東アジアの貝塚発生は何故始まったのか
図 東名遺跡
この中に次の東アジアでの貝塚発生について纏められていて、年代記載がありました。
図 東アジアの貝塚
ここには7000年前頃から形成されていたという。
縄文時代の貝塚は、早期に 6突起土器が造られ、半年 6回の朔望周期が分るように成って
干満が予測できるようになってからである
図 東名遺跡変遷図
この変遷図は100年のような年代精度があるものとして記載されているが、この精度はとても信じられない。
東名遺跡の廃絶は7300年前の鬼海カルデラ噴火による滅亡ないしは逃避によるものではないかと考える。
鳥浜貝塚も7300年頃のこの時期滅亡していた。
このような状況から、東アジアの朝鮮半島から大陸側の貝塚発生は、この噴火により九州や日本列島
からの逃避、鳥浜貝塚などからの避難した人々により始められたものでは無いか。
何れにしても縄文時代早期の貝塚発生よりずっと後のことである
図 土器形式の分布変遷 4までの早期と、5の間に7300年前の鬼海カルデラ噴火があった、諸磯式土器は西日本には波及しなかった。
7300年前の鬼海カルデラ噴火以後は西日本のほぼ全体から縄文人の活動が消えたかのように見える。以後東日本側が大きく発展していたのではないか。
土器などの存在状況からも、海外への貝塚の広まりは7300年前の鬼海カルデラ噴火後のことであるようだ
そしてこの日本列島中国地方以南の鬼海カルデラ噴火降灰の危機から逃れた人々は世界的に拡散して
文明の基礎となる太陽暦などの情報を古代文明の興起した各地に伝えシュメール文明、エジプト文明など
が7000年前以降に興隆してきたのでは無いか。
図 太陽暦開発の年表