金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

エジプトはナブタ・プラヤの賜

ナブタ・プラヤは南エジプトのアブ・シンベルからおよそ100km西のヌビア砂漠にある、数百もの先史時代の古墳、石碑、および巨石構造からなる驚くべき遺跡という。
ナブタ・プラヤの人々は数千年後にエジプトで興る最初のナイル川都市文明の先駆者だとという人も居る。しかし、ナイル流域に影響を及ぼし、ひいては後のエジプト文明の萌芽を促しながら、やがて、前3300年頃の乾燥期に至るや、上下エジプトの統一(前3100年頃)と呼応するかのように、忽然と姿を消してしまったということです。

ナブタ・プラヤという文化は、
通常の定住農耕生活 を体験することなく、砂漠の一隅に小さな集落を育て、巨石を組み上げて建造物を遺した。砂漠の内陸湖畔の、わずか70k㎡という小さな集落の中で、ささやかながら一つの 「文化」 を作り上げたものだという。

         エジプト地図集からお借りしました        

(ナブタ・プラヤの遺跡<エジプト>は、北回帰線近くに位置し、夏至の前後3週間ほどの間、正午の太陽は天頂に昇り、直立物は影を射さなくなる位置にある。
この 広い砂漠に1本だけ立っている石柱があり、砂漠にも珍しい長さ約1mの見事な石柱が、ポツリと立っていて、この石柱は夏至前後の数日間は、真っ直ぐ南中する太陽を指し、そのせいで影を生じることがないということが分かり、この石柱は夏至の日を知るための、日時計に似た構造物だったという。
サハラ砂漠の遊牧民は、おそらく、影が出来ない日、すなわち「夏至の日」を知ることによって、雨期の到来を予測したのだろうという。
この遺跡からは、実に奇妙な遺物が何種類も発見されいて、
たとえば、南中した夏至の太陽を、ピタリと指すように立てられた石柱や、
シリウスを指して並べられた巨石の列、
さらに夏至の太陽の昇る位置を正確に指し示すカレンダー・サークルなどという、
信じられないような天文測定装置です。
Nabta Playa and the Ancient Astronomers of the Nubian Desert

雨期は植物や彼らの家畜にとって、極めて重要な存在であったので、もしいつまでも雨が降らなければ、極乾燥期に入り、定住を諦めて一旦他の土地へ逃れなければならなかっただろうという。

   "ナイル河谷においてピラミッドが出現する以前に、ナブタ・プラヤやその他の地域に比較的大きな石造建造物があった。   後の時代にナイル河谷において真正ピラミッドとして結実する古代エジプトの巨石文化の起源とその製作の際に利用された天文学的知識・測量技術の源は、   ナイル河谷から見て西方・南方のサハラ世界にあるのかもしれない。"(大城則道:2010年、p.73⇒参照・大城道則:2009年、p.17)という。

エジプトに於いて何故か太陽観測の経緯も、二至二分の存在も薄いと思っていたが、ナブタ・プラヤの知識、シリウスに関する知識が利用されれば、太陽観測はされず、それに関係しない二至二分 春分や秋分 は観測されず、忘れられても仕方なかったのだろう。
そういうことから、エジプトの暦は本来の意味での太陽暦とは言えないと考える。

引用ーーーーーー
Nabta Playa and the Ancient Astronomers of the Nubian Desert

ナブタ・プラヤは南エジプトのアブ・シンベルからおよそ100km西のヌビア砂漠にある、数百もの先史時代の古墳、石碑、および巨石構造からなる驚くべき遺跡です。これらは約11,000年前に興った進んだ都市コミュニティの成果で、巨大な石の集合体が残されており、知られている中で世界最古の巨石による天文学的な整列だと言われています。一部の考古学者は、ナブタ・プラヤの人々は数千年後にエジプトで興る最初のナイル川都市文明の先駆者だと考えています。

