金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄文早期 6突起、6波状口縁の土器

縄文早期には青森や北東北にも6突起口縁の土器が有ったように見えるが、
その後この伝統は消えている。
6突起口縁土器

 

千葉 縄文早期 野島 6波状口縁土器

 

千葉は縄文草創期から晩期まで縄文人は住み続けていたようだ
図 縄紋土器の年代と土器の形式の継続

図 縄文早期の野島式土器の房総全体への広がりの状況

これらから見えるのは、縄文時代全期間において、この地域の海辺を背景として、縄文人が如何に海辺の豊かさを受けて来ていたかが分る。
列島の貝塚分布

縄文中期には八ヶ岳周辺などで、内陸でも縄文文化は大きく発展したが、そのベースには、関東地域の縄文海進による海の豊かさに、縄文時代と縄文文化は、如何に依存して来ていたかを考慮しておくことが重要だと考える。
縄文海進

房総半島では、縄文草創期から縄文晩期まで全ての期間、縄文土器と縄文文化は継続してきたようだから、関東平野のその他の地域では、房総半島地域ほどには今はまだ状況が見えていないものの、縄文海進による関東平野周辺の海辺は、列島の縄文時代の中心地域だったものとみて良いのでは無いか。

図と写真はお借りしました

引用ーーーーーー

野島式土器 飛ノ台のシンボル - 花見川流域を歩く ...
https://hanamigawa2011.blogspot.com/2019/05/blog-post_2.html
2019/05/02 ・ 私家版千葉県遺跡データベースで野島式土器を検索すると31レコード(遺跡)がヒットします。早期中葉の田戸下層式土器分布などにみられた顕著な下総台地北部集中は消えています。しかし分布域の全体像は早期土器に共通するものがみられるような感想を持ちます。

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縄文人に太陰暦は必要だったか

 

追加して訂正します。 2022.02.26日
縄文時代の人には太陰暦は必要でした、海辺に近く潮の干満の影響がある所では必須でしたから、縄文早期にはそれは存在していたと考えています。貝塚が縄文時代早期には形成されるようになった、そのためには海の干満を予測する必要があるので、縄文時代早期に太陰暦は作られていたと考える。 6波状突起土器はそれを記念して、記録して残していたと考えています。

6波状突起口縁の土器はなぜ造られたのか。

 

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冬至と夏至の中間点 春分  91日
91日/3    30日  月の周期に一致する
30日/2    15日  半月
91日/2    45日  季節の区分点 四立 八節の暦が出来る
45日/3    15日  二十四節気の暦になる
15日ということは、月の満ち欠けの一月と二十四節気の暦の繋がりが分かり
朔旦立春を見て、四季の暦と月の暦の一致が分る。
これから見て、太陽暦と太陰暦の並列使用が縄文人に必要であれば利用していたものと考える。
縄文人は広範囲で移動していた様子が見えるようだから、そのためには太陽暦の日にちの知識は必須だったものと思う。また雑穀栽培にも同様。

        図は借用しました
縄文人の月についての知識は何か見えているだろうか、太陰暦の存在は世界的には常識のようだけれど。

                  図はお借りしました

引用ーーーーーー

エジプト暦(エジプトれき、英語:Egyptian calendar)は、紀元前2900年頃から古代エジプトで使用されていた暦法(太陽暦)である[1][2][3]。太陽暦で、1ヶ月を30日、1年を12ヶ月と5日(年末の余日)の、合計365日(一暦年)とした[2]。暦法が世界各地で発生した古代において、それらの多くは太陰暦法であったと言われているのに対し、エジプトでは太陽暦法であった[4]。

概要
古代エジプトにおいて、暦は、人々の生活ないし人間の行為の宗教的な意味付けに、重要な役割があった[5]。エジプトでは雨が降らないため、生命はすべて「ナイルの賜」とされている[3]。すなわち、古代エジプト人にとっては、定期的なナイル川の増水・氾濫による洪水が最大の関心事だったのである[3]。

