金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

メソポタミアで占星術が発展したのは暦が不正確だったから

旧暦と立春
立春は旧暦1月1日というのは、ほとんどの場合は正しくない。旧暦1日は必ず朔(新月)だが、立春は朔に関係なく定められる太陽暦であるため、多くの年は1日にならない。
旧暦(中国・日本の太陰太陽暦)では元日が立春前後に置かれる。それは立春のころを年初にし、春の始まりと年の始まりを一致させるためである。これを夏正(かせい)という。古代中国夏王朝の正月という意である。平気法ではそのために、立春の次の雨水を含む月を正月(1月)とする。定気法での月名の定義はやや複雑だが、結果はやはり、雨水を含む月が正月となる。という

節切りにあっては立春が年初となる。四柱推命や風水などの占いでは、節分までは前年に属し、立春をもって年が改まるとしているものが多い。節分の豆撒きは立春を年初として、新しい年の幸運を願っての昔からの習慣である。

二十四節気の「立春」は、『暦便覧』では「春の気立つを以って也」とされるが、時候的な解説では、「大寒から立春までは一年のうちで最も寒い季節であり、立春を過ぎると少しずつ寒さが緩み始め、春の気配が忍び入ってくる」とされるのが一般的である。ただ注意が必要なのは、このような気象的事象のゆえに「立春」が定められたのではなく、冬至から春分への中間点として、暦法上の要請から定められたものだということである。

カペラは、ぎょしゃ座の一等星で、冬の大三角形の一角をなす明るい恒星です1。古代バビロニアでは、春分の日没直後にカペラと新月が西の空に並ぶ日を元日としていました2。このように、カペラの位置と動きを観察することで、春分の時期を知ることができたのです。
シュメール文明では、太陽観測だけでなく、恒星や月の動きも暦に利用していました1。春分の頃の新月を新年の始まりとするウンマ暦は、恒星カペラと新月が西の空に並ぶ日を元日としていました1。また、太陽が黄道十二宮の牡羊座に入る日も春分と考えられていました2。

このようにメソポタミア文明の暦では太陽観測ではなく、カペラと月相を利用していたようですから、カペラ暦というのだろうか、太陽暦とは言えないものでした。春分の最初はどのようにして決めたのか、それは分からないようです。
太陽の直接観測以外には正確な太陽暦は決めようがありません。

農作物の不作・豊作を左右する暦の存在が占星術の普及を後押ししていた
占星術の発達は、暦の成立と切り離して考えることができません。
当時の暦は「農事暦」で、大河流域に住みついて農耕文明を興した古代人にとって、種蒔きや収穫の季節を知ることが何よりも重要だったからです。という

それなのに太陽観測が出来ないので、正確な暦が作れないため、星と月相を観測して暦を造り、皇帝など支配層に私物化されていて、正確で無い暦の影響で、収穫などが変動するために占星術が発展していたというのが正解では無いだろうか。

縄文時代は前期の頃には太陽暦を完成させていたので、中期以後には二十四節気の暦を作り上げ、太陽暦と太陰暦を地域に合わせて利用し、シンクロさせていた。列島全体に月と太陽の運動に従う正確な暦が共有されていて、そこには占星術を必要とする暦の変動は無かった。

 


図はお借りしました

引用しますーーーーーーーーーーーーーー

年の内に春は来にけり これは誰の歌ですか

回答を生成しています…

「年の内に春は来にけり」は、古今和歌集の中にある在原元方(ありはらのもとかた)の歌です。この歌は、新年になる前に立春を迎えた日に詠んだもので、年内のうちに春が訪れたことを表しています。また、「去年と呼んだら今年と呼べども」という意味も含まれています1。

「年の内に春は来にけり」は、古くから知られている有名な和歌で、多くの人々に親しまれています。

受信したメッセージ. 「年の内に春は来にけり」は、古今和歌集の中にある在原元方(ありはらのもとかた)の歌です。この歌は、新年になる前に立春を迎えた日に詠んだもので、年内のうちに春が訪れたことを表しています。また、「去年と呼んだら今年と呼べども」という意味も含まれています。 「年の内に春は来にけり」は、古くから知られている有名な和歌で、多くの人々に親しまれています。
詳細情報:
1. bing.com
2. mc-mc.co.jp
3. note.com
4. roudokus.com
5. www2.yamanashi-ken.ac.jp
6. milord-club.com
7. wakadokoro.com

