金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

土器開発の背景sf

土器開発は無文土器から
土器模様整理年表


土器の用途
籠などに代わる容器として、煮炊きの用途の鍋として、祭祀用途など供献土器として

日本列島最初の土器は次の4段階をたどると考えられている。という
まず最初の第1段階は無文土器[6]を特徴とし、
第2段階は豆粒文土器[7]と隆起線文土器群[8]であり、
第3段階は爪形文土器群[9]であり、
第4段階は多縄文土器群[10]である。そうです
土器の爆発的増加はその後で、煮炊きに本格的に使用されるようになる尖底土器からのようです。
撚糸文土器と押型文土器はほぼ同時に発生した


狩猟用の打製石器は
大きな尖頭器から小ぶりの有舌尖頭器になり石鏃が作られている


大型獣の狩猟には尖頭器、小型動物の投げ槍猟の有舌尖頭器になり、
弓矢の開発により弦と石鏃が開発対象となった。
ここから道具の開発は、弦と石鏃の形が重点となる
それにより隆起線文土器では、弓矢の開発が記録されていたものと考える。
弓矢の猟は強力であり、それらの道具 石鏃は全国的広がりを見せ、弓矢の猟が全国に広がったようだ。それと同時に隆起線文土器も全国に広がりを見せていた。


その後も弦の開発、つまり弓の弦に使う紐の性能向上のために、各種の縄とか紐が開発されそれらは、多縄文土器として記録されたのだろう。

その究極の形の紐 糸は弓の弦から、釣り針による釣り糸に転用されたものと考える。
この開発の進展は、続いて現れた撚糸文土器に記録され、弓の弦用よりも更に細く強い糸が開発されることにより、釣り用の糸として使うことが可能となり、釣り針による漁が可能になったものと思う。
撚糸文土器


石鏃の方も様々に工夫が凝らされて、その経緯は爪形文土器として記録が残されたものと推測する。
爪形文は多岐にわたっていて、その形状や施文方法によって細分が可能である[9]。という、たとえば、
「幅広でやや丸みをおびた爪形文が施されるもの」、
「やや幅広の三日月状を呈する爪形文が施されるもの」、
「幅の狭い三日月状を呈する爪形文が施されるもの」、
「幅広のやや丸みをおびた爪形文と幅の狭い三日月状の爪形文が併用されるもの」、
「半截竹管による爪形文がめぐるもの」、
「爪形文と押圧縄文が併用されるもの」などがある[9]。
ということなので、石鏃は様々な形で試して効果を研究したものと考える。
このような模様が土器に残されたと云うことは、この時期の道具としては石鏃以外には思い浮かばないので。

その後に記録されていた土器の模様としては、押型文である。
このような模様が何故付けられたのか、これは容器に保存する内容を示す標識板ではないだろうか。
豆粒の保存には豆粒文土器、その他のドングリや・・・はそれなりの押型を付けた容器にという具合にである。
このようにして土器には、その当時行われていた生業の手段の開発進展の画期を、記録して残していたものと考える。
縄文早期に煮炊き用の尖底土器が開発されるまでは、土器の用途は供献土器や容器としての用途が主で有ったものだろうと考える。
ここまでに出てこない波状突起口縁の土器があるが、これについては、太陽暦と太陰暦に関係するものとして、ここまでの道具とは別に考えることにする。