ナブタ・プラヤの古代遺跡は、1974年にテキサス州サザンメソジスト大学の人類学教授フレッド・ウェンドルフ氏(Fred Wendorf)が率いる研究者グループによって初めて発見されました。それは、彼らが陶器の破片やその他の遺物が砂漠から突き出ているのに気づいた時でした。ウェンドルフは1970年代と80年代に何度もこの遺跡を訪れ、毎回新たな発見をしていました。しかしそれは、現在知られている数十の石の構造体を研究者らが発見し、偉大な巨石の役割や重要性を理解し始める数十年も前でした。
ーーーーーー

 広い砂漠に1本だけ立っている石柱があります(図表集:第27図)。砂漠にも珍しい、長さ約1mの見事な石柱が、ポツリと立っているのですから、最初に発見した調査隊員も、およそ自然の産物とは思えない石の棒に、奇妙な感覚を覚えたはずです。調査してみると、この石柱は夏至前後の数日間は、真っ直ぐ南中する太陽を指し、そのせいで、右の第19図のような影を生じることがないということが分かってきました。この石柱は、なんと、夏至の日を知るための、日時計に似た構造物だったのです。サハラ砂漠の遊牧民は、おそらく、影が出来ない日、すなわち「夏至の日」を知ることによって、雨期の到来を予測したのでしょう。先に述べたように、雨は彼らが蓄えた植物や、彼らの家畜にとって、極めて重要な存在であったのですから。それだけに止まらず、もしいつまでも雨が降らなければ、極乾燥期に入り、定住を諦めて一旦他の土地へ逃れなければならなかったのですから。

 王朝時代にエジプト人は、毎年6月末になると、夜空で一番明るい星であるシリウスが、日出前に出現(ヘリアカルライジングheliacal rising)し、ちょうどその頃にナイル川の増水が始まることを発見しました。そしてその日を一年の始まりとして、最終的には太陽暦を完成するのです。夏至の太陽を特定することも、全く同様に、彼らの生活にとって、如何に重要であったかは、このことからも十分理解できることです。

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   "ナイル河谷においてピラミッドが出現する以前に、ナブタ・プラヤやその他の地域に比較的大きな石造建造物があったという事実は認めざるを得ない。
   後の時代にナイル河谷において真正ピラミッドとして結実する古代エジプトの巨石文化の起源とその製作の際に利用された天文学的知識・測量技術の源は、
   ナイル河谷から見て西方・南方のサハラ世界にあるのかもしれない。"(大城則道:2010年、p.73⇒参照・大城道則:2009年、p.17)

 ここに述べた四つの 「脚光を浴びた理由」 は、先に触れたとおり、裏返せばまた、ナブタ・プラヤの特質を、一つ一つ的確に裏付けているものであるとも言えるでしょう。ナブタ・プラヤという、強烈な個性を持つこの文化は、約五千年間という年月を費やし、通常の定住農耕生活 を体験することなく、「現代人的行動」 を原動力として、砂漠の一隅に小さな集落を育て、巨石を組み上げて建造物を遺し、一つの「文化」 を育て上げたのです。そして、ナイル流域に影響を及ぼし、ひいては後のエジプト文明の萌芽を促しながら、やがて、前3300年頃の乾燥期に至るや、上下エジプトの統一(前3100年頃)と呼応するかのように、忽然と姿を消してしまいました。メソポタミア、中国など他の諸文明はいずれも大河と広大な土地に恵まれています。ナブタ・プラヤは、砂漠の内陸湖畔の、わずか70k㎡という小さな集落の中で、ささやかながら一つの 「文化」 を作り上げました。縄文時代だけでも1万年以上続いた、日本の古代史と比較してみても、五千年という短期間に、ナブタ・プラヤの民が為し遂げた成果は、一驚に値します。ナブタ・プラヤという砂上の遺跡は、そういう意味でも、文明史上かなり特異な存在であり、南西アジアのナトゥーフ文化に勝るとも劣らない、注目すべき文化であった、と言っても良いでしょう。