古代エジプト人は、1年を太陽の運行に必要な周期とは考えずに、彼らが自分達の農業生産物を得るために必要な期間と見なした[3]。そのため、農業との関係が強いナイル川が増水する時期を、恒星シリウス(おおいぬ座α星)が日の出の前に初めて出現する時によって予測するようになった[5]。

ヘリオポリスやメンフィスなどでは、7月下旬からナイル川が増水し始め、これとほぼ同時に、シリウスが日の出の直前に東天に昇って出現(ヘリアカル・ライジング)する光景が見られたという[4][3]。すなわち、エジプトではシリウスが昇るころの一定時期に、ナイル川が氾濫して農業や生活に大きな影響が及ぼされていたのである。

そのため、シリウスの日の出直前の出現を予知する必要があり、洪水と洪水との間を1年の単位とし、365.25日と数えた[5][4][6]。

また、グノモンという柱を使用した、太陽による観測法も行われており、これらの基礎のうえに太陽暦が使用され始めた[5]。これは紀元前4241(一説には紀元前2781)年頃に成立[5]。年始は7月中旬からとされた[5]。
当初は1年を12か月、1か月を30日、1年を360日としていたが、紀元前20世紀ごろから365日の移動年(年始は年ごとに移動)とし、30日ずつある12の月に、余日として5日を最後に付加する太陽暦法であった[4]。この余日は、オシリス、ホルス、セト、イシス、ネフテュスの5神の誕生日をそれぞれ祭日としたものである。

前述の、シリウスが出現する日は「元旦」とされた。以上のような歴史的背景から、1年はシリウス年とも呼ばれる。

そしてこの1年は、「シャイト(洪水)」「ピリト(種蒔)」「シェムウ(収穫)」の3つの季節に分けられ、それぞれの季節は4ヶ月となった[4]。

ただしこのエジプト暦においては、前述の通り年は移動年であるから、季節には次第にずれが生じる。1461暦年は、1460シリウス年でもあり、季節は1461移動年で元に戻る。この周期はシリウス周期と呼ばれる[4]。紀元前238年、プトレマイオス3世は4年ごとに歳末に1日を追加し、いわゆる現在の「閏年」を設けるよう、法令を出したが、すぐには実施されず、実際に行われたのは、ローマ時代にユリウス暦が制定されたときからであった[5][4]。

ちなみに、古代エジプト人の子孫であるコプト人が使用していたコプト暦は、エジプトと同様の太陽暦であり、エチオピアにおいても使用された[4]。
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太陰暦とは
月の公転周期から導き出される「一ヶ月」。月は平均して29.5日で地球の周りを一周する。これにあわせ、29日と30日からなる一ヶ月を交互に組み合わせて作られたのが「太陰暦」。しかし、これでは355日になってしまうため、たりない10日を付け加えるため、3年に一度、閏月が付け加えられた。

太陽暦とは
地球の公転周期から導き出される「一年」。一年は365.2422日なので、端数を切り捨て365日とし、これを12に分けたものが現在使われている12ヶ月である。

古代エジプト暦では
1年を12等分することを重視した暦。一ヶ月を30日に固定しているため、変則的な太陰暦。上のほうにも書いたように、30×12で360日、これに5日を足した365日である。
だが、太陽暦よりはるかに機能的で、使いやすい暦だった。

 時は本来この世に存在せず、人間が擬似的に作り出す知恵の産物である。このように複雑に組み合わせ、使いやすいよう改良していくことには、古代の人々の多大な努力と研究があったはずだ。
 まさに、知恵の神トトの支配下におくに相応しい概念と言えよう。
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 太陽暦と太陰暦
 われわれの住む地球では、高緯度地方は別として、毎日太陽の出没があり、月の盈虚[えいきょ]があり、四季の交替がある。これらの現象をもとにして、時刻の経過を知り、これを将来に延長して、来るべき変化に備えようとする要求が〈暦〉を生み出した。時間を刻む単位として年(太陽の運動)、月(月の盈虚)、日(地球の回転)が当然利用された。一日を最小の単位として、週・月・年など大きな単位に区切ることを〈暦法〉といい、一日を分割して時刻を決めることを〈時法〉という。
 暦法では、「一年」を重視するのか「一ヶ月」を優先するのかによって、その暦の体系が異なる。まず、〈太陽暦〉〈太陰暦〉という二つの暦を見てみよう。

