金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄紋について 文字はあった

縄紋土器が正解のようだ
文とは文字または絵文字で
縄文土器の紋が絵文字として解釈できるのならば
縄文で正解
しかし文字として捉えられないのであれば
紋であり文字では無いことになる。
殆どの土器の紋様は文字として理解するのは困難そう。これまで じょうもん は縄文とされていたので、検索などを考えると縄文としてとりあえず誤用する。

しかし縄紋土器の中には文字として捉えられるものも有る。

縄紋中期末から後期初めに掛けての土器


継続性と広がりに於いてどのようなのかはこれから・・・

        写真はお借りしました

引用ーーーーーー

ふるさとの宝物
狩猟文土器 |シュリョウモンドキ
分野:考古
展示の有無:第1展示室  時代:縄文時代後期
所有者:青森県立郷土館
遺跡所在地:八戸市大字田面木字韮窪(韮窪遺跡)
文化財指定:県重宝  受入番号:1898‐1-0
八戸市韮窪遺跡で出土した縄文時代後期はじめの土器で、文様で狩猟の場面を表してています。写真左側に弓矢、中央に四つ足の獣、右側に樹木とも思われる文様が粘土を貼り付けて描かれています。裏側には隅丸の五角形の中に斜線と円形の文様が描かれています。

さまざまな解釈がありますが、罠あるいは落とし穴を表したというのが代表的なものです。縄文時代中期の終わりごろから後期前半(約4,500年前から4,000年前)にかけて東北地方太平洋側から北海道南部にかけて類似の資料が見つかっていますが、どの遺跡からも見つかるわけではなく、一つの遺跡から見つかる数も多くて数点です。日常の煮炊きに使われた土器とは考えがたく、狩猟に関する儀礼用の土器だったのかもしれません。同じ時期に同じような分布を示す人体表現のある土器と関係が深いようです。
狩猟文土器


狩猟文土器
文化財区分:考古資料
時代区分:縄文時代、縄文後期
指定区分:県指定(県重宝)、指定・登録なし
収蔵場所:是川縄文館、その他(青森県立郷土館)

縄文時代中期末葉から後期初頭にかけて、東北地方を中心に、狩りの場面を表したとされる「狩猟文土器」と呼ばれる土器が発見される。
狩猟文土器は北海道南部から福島県まで分布するが、東北地方北部の太平洋側からの発見例が多い。狩猟文土器は主に、上から見た4つ足の動物、弓矢、樹木、落とし穴のような文様が描かれる。

県重宝に指定されている八戸市韮窪(にらくぼ)遺跡出土の狩猟文土器は、縄文時代後期初頭の牛ヶ沢(うしがさわ)式期のもので、胴部には、上から見た4つ足の動物、弓矢、樹木、落とし穴のような文様が横位に展開して描かれている。動物に対して向けられた弓矢には突起があり、装飾をつけた飾り弓とも推測される。4つ足の動物は抽象的な表現のため、具体的にどの動物を表しているかはわからないが、縄文時代に利用される動物のツキノワグマあるいはイノシシと考えられている。狩りの成功を祈る儀式で使用されたのかもしれない。
解説執筆者 : 落合 美怜
推薦文献 : 八戸市『八戸市史 通史編Ⅰ』

ーーーーーー

 現在でも、数の上では少数となっているが「縄紋」を使用する考古学者が存在することを疑問とし
て「縄紋」から「縄文」への転換の実相の調査を行った結果、『国史大辭典』の江坂の説については、
神田が論理的な説明を行うことなく「縄紋」を「縄文」に転換させてしまうようなことは、神田の履
歴や『東京人類学会雑誌』に投稿された論説からも考えにくく、首肯し難い。
1888年に一時的に「縄文」が誌面に登場したが、それは本論の分析から偶発的な誤植であった可能性が極めて高い。それは、「縄文」がその後約50年余にわたり、東京人類学会会員により使用されていないことからも強く示唆される。

 『東京人類学会雑誌』誌上で使用された「縄文」については、江坂が『東京人類学会雑誌』4巻34
号誌上のこととしているが、長谷部は『東京人類学会雑誌』4巻32号であることを確認していた。両
者とも、『東京人類学会雑誌』7巻71号で神田が「縄紋」を使用していることには調査がおよばなかったようである。神田の事蹟についての研究者は現在でも非常に少なく、神田の学術的な業績などが斟酌されることなく、また文献資料などの詳細な調査が行われないままに通説化されたものと考察した。
 比較調査の対象を『考古学雑誌』とし調査をした結果、考古学会での「縄紋」から「縄文」への転
換には、建築学会との関係が重要な役割を果たした可能性が高いことを示した。しかし、その背景に
は、分野を超えた社会的背景として漢字の使用法が変化をしていたことを無視することはできない。
 建築学会が発刊した『文様集成』に於いて、「紋様」を「文様」へ「紋」を「文」へと文字の転換
が推進された一連の流れのなかでは、山内や佐原が憂えたような字義の問題は特に考慮された形跡は
ない。建築学会での「紋様」から「文様」へ、「紋」からの「文」への転換については、『文様集成』
発刊の主旨にも書かれているように、世界の百般の工藝を見据えてのことであろうが、その詳細につ
いては稿を改めて検討したい。そして、「唐草紋」が「唐草文」に「菊花紋」が「菊花文」に転換さ
れたのと同じように、「縄紋」も字義についての特別な検討は伴わず「縄文」へ転換されたと考える。
すなわち、考古学会に於ける「縄文」は高橋が初出であるが、佐原が述べるような論理があっての用
語の転換ではなかったことが判明した。また、東京人類学会での本格的な「縄文」の使用は、高橋の
「縄文」から、約20年後のことであり、考古学会で「縄文」を使用する者が増加して行く流れを背景
として用語の転換が始まったと考えられる。

 「縄文」の使用は、現在では数のうえで「縄紋」を大きく上回るが、以上の分析を踏まえて筆者の
見解を述べるとすれば、「縄紋」から「縄文」への転換は、字義の正しさの検討に基づいて進められ
たものではない。佐原が主張したように、漢字の解釈からも困難を期すことがあるとともに、山内が
主張したように学史的な問題も存在することから、「縄紋」から「縄文」への転換経緯の実相を踏ま
えたうえで、あらためて適切な表記方法についての検討がなされることが望ましいと結論づけたい。


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