ーーーーーーーーーーーーーー

太陽太陰暦としてよく知られているのは,バビロニア暦である。
バビロニア暦は,ウル第三王朝(BC2112~2004年頃)のシュルギ王(BC2094~2047年頃)が定めたウンマ暦を起源とすると言われている。シュルギは,ウル・ナンムの息子である。

バビロニア暦では,月の満ち欠けの周期(朔望月)をもとに,1年を12か月とし,春分の頃の新月の直後を元日とした。1年は,「始期」,「中期」,「終期」の3期に区分された。

平均朔望月は約29.530589日で,1太陽年は365.242189日なので,1年12か月とすると354.367068日にしかならず,1年で10.875121日も暦と季節がずれてしまう。紀元前6世紀までは,最後の月や6月を繰り返すことで,暦と季節をあわせていた。春分の日は,恒星カペラの動きを観察して決定したという。

バビロニアでは,19年が235か月にほぼ等しいことが発見され,紀元前5世紀初頭に,19年に7回の閏月を置く19年7閏法が採用された。19年≒235か月という太陽と月の周期は,ギリシアの数学者メトンにちなんで,メトン周期と言われるが,メトンはバビロニアからこの周期を導入したと言われている。

ーーーーーーーーーーーーー

1.カペラが春分を示すと言うことは、何故分ったのか

The new Bing preview will be available directly from the Windows taskbar

External Link icon
Learn More


‘カペラ 春分’ を検索しています
回答を生成しています…

カペラは、ぎょしゃ座の一等星で、冬の大三角形の一角をなす明るい恒星です1。古代バビロニアでは、春分の日没直後にカペラと新月が西の空に並ぶ日を元日としていました2。このように、カペラの位置と動きを観察することで、春分の時期を知ることができたのです。

受信したメッセージ. カペラは、ぎょしゃ座の一等星で、冬の大三角形の一角をなす明るい恒星です。古代バビロニアでは、春分の日没直後にカペラと新月が西の空に並ぶ日を元日としていました。このように、カペラの位置と動きを観察することで、春分の時期を知ることができたのです。
詳細情報:
1. 543life.com
2. ja.wikipedia.org
3. hoshinokoto.com

2.シュメール文明では太陽観測なしに春分をどのようにして知ったのか

‘シュメール文明 春分 太陽観測’ を検索しています
回答を生成しています…

シュメール文明では、太陽観測だけでなく、恒星や月の動きも暦に利用していました1。春分の頃の新月を新年の始まりとするウンマ暦は、恒星カペラと新月が西の空に並ぶ日を元日としていました1。また、太陽が黄道十二宮の牡羊座に入る日も春分と考えられていました2。

受信したメッセージ. シュメール文明では、太陽観測だけでなく、恒星や月の動きも暦に利用していました。春分の頃の新月を新年の始まりとするウンマ暦は、恒星カペラと新月が西の空に並ぶ日を元日としていました。また、太陽が黄道十二宮の牡羊座に入る日も春分と考えられていました。
詳細情報:
1. ja.wikipedia.org
2. news.yahoo.co.jp
3. ja.wikipedia.org
ーーーーーーーーーーーーーー

3.古代バビロニアやエジプトの天文学による太陽暦が、古代ローマ時代などで、その後季節が狂ってしまったのは何故ですか

‘古代ローマの暦 季節ずれ’ を検索しています
回答を生成しています…

古代ローマ時代に、季節が狂ってしまったのは、ローマ暦の不備が原因です12。最初のローマ暦は、10か月で304日しかなく、太陽年と大きくずれていました1。その後、ユリウス・カエサルがエジプト暦を参考にして、4年に一度閏日を入れるユリウス暦を作りましたが、それでも平均365.25日と太陽年の365.2422日との差が積み重なっていきました2。このため、約128年で1日ずれることになり、季節と日付の関係がだんだんずれていきました。

受信したメッセージ. 古代ローマ時代に、季節が狂ってしまったのは、ローマ暦の不備が原因です 。最初のローマ暦は、10か月で304日しかなく、太陽年と大きくずれていました。その後、ユリウス・カエサルがエジプト暦を参考にして、4年に一度閏日を入れるユリウス暦を作りましたが、それでも平均365.25日と太陽年の365.2422日との差が積み重なっていきました。このため、約128年で1日ずれることになり、季節と日付の関係がだんだんずれていきました。
詳細情報:
1. ja.wikipedia.org
2. eco.mtk.nao.ac.jp
3. museum.seiko.co.jp