 太陽暦は、太陽の運行を基準とする。月の満ち欠けは最初から無視しているが、それでも一ヶ月の長さが、三〇日前後であるから、月とは全く無関係ではなさそうだ。太陽暦はエジプトに始まったといわれる。夏の明け方に、太陽に先んじて初めて輝くシリウス(おおいぬ座 α )を毎年観測して、ナイルの氾濫を知ったというのは有名な話である。

エジプトでは、紀元前二三八年には、四年一置閏法が出されたという。やがて、ローマが地中海を制覇することになり、ユリウス・カエサルにより、このエジプトの暦法が取り入れられ新しい暦が作られる(紀元前四六年)。以来これを〈ユリウス暦〉というが、この時は三一と三〇の大小の月が交互で、小の二月が一日少ないだけ(閏年は四年に一回三〇日)であった。カエサルの養子オクタヴィアヌスはローマ初代の皇帝となり、ユリウス暦の誤用を改めたが、その時、元老院から奉られた自分の称号アウグストゥス(尊厳なる人)を八月の呼び名とし、さらに二月から一日引いて八月を大の月とした。以来、この暦は一六〇〇年近く通用する。

 ユリウス暦は、四年一置閏法であるから、一年の長さは三六五日と四分の一、つまり、三六五・二五日である。したがって正確には三六五・二四二二二 … 日の一年に約〇・〇〇七八日大きくなる。つまり、一二八年で一日分早くなることになる。この違いは累積するため、三月二十一日の春分の日が、十六世紀になると、三月十一日になってしまった。ローマ法王グレゴリオ十三世が、このずれた春分の日を一五八二年に調整して、春分の日を三月二十一日にもどし、また置閏法を変更し、四年一回の閏年を四〇〇年に三回やめることにした。これならば、三〇〇〇年に一日の余りが出る精度である。これが、いま通用しているグレゴリオ暦で、当初この暦は旧教世界でのみ通用していたが、新教国にも十八世紀には広まった。わが国では、明治六年(一八七三)から(正確には明治三三年)同暦が採用され、中国では辛亥革命(一九一二年)からである。
 いっぽう太陰暦は、月の運行の方を重視し、太陽の動きとは無関係である。一朔望月(一六一ページ参照)は平均二九・五三日であるから、一ヶ月を三〇日と二九日の交互に並べると一ヶ月の平均は二九・五日となるが、それでも〇・〇三日足りない。そのため三三ヶ月に一日の調整日を小の月の十二月に加える(正確には三〇年に一一回の調整日)。この暦法は簡単であるが、非常に精度が高く、二千数百年に一日のずれで、複雑なグレゴリオ暦の精度に匹敵する。
 しかし、太陽暦とくらべると、一年で十一日短いため、三年で一ヶ月の季節のずれが生ずる。したがって太陰暦のイスラム暦で行うラマザーン(第九月)の行は、真冬の時もあれば、真夏の時もあることになる。また、このイスラム暦で歳を数えると、三三年で一歳多く年をとることになる。
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暦について/暦の発見(太陰暦から太陰太陽暦へ)
  
