに、どの月にも属さない余分な5日 (Epagomene) を加えて365日となる太陽暦です。
3つの季節 (各季節に4つの月)
季節 月
??t (Akhet) 土地が水に沈む洪水の時期 Thoth, Paophi, Athyr, Cohiac
Prt (Peret) 土地が現れ、田植えと成長の時期 Tybi, Mesir, Phanemoth, Pharmouti
?mw (Shemu) 水が低く、収穫の時期 Pachons, Payni, Epiphi, Mesori
「エジプトはナイルの賜物」(ヘロドトス)
ナイル川は毎年定期的に氾濫し、肥沃な土壌を運んできました。これがエジプトに豊かな実りをもたらしたといわれています。
古代エジプトの人々は、日の出直前にシリウスが昇る=prt spdt (シリウスのheliacal risingヒライアカル・ライジング) を観測することで、洪水の時期を察知していました。
日の出直前にシリウスが昇るとは、太陽に近すぎて見えない時期を過ぎ、シリウスがふたたび見え出す日のことです。
シリウスに限らず、デカンと呼ばれる星々が昇ってくるのを数えて夜間の時刻を把握していました。
この観測からシリウスのヒライアカル・ライジングの時期が次第に365日のこよみとずれていくことがわかり、1太陽年の長さ=365.25日に気づいたわけです。
紀元前1800年代といわれるパピルス (Papyrus Berlin 10012) には、Peretの第4月の16日にヒライアカル・ライジングが起こるという予測と17日にはそのお祝いを行なったという記述があります。
ヒライアカル・ライジングの時期は古代エジプト~紀元前3000年ごろでは夏至のころ*1だったようです。
なお、現在ではアスワンダム、アスワンハイダムの完成により洪水は起きません。
この知識は後にユリウス暦によるうるう年挿入という概念につながります。
ただし、古代エジプトではうるう年は挿入していなかったので、こよみと季節はどんどんずれていきました。
この関係は1461暦年かけてまた元に戻ります。祭事は暦年、農業は太陽年と分けて暮らしていました。
1866年に発見されたCanopus stone (Internet Archives [外部サイト]) には、紀元前238年にうるう年を導入しようとした形跡がありますが、定着しなかったようです。
ローマ皇帝アウグストゥスにより、ようやく古代エジプトでもうるう年を挿入するようになりました。
うるう年には余分な日を6日とします。したがって、通常はThothの1日はユリウス暦の8月29日にあたりますが、うるう年ではこれが8月30日になります。
この1日ずれた関係は翌年ユリウス暦でうるうが挿入されるまで続きます。
これの流れをくむこよみにコプト暦 (Coptic Orthodox Diocese of the Southern United States [外部サイト]) やエチオピア暦 (Ethiopian Orthodox Church [外部サイト]) があり、現在でも4年に1回の割合でうるう年を入れています。
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世界最古の太陽暦であるエジプト暦における暦法の仕組みの具体的な特徴とは?恒星シリウスの観測とナイル川の氾濫時期の関係
2019年6月5日 [歴史・文化・社会]

太陽暦とは、一言でいうと、地球上から見た太陽の運行周期のあり方を基準とする暦法のあり方、すなわち、地球が太陽のまわりを一周する期間を一年とする暦法のあり方として定義されることになりますが、

こうした太陽暦と呼ばれる暦法のあり方は、人類の歴史のなかでは、古代エジプトにおけるエジプト暦にはじまり、その後、ペルシア暦やユリウス暦、そして、グレゴリオ暦と呼ばれる現代において使われている暦法のあり方へと引き継がれていくことになります。

そこで、今回の記事では、このうち、はじめに挙げた

一般的には、エジプト暦と呼ばれることになる世界最古の太陽暦における暦法の仕組みの具体的な特徴のあり方について、詳しく考察していきたいと思います。

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古代エジプトにおける世界最古の太陽暦とナイル川の氾濫時期の把握
古代エジプトにおいて、太陽暦が暦法として広く用いられていくことになったのは、だいたい紀元前2000年ごろの時代であると考えられていて、

エジプトにおいては、王朝の権力と国民の生活を支える源となる農業の生産力の向上のために、毎年決まった時期に洪水を引き起こすナイル川の氾濫の時期を正確に知ることが必要だったため、

こうした太陽に対する地球の公転周期に基づいて季節の移り変わりを正確に把握していくことができる太陽暦が用いられていくことになったと考えられることになります。

そして、

こうした世界最古の太陽暦にあたるエジプト暦においては、1年を365日としたうえで、1か月を30日とする12の月と、年末に加えられることになる5日の余日によって1年が構成されていくことになるのですが、

そうした古代エジプトにおける太陽暦においては、太陽の運行と暦のずれを補正するために4年に1度ほどの間隔で平年より1日だけ日数が多い年をもうける閏年(うるうどし)の導入は、いまだ行われていなかったため、季節の移り変わりを正確に指し示していくことができるはずの太陽暦であるにも関わらず日付と季節との間の直接的な関係自体は徐々にずれていくことになってしまっていたと考えられることになるのです。
 
恒星シリウスの観測に基づく閏年の存在しない太陽暦としてのシリウス暦やソティス暦の位置づけ
それでは、

古代エジプトの人々は、具体的には、いったいどのようにして、そうした徐々に日付と季節の関係がずれていってしまうことになるという少し不便なところのある閏年の存在しない太陽暦から、毎年決まった時期に訪れるナイル川の氾濫の時期といった正確な季節の移り変わりの把握を行っていたのか?ということについてですが、

こうした古代エジプトにおける太陽暦においては、元旦の日付が年ごとに移動していくという移動年と呼ばれる暦法の形が取られていて、

正確には、

ナイル川の氾濫の時期に日の出前の東の空に観測されることになる恒星シリウスの東天への出現日を元日すなわち一年のはじまりの日とすることによって実際の暦のあり方が組み上げられていたと考えられることになります。

つまり、

古代エジプトの人々は、そうした年ごとに少しずつ移動していく元日の日付と、実際の季節との間に徐々にずれが生じていく暦のうえでの日付を照らし合わせていくことによって、

閏年が存在しなくても、こうした太陽暦の導入の本来の目的であるナイル川の氾濫の時期を含めた季節の移り変わりの正確な把握を行うことができていたと考えられることになるのです。

そして、

こうした恒星シリウスの観測とナイル川の氾濫の時期を基準とする閏年の存在しない古代エジプトにおける太陽暦のあり方は、閏年の存在する一般的な太陽暦のあり方と区別して、

恒星シリウスの名をとってシリウス暦やシリウス・ナイル暦、あるいは、そうした恒星シリウスが古代エジプトにおいて豊穣の女神として神格化された名前にあたるソプデトのラテン語読みにあたるソティス暦といった暦法の名で呼ばれることもあると考えられることになるのです。


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