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縄文土器はなぜ造られたのか

縄文土器はなぜ造られたのかをもう一度整理してみる

西アジアのシュメール文明の地域では、土器が造られたのは、農耕が始まるよりも
ずっと遅れていたようだ。この地域の生業である牧畜や麦作では、必要は発明の母であるとするならば、土器は必要でなかったと考えるしかない。時期的には縄文時代前期にあたる頃、やっと土器が造られるようになったという、大変に遅れた時期である。
この地域の作物の形態から見て土器を必要とするものでは無かったと思う。それは主作物の麦類には、種には芒があり、編み籠でも目漏れすることは少なく採集するのに問題は無かったと考える。

それに対して東アジアの日本列島では、新石器時代の初めから土器が造られることから始まった。
なぜなのか、それは食料とできる植物の形態からと考える。縄文人には麦類のような植物種子でなく
植生の特性から、マメ類を食料として採用するほかなかったのではないだろうか。
マメ類の原種は、種が細かい上に、莢が弾けやすく、そうした種の採集には、それまで利用してきた
編み籠では、採集容器として目漏れしてしまい不都合が生じていた。

 

それを解決するためには、籠からの目漏れを止めるために、粘土を塗りつけていたのではないか。
それを継続する過程から土器が生まれたものと考える。
採集用に造られた最初の土器は無文土器で、表面に模様は無かった。
初期の土器は壊れやすく、造られていた量も極少ないものであったようだ。


煮炊きに使われるような強度を持ち、大量に造られるようになった土器は、草期始め頃まで改良が進められて、尖底土器が造られるようになってからと考える。

土器の最初の用途は採集用の容器と、造形が容易なのと焼けば永遠に残る石器と変わらない安定性で、
メディアとしての用途だった。
その最初の造形例は豆粒文土器だった。これはマメ類の栽培を修得した喜びを表現して、縄文社会にその技術革新を伝えていたものと考える。
ここから土器の用途が容器という実用道具から、メディアとしての用途に進化した最初だったと考える。

マメ類の栽培種の完成は、その後数千年を要したものの、前期半ばには栽培種のマメ類を練り込んで焼かれた土器が現れて、農耕の開始を表している。

 


新石器時代の狩猟方法は、尖頭器を装着した槍や投げ槍から、弓矢を用いる方法に変化している。
隆起線文土器や爪形文土器、各種の縄文の施された土器、撚り糸文土器は魚釣り漁の開発、羽状縄文土器は網による漁労と進化していた。
これらを示す模様を持つ土器は、何れも生業開発の進展を記録して、縄文社会にその技術を伝えるものとして、
記念碑ないしは情報伝達のために造られたものと考える。
縄文時代の土器開発は、新石器時代の歴史を記録していて、現代にまでその歴史を伝えるメディアとなっていた。
縄文土器は各種生業開発の時期の土器で、土器こそが新石器時代の象徴であり、新石器時代とは土器による記録が遺されて、歴史時代の始まりを示すものである。縄文土器と縄文時代こそがそれを示している。


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