 太陰太陽暦を考える前に簡単に暦の成り立ちを考えてみたいと思います。現在、私たちが使っている暦法は大きく分けて三つあります。一つが人類最古の暦法といわれる太陰暦。二つ目が太陰暦に太陽の運行を加味した太陰太陽暦、そして三つ目が現在私たちが供している太陽暦です。
 では、私たち人類は暦という概念をどのようにして持つに至ったのでしょうか。
 道具が発明され、言葉を使い文字を作り出した人類は、やがて農業などを行うようになり、人と人のコミュニケーションや集団生活を行うようになると、いくつかの約束事が必要になってきます。その一つに日を数える必要も生まれたと考えられます。まず、太陽が昇り朝を迎え、日が沈み夜となる。そしてまた日が昇り朝を迎える。この規則的な繰り返しを通して、古代の人類は一日という概念を得たと思われます。
 暦の語源が「日読み(かよみ)」からきているといわれるのも頷けます。また、カレンダー(Calendar)の語源といわれるラテン語のカレンダエ(Kalendae)は「宣言する」とか「叫ぶ」という意味で、古代ローマでは太陽暦が採用されるまで、新月が出ると「月が出た!」と知らせていたところから、いわゆる「最初の日(朔日)」という意味を持つようになり、今のカレンダーにつながったようです。
 また、英語の月<moon>や一ヵ月<month>の語源はラテン語の「暦の月<メンシス=mensis>」からきているし、英語の測る<measure>も、月経も、すべてラテン語の「測る」を語源としています。つまり「月」とは、測るものの基準であったことがうかがわれます。因みに英語の時をあらわす time と、潮汐をあらわす tide も同じ語源だそうで、月や潮汐が時を測るのに広く用いられていたことがわかります。

■太陰暦
 純粋な太陰暦とは、人類にとって太陽と共にもっとも身近な月の運行、つまり月の満ち欠け(朔望)をもとにした暦です。新月を朔日(一日)とし、満月を経て次の新月にいたる月の朔望の周期は約29.53日ですので(半端な1日はありませんから)、ひと月は29日と30日で成り立っています。身近な存在である月の満ち欠けの周期は、日を数えるには格好の素材であったに違いありません。新月から次の新月までの周期、いわゆる朔望月を通し、1カ月という区切りを編み出したのでしょう。ということで人類が最初にもった暦の概念は月の運行をもとにした純粋な太陰暦でした。

 しかし、月の満ち欠けの周期は太陽の動きとは関係がないため、12回朔望月を繰り返しても約354日しかならず、1太陽年に対して約11日足りません。このため、太陰暦では3年で一カ月強、十数年たつと春が秋となり、夏が冬になってしまいます。この純粋な太陰暦はイスラム暦など一部の地域で現在でも使用されています。
■太陰太陽暦
 太陰太陽暦とは、月の運行(太陰暦)と太陽の運行(太陽暦)の周期を組み合わせ季節が大きくズレないように工夫された暦で、古くはもっとも広範囲に使われていた暦です。
 特に農耕民族にとって、季節は種を蒔いたり収穫する上でも重要で、暑さ寒さの予測、その繰り返し、陽の照射角度の変化、天候の変化などの規則性から、太陽との関連性で1年が365日強という概念に気づきます。しかし、太陰暦でいうところの朔望月を12回繰り返すだけでは約354日にしかならず、太陽の1年とは約11日の開きがあります。そのまま放置すれば、3年で約1カ月、十数年たてば冬が夏になり、春が秋になり月だけの観測で編み出された太陰暦では季節が特定できなくなることも知ります。
 こうして、月と太陽を観察することによって暦は進化を遂げ、太陽との季節のズレを修正するため、3年に一度、正確には19年に7度(メトン法、中国では章法)ある月の後に1ヵ月、閏月として加え、その年は13ヵ月とし暦と季節が大きくずれることを防いでいます。これが太陰太陽暦です。古代バビロニアやユダヤ、古代ギリシャ、古代中国でほぼ同じころに生まれたといわれています。しかし、それでも太陰太陽暦の1年は354日から384日と変動し、季節感は毎年11日から30日近く変動します。
 いずれにしても太陰太陽暦とあるように、月の運行(月の満ち欠け)をもとにしつつ太陽の運行を加味した暦ということができます。
 こうして人類は、月と太陽を代表とする天体の観察をとおして、1日を太陽の動きから、1カ月は月の満ち欠けから、そして1年は太陽の動きから導きだし、暦の概念ができあがったのです。しかし、この後、暦は大きく分けて二つの流れを生み出しました。それが太陽暦と太陰太陽暦でした。
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二十四節気

