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逆シリウス方位の巨大前方後円墳

逆シリウス方位の巨大前方後円墳
とは古墳の中軸方位が北から20度の傾きで、西が正方位、東側に20度傾いているものは逆シリウス方位と云われていた。シリウス正方位の巨大古墳はヤマトの丸山古墳まで継続していた。それで
この北から20度東側に傾いている逆シリウス方位のものは探してみると、以下のような巨大前方後円墳と古墳群になる。


吉備 造山古墳 作山古墳

 

埼玉古墳群は比較的大きいものは逆シリウス方位

 

百舌鳥古墳群は逆シリウス方位

    古市古墳群の中にもある            岡ミサンザイ古墳

 

北から東へ45度の方位の古墳 これも逆シリウス方位で良いのだろうか
群馬の太田天神山古墳 ほぼ45度の傾きのように見える
  特記事項 全国第28位/東日本第1位の規模[1]


何れも古墳時代中期頃までで、その後は続いていないようだから、古墳時代末期の巨大古墳を残した、正方位勢力によって逆シリウス方位の勢力はヤマト柳本を含め、席巻されてしまったということなのだろうか。

 

畿内と吉備  古墳系列時期

 

            作山古墳  造山古墳

図はお借りしました

引用ーーーーーー

前方後円墳は岩手県から九州まで広く分布している
 古墳の裾を調査すると大きさが修正されることがよくあるが、やはり前方後円墳は巨大でトップ30を占めている。今回は日本の巨大古墳を30個紹介したい。

1位  大仙陵古墳 大阪府堺市堺区大仙町

2位  誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳
   大阪府羽曳野市誉田
3位  上石津ミサンザイ古墳 大阪府堺市西区石津ヶ丘
4位  造山古墳       岡山県岡山市北区新庄下

5位  河内大塚山古墳 大阪府松原市西大塚羽曳野市南恵我之荘

6位  五条野(見瀬)丸山古墳 奈良県櫃原市見瀬町・五条野町・大軽町

7位  土師(はぜ)ニサンザイ古墳 大阪府堺市北区百舌鳥西之町
8位  渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳   奈良県天理市渋谷町
9位  仲津山古墳 大阪府藤井寺市沢田
10位  作山古墳      岡山県総社市三須

11位  箸墓古墳 奈良県桜井市箸中
12位  五社神(ごさし)古墳 奈良県奈良市山陵町
13位  ウワナベ古墳 奈良県奈良市法華寺町
14位  市庭(いちにわ)古墳 奈良県奈良市佐紀町
14位  メスリ古墳 奈良県桜井市高田・上之宮
16位  行燈山(あんどんやま)古墳    奈良県天理市柳本町
16位  岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺
18位  室宮山古墳 奈良県御所市室
19位  市ノ山古墳 大阪府藤井寺市国府 
20位  宝来山古墳 奈良県奈良市尼辻西町

21位  太田茶臼山(おおたちゃうすやま)古墳    大阪府茨木市太田
22位  墓山古墳 大阪府羽曳野市白鳥
23位  巣山古墳 奈良県北葛城郡広陵町
24位  西殿塚古墳 奈良県天理市中山町
24位  ヒシアゲ古墳 奈良県奈良市佐紀町
26位  佐紀石塚山古墳 奈良県奈良市山陵町御陵前
27位  川合大塚山古墳 奈良県北葛城郡河合町川合
28位  築山古墳 奈良県大和高田市築山城山
28位  西陵(さいりょう)古墳 大阪府泉南郡岬町淡輪

28位  太田天神山古墳     群馬県太田市内ケ島町
ーーーーーーーーーーーーーーー

太田天神山古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
太田天神山古墳(男体山古墳)
墳丘・周濠全景(左に前方部、右に後円部)
所在地 群馬県太田市内ケ島町1606-1ほか
位置 北緯36度17分30.04秒 東経139度23分27.69秒座標: 北緯36度17分30.04秒 東経139度23分27.69秒
形状 前方後円墳
規模 墳丘長210m
高さ  16.5m
埋葬施設 (推定)竪穴式の主体部 (内部に長持形石棺)
出土品 円筒埴輪・水鳥形埴輪など
築造時期 5世紀前半-中期頃
史跡 国の史跡「天神山古墳」
特記事項 全国第28位/東日本第1位の規模[1]
誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)の2分の1相似形[2]
地図 太田天神山前方後円墳-南西.png舟塚山前方後円墳-西南西.png浅間山前方後円墳-南東.png
太田天神山古墳の位置(群馬県内)太田 天神山太田
天神山別所 茶臼山別所
茶臼山浅間山浅間山白石稲荷山白石稲荷山
全ての座標を示した地図 - OSM
太田天神山古墳(おおたてんじんやまこふん)は、群馬県太田市内ケ島町にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている(指定名称は「天神山古墳」)。

東日本では最大[注 1]、全国では第28位の規模の古墳で[1]、東日本では墳丘長が200メートルを超す唯一の古墳として知られる。別称を「男体山古墳」とも[3]。
概要

群馬県東部、太田市中心部の標高40メートルほどの台地の東端部に築造された巨大前方後円墳である[3]。
後円部の裾を県道2号線(東国文化歴史街道)が、前方部外堀部分を東武小泉線が横断するものの、墳丘・内堀の大部分は良好な状態で残されている[4]。

墳形は前方後円形で、前方部を南西方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は約210メートルを測るが、これは東日本では最大規模になる[注 1]。墳丘表面には葺石が認められる。また墳丘周囲には2重の周濠が巡らされているほか、陪塚2基を付設する(うち1基は推定)。周濠を含む全域は364メートル×288メートルにも及ぶ。主体部の埋葬施設はすでに盗掘を受けているが、未調査のため、長持形石棺の使用が知られるほかは不詳。

この太田天神山古墳は、出土埴輪・土師器から古墳時代中期の5世紀前半から中期頃(第II四半世紀)の築造と推定される[3][5]。長持形石棺は畿内王墓に特有の石棺であり、その使用から被葬者とヤマト王権との強いつながりが想定される。また北東300メートルには女体山古墳(帆立貝形古墳、国の史跡)があり、両古墳は基準尺・方位の点で同一企画下にあることが知られる。

上毛野地域(かみつけの:現・群馬県域)では、天神山古墳登場以前までは東毛の首長(別所茶臼山古墳)と西毛の首長(浅間山古墳・白石稲荷山古墳)とが個々に存在したと想定し、東毛の首長が伸長し、ヤマト王権の後ろ盾のもと上毛野地域全体に及ぶ支配を確立して築造した古墳と位置づけられるとする説がある[6]。また立地や規模から、被葬者を上毛野国造の荒田別とする説や[7]、その子の竹葉瀬と見る説もある[8]。


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