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

爪形文土器は出土資料が極めて少なく、全形復元ができる資料も限定されるため、その組成も不明で今後に課題を残している[2]。
形状
爪形文土器は器面全体を爪形文で覆い、形状は水平口縁の深鉢である[8]。しかしその内容は複雑であり、爪形文といっても多岐にわたり、その形状や施文方法によって細分が可能である[9]。たとえば、
「幅広でやや丸みをおびた爪形文が施されるもの」、
「やや幅広の三日月状を呈する爪形文が施されるもの」、
「幅の狭い三日月状を呈する爪形文が施されるもの」、
「幅広のやや丸みをおびた爪形文と幅の狭い三日月状の爪形文が併用されるもの」、
「半截竹管による爪形文がめぐるもの」、
「爪形文と押圧縄文が併用されるもの」などがある[9]。
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日本列島最初の土器は次の4段階をたどると考えられている。
まず最初の第1段階は無文土器[6]を特徴とし、
第2段階は豆粒文土器[7]と隆起線文土器群[8]であり、
第3段階は爪形文土器群[9]であり、
第4段階は多縄文土器群[10]である。
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 かいつまんでいうと、
関東の多くの研究者は「撚糸文(よりいともん)土器が古く、その後押型文土器が発生した」 という。
関西の多くの研究者は「撚糸文土器と押型文土器はほぼ同時に発生した」とする。
信州はどうかというと 神村氏流に言えば「右顧左眄」(うこさべん)しているという。
 私はどうかと聞かれると、「撚糸文の一部に押型文土器が伴うことはほぼ確実だが、最古の撚糸文に押型文が伴うかは まだよくわからない」と答えることにしている。残念ながら信州では南関東の撚糸文土器の影響がそれほど多くないようで、対比するのが難しいのだ。
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縄文土器をはじめとする生活道具
縄文時代に使われた道具の代表格は、時代名にも採用された縄文土器です。縄で模様が付けられていることから命名された万能道具ですが、縄文時代草創期は模様のない土器も作られていました。

例えば、大平山元遺跡から出土した日本最古の土器は無紋。同じく草創期の土器とされる「泉福寺洞窟遺跡」(長崎県佐世保市)で発掘された「豆粒文土器」(とうりゅうもんどき)は模様こそあったものの豆粒状の模様でした。つまり縄文土器とは、あくまで縄文時代に作られた土器全般を指す名称なのです。

縄文土器の用途は大きく分けて2つありました。ひとつは煮炊きをするための調理用、もうひとつは食べ物を保管するための貯蔵用です。いずれも縄文時代早期は深鉢形が基本でしたが、前期に入ると浅鉢型や台付型が作られるようになり、中期には壺型や皿型、香炉型などが登場。用途に合わせて様々な形状が生まれました。

また、模様も時代を追うごとに多様化し、中期には立体模様が施された火焔型土器や王冠型土器など、個性的な土器が次々と現れます。祭祀文化が発展したことが模様の変化にかかわっていると言われていますが、これらの出土品の多くには煮炊きの跡が残っているのです。

日常的に使用されていた可能性が大きいことから、奇抜な形状に発展した理由は、いまだ分かっていません。なお、縄文土器の作成方法は、全時代を通じてほぼ変わっておらず、粘土を加工して模様を付けたのち、窯などは使わずに約600?800℃での酸化焼成(充分な酸素がある状態で焼く方法)が行われていました。

色彩的な意匠はなく、ほとんどの場合、赤褐色をしています。縄文土器の他、定番の道具として挙げられるのが、狩猟具や漁労具です。縄文時代を通じて狩猟の主役は弓矢と槍で、動物の大きさなどに合わせて使い分けていました。

一方、漁労に使われていたのは動物の骨や角で作った釣り針や銛、そして漁網錘です。いずれも獲物に合わせて微妙に作りが異なり、地域によって形状は様々でした。この他、土を掘るときに棒状の柄などに取り付けて使う打製石斧や、堅い木の実や根茎類を製粉する際に用いる石皿なども、縄文人にとっての必需品と言える道具でした。
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1期の土器にも次期以後と同様にコゲ ・ススが付着する例が多く、煮炊き ・煮沸 ・煎合などに用いたことが分
かる。しかし、出土個体数は各遺跡とも 1-数個体程度にとどまり、使用頻度はきわめて低い。日常的な調理とか
大量の加工処理の用途は考えにくい状況であり、より限定的な用途や使用季節が想定される。サケ ・マスの捕獲
と大量の石槍製造とともに 1個体の土器が使用された東京都前田耕地遺跡の状況などは、そうしたやや特殊な用
途を示唆するものと言えよう。