二十四節気を簡単に説明しますと、一年を四季(春夏秋冬)に分けそれを六分割して二十四に分け、それぞれに名前を付けたものです。こう書いてしまうといとも簡単にできたように思われてしまうのですが、現在の形になるまで、3500年もの月日がかかっているのです。

初期のものは殷(BC1600~BC1100年頃)の時代に作られたといいます。当時の考え方としては、影が最も長くなる日(昼間の最も短い日)を冬至、影が短くなる日(昼間の最も長い日)を夏至とし、両者の中間点である昼夜等分の日を春分・秋分として四季の中心を定めました。さらに冬至と夏至、さらに春分と秋分を分けて二至二分(にしにぶん)と呼んで重要視したようです。

次に出来たのは、立春、立夏、立秋、立冬の4つの節気です。二至二分が季節の中心を表しているのに対して、四立(しりゅう)は季節の始まりを表しています。二至二分と四立を合わせた8つの節気を「八節」として節気の柱にしたのが、西周(BC1100~BC770年)の時代です。それがさらに細分化され二十四節気となったのが春秋戦国(BC770~BC221年)時代だといわれているのです。

立春や啓蟄などの二文字の漢字で表されるそれぞれの名称は、二千年も前に「漢書律暦志」という書物の中に書かれていますから、かなりの暦史があるということです。

そもそも二十四節気は、太陰暦が実際の季節と大きくずれて農作業に支障が出てしまうことから、正確に季節を掴む目的から考えられたともいわれています。すなわち季節あるいは寒暖乾湿を正確に知ることが、豊かな実りを獲得する術であったという事なのです。

二十四節気はこうして中国で作られ、日本へは平安時代に入って来たと言われているのです。また、中国から移入された二十四節気や五節句のほかに季節を知る特別な暦日として、雑節が設けられています。誰もが知る節分やお彼岸などを含め9つあるのですが、これらは日本独特のもので、日本の気候風土の移り変わりをあらわしています。
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二十四節気は中国の戦国時代の頃、太陰暦の季節からのずれとは無関係に、季節を春夏秋冬の4等区分する暦のようなものとして考案された区分手法の1つで、一年を12の「節気」(正節とも)と12の「中気」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられている。

重要な中気である夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分は併せて二至二分(にしにぶん)と言い、重要な節気である立春・立夏・立秋・立冬を四立(しりゅう)、二至二分と四立を併せて八節(はっせつ)という。

また1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、それぞれをさらに6つに分けた24の期間を表すものとして使われることがある。この場合、二十四節気をさらに約5日ずつに分けた七十二候という分類があり、各気各候に応じた自然の特徴が記述された。日本でも暦注など生活暦において使われている。二十四節気はほんらい中国の気候をもとに名づけられたものなので、日本の気候とは合わない名称や時期もある。よって日本ではそれを補足するため二十四節気のほかに、土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを旧暦で取り入れている。
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 2016年,中国の「二十四節気」 (Twenty-Four Solar Terms) が,ユネスコ無形文化遺産に登録されることが決まった.
二十四節気は古代中国,殷の時代より用いられていたとされる暦だが,日本にも早く6世紀にもたらされ,現在に至るまで伝統的な季節感を表わすものとして使用されてきた(国立天文台による用語解説「二十四節気」を参照).
二十四節気は歴とした太陽暦であり,旧暦のもととなった太陰暦に太陽暦の要素を提供したという点で,暦計算上,そして文化的にも重要な役割を担ってきた.二十四節気ファンとしては,ユネスコ無形文化遺産の登録は嬉しい.
 二十四節気は,厳密にいえば中国版と日本版とで微妙に異なる歴史を歩んできたが,実際的な点では名称を含めほぼ一致している.

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