 ところが 「Nature誌」 の論文から15年以上を経過しても、「ナブタ・プラヤ」 の名が日本の教科書は勿論、書籍やメディアに登場することは極めて稀で、管見によれば、僅かに大貫良夫他著 「世界の歴史 1」、大城道則著 「ピラミッドへの道」、近藤二郎著 「エジプトの考古学」、高宮いづみ著 「エジプト文明の誕生」、および翻訳書では、ロバート・M・ショック他著 「神々の声」 の合計五冊に、ややまとまった説明が見られるだけなのです(他に、「ピラミッド以前の古代エジプト文明」、「古代エジプト文明社会の形成」、「古代文明と気候大変動」、「銃・病原菌・鉄」、「神々の指紋(下)」 でも、わずかに触れられています)。インターネット上では 「BlueRose Wiki」 の 「ナブタ・プラヤ遺跡」、エジプト学の西村洋子氏および先に挙げた大城道則氏、高宮いづみ氏の他には数少なく、勿論正確な全容の紹介は見られません(2016年12月現在)(⇒参考文献)。
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  (一)「北」を発見する      戻る↑
 これまで何気なく 「北」 とか 「南」 とかいう表現を使ってきましたが、ナブタ・プラヤの時代には、先ずそういう知識そのものが無い状態からの出発だったはずです。昼夜を通して広漠たる砂漠を旅するとき、彼らが現在の位置を確かめ、目的地の方角を知るために 「北」 というような、一つの方角の指針を定める必要がありました。また、雨期の到来を予知するためには、「夏至の太陽が昇る方向」 を知ることも必要不可欠だったでしょう。

 しかし、何の知識も持たない砂漠の遊牧民にとって、そもそも夜空の星の動きに一定の法則性を見出すことさえ、何十年のいや何百年の、模索や問答やそして口伝の繰り返しが、必要だったことでしょう。しかし彼らは成し遂げました。毎晩まいばん、飽きずに夜空を見上げることから、それは始まったはずです。
長年の観察の結果、彼らは北極の空では一つの不動の星を中心に星が円を描いて回っていいることに気付くに至ります。その星が 「北極星」 であり、正確な 「北」 であるなどとは、知る必要も無かったのですが。現在の我々は、「彼らは北極星の方角の平らな地平線上で、特定の星が<登る場所>と<沈む場所>にケルンを置けば、その真ん中が 「北」 になる という原理にまで辿り着いた」(マルヴィル:2007年)などと簡単に片付けているのです。それはともかく、こうして見つけ出した 「北」 から、「南」 を定め、更に「夏至の太陽の昇る方向」や、「南中する時点」 を捉えるに至り、その知識が、この節に取り上げる様々な構造物の建造に、生かされて行きました。
東西南北を極めて高い精度で計測している、ギザのピラミッドが作られたのは、前2600年頃ですから、すぐ後に述べる 「カレンダーサークル」 は、それよりも約2000年以上前に、正確な 「南北」 を割り出していたことになります。

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メソポタミア文明や中国では太陰暦(厳密には太陰太陽暦)が行われていたのに対して、エジプト文明では太陽暦が行われていた。https://www.y-history.net/appendix/wh0101-052.html

 ナイル川の定期的な氾濫を利用して灌漑農業を営むようになったエジプト人は、365日で1年がめぐることを知るようになり、太陽の運行をもとにした太陽暦に、紀元前5000年頃に移行したという。初めは1月は30日で年12ヶ月、5日の祝日を入れて365日とする民衆暦が工夫された。後に4年に1度の閏年をいれることによってより正確に季節変化に合うようになった。季節の変化と一致しない太陰暦に対して、農作物の栽培に適合しているために次第に広く使われるようになり、カエサルがこれをローマに導入してユリウス暦とし、地中海世界・ヨーロッパで広く行われるようになった。


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