2期になると遺跡数と土器出土量が共に増加 し、土器使用の一定の普及ぶ りが窺える。この傾向は大隈諸島を
含む南九州で特に顕著である。種子島の鬼ヶ野遺跡における隆帯文土器の出土量は、破片数にして 14,000点にも
上る(西之表市教育委員会 2004)02期の年代はベー リング/アレレ- ド期に対比される温暖期にほぼ該当してお り、
南九州で堅果樹が増加 したことが土器使用増大の直接的な理由になったらしい。土器と共に石皿 ・磨石が普及 し
ている点からみても、堅果類のアク抜きや調理の用途が第一に考えられる。
ただし、その後の土器の出土量の推移を見るかぎり、この動きが縄文文化の形成発展を一気に加速させたとま
では評価できない。土器の保有量はその後 3a・3b期を通じて低い水準のまま推移 しており、むしろ減少傾向
すら窺える。また、3期では土器の薄手軽量化が顕著となり、器厚 5m 前後の薄手の土器が特徴的に見られるが、
これは土器焼成時または使用時の燃料節約のための工夫と思われ、土器の製作 ・使用を制限するような要因の存
在を暗示する。新 ドリアス期に対応する再寒冷化によって気象条件や植生、生業 ・居住形態が変化し、それが土
器文化の発展を鈍化させる何らかの作用を及ぼしたことも予想される。

土器出土量の飛躍的な増加が認められるのは縄文時代早期初頭のことであり、完新世の持続的な温暖気候の下
で土器文化の完全な定着と飛躍的な発展がはじめて実現する。関東から南九州に至る広い範囲で数万点もの大量
の土器を出土する遺跡が出現するが、これは定住的集落の増加や貝塚の出現などとも連動してお り、土器の用途
が幅広くかつ不可欠の文化的要素になったことを明示している。貝殻沈線文系土器が出現する早期中葉には、そ
れまで消極的であった北海道でも土器使用が一気に開化する。たとえば函館市中野 B遺跡の貝殻沈線文系土器の
出土量は 18万点以上にも上る膨大なものである(北海道埋蔵文化財センター1995)。

このような土器文化の飛躍的発展が、集中的な堅果類利用や、海進に伴う水産資源開発の本格化を軸とした、
生業全体の構造的変化に起因していたことは間違いない。その限りでは縄文文化の形成 ・確立に土器が不可欠の役割を果たした事実は否定しがたいが、そこにいたる4000年以上の長い過程の実態にも目を向けなければ、土器出現の真の意味は見えてこない。

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(97)波状口縁尖底土器、函館市住吉町遺跡;函館市史(http://archives.c.fun.ac.jp)

「 波状口縁」は「編む文化」でジグザグ線で現れていた「雲」(訂正・平衡)の立体表現になります。後に「沸き立つ雲」まで表現は進んでいきます。そうすると、「土器の誕生」と哲学的「概念の誕生」は分けて考えることが必要なようです。「尖底」からは「土器の誕生」が推察され、「 波状口縁」は「概念の誕生」が読み取れるのです。写真(97)「波状口縁尖底土器」、この写真が見られる「函館市史」通説編1 2編3章1節-1に興味深いことが書かれています。

「北米西南部のクリフドウエリングの岩窟居住人が、かごに粘土を塗って乾かしていた例もあった。」

 {ショショーネ族の文化 「編む文化」、「松の文化」}(参照)で書きましたが、「編む文化」の伝播経路で、籠に水を入れる工夫がされました。西アジアでは籠に「瀝青(天然タール)」を塗り、防水加工しました。東アジアでは「松脂」が使われています。これらは発掘された「籠」が証明してくれるのですが、「粘土」のことは知りませんでした。この「粘土が塗られた籠」が存在するのであれば、「土器の誕生」の一例を知ることになります。

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(98)基本的な籠編み

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(99)巻き始め位置と底の突起

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(100)底に突起のある縄文土器(刺突文、爪形文も見られます。)、縄文草創期・帯広市大正3遺跡 ;帯広百年記念館・縄文土器ギャラリー

一般に「籠編み」は「底」から始めます。最も簡単で基本的な方法は写真(98)の編み方です。(A)の編み方では巻き上げ始め位置が少し高くなるため、底に突起が残ります。写真(34)Shoshone currying basket(ショショーネ携帯用の編み籠)にも「突起」は見られます。

「帯広市大正3遺跡」の縄文草創期・「尖底土器」には底の突起がそのまま再現されています。このことは、「籠に粘土を塗って乾燥、あるいは焼成」防水加工した形態が、そのまま「土器」になったことを意味するのではないでしょうか。そこから、「突起」のない「尖底土器」になります。また写真右端には口縁と底が「角丸四角」の土器が見られます。写真(98)基本的な籠編み(B)から生まれた土器だと解釈できます。


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