4.古代ローマで暦が季節からずれたとき、何故太陽を直接観測しなかったのですか

‘古代ローマ 太陽観測’ を検索しています
‘古代ローマ 暦 ずれ 太陽観測’ を検索しています

回答を生成しています…

古代ローマで暦が季節からずれたとき、太陽を直接観測しなかったのは、いくつかの理由が考えられます。一つは、太陽の動きを正確に測定するための技術や器具が不十分だったことです1。もう一つは、暦のずれが生活上の不便をあまり感じなかったことです23。実際、古代ローマでは、夏至や冬至などの重要な日は別途天体観測によって決めていました3。また、暦は政治的な権力にも関係しており、改暦には抵抗や混乱が伴うこともありました45。

受信したメッセージ. 古代ローマで暦が季節からずれたとき、太陽を直接観測しなかったのは、いくつかの理由が考えられます。一つは、太陽の動きを正確に測定するための技術や器具が不十分だったことです。もう一つは、暦のずれが生活上の不便をあまり感じなかったことです 。実際、古代ローマでは、夏至や冬至などの重要な日は別途天体観測によって決めていました。また、暦は政治的な権力にも関係しており、改暦には抵抗や混乱が伴うこともありました 。
詳細情報:
1. ja.wikipedia.org
2. ja.wikipedia.org
3. aska-r.repo.nii.ac.jp
4. tripeditor.com
5. nao.ac.jp
6. ja.wikipedia.org
+3 その他
ーーーーーーーーーーーーーー

The new Bing preview will be available directly from the Windows taskbar

External Link icon
Learn More

星の動きと収穫の関係と太陰太陽暦の年初日の太陽暦からの変動の関係を回帰分析してください

回答
申し訳ありませんが、私たちは回帰分析を行うことはできません。しかし、太陽暦や月暦による収穫量の変動と星の動きの関係については、古代メソポタミアでは天文学的な観測によって占いが行われていたとされています。また、中国では、古代から天文学的な観測によって暦を作成していました。 これらの観測によって、収穫量や季節の変化を予測することができたとされています。

何か他にお手伝いできることはありますか?


天文学は、星、惑星、彗星、銀河などの天体や、地球の大気圏外で発生する現象を科学的に研究する学問です。望遠鏡やその他の機器を用いて、これらの天体や現象を観察し、解釈することが含まれます。

一方、占星術は、天体の動きや相対的な位置を調べることで、人間関係や地上の出来事に関する情報を占うと主張する疑似科学である。占星術は、宇宙を説明する力がないとして、科学界から否定されています。

お役に立てれば幸いです!もし他に質問があれば教えてください。


Astronomy is the scientific study of celestial objects such as stars, planets, comets, and galaxies and phenomena that originate outside the Earth’s atmosphere. It involves the observation and interpretation of these objects and phenomena using telescopes and other instruments.

Astrology, on the other hand, is a pseudoscience that claims to divine information about human affairs and terrestrial events by studying the movements and relative positions of celestial objects. Astrology has been rejected by the scientific community as having no explanatory power for describing the universe.

I hope that helps! Let me know if you have any other questions.

ーーーーーーーーーーーーーー

シュメールの暦は1年が354日の太陰暦でした。一ヶ月は新月から次の新月までの日数で、30日の大の月と29日の小の月を交互に繰り返していたようです。
また、シュメールでは月の代表的な様相とされる「新月」「下弦月」「満月」「上弦月」に祭りを執り行っていたようで、それが現在の一週間の起源になったのではないかともいわれています。
ーーーーーーーーーーーーーー

発達した天文学・太陰暦

天文学が発達したのは、作物を栽培するにあたって季節や時間を知る必要があった事、またチグリス・ユーフラテス川の氾濫の時期を知る為に必要なことでした。 また、メソポタミア地方の夏は暑く寝苦しいので、人々は涼を取るために、夜は家の屋上で寝ていたので、星空をよく観察できた事にあると思います。

先ずは、1日ですが太陽が昇り、沈み、また昇るのが基本の単位であります。 夜空で最も大きな星は月であり、満月になったり三日月になったりと、変化が大きくあるので、シュメールの人々は、月の変化で時間を知る暦(こよみ)をつくりました。 これが太陰暦です。 

新月・上弦の月・満月・下弦の月が一つのサイクルとなり、その変化の間が約7日、これが4回あるので、一ケ月は28日です。 そして、それぞれの日に守護星をつけたのが、日(太陽)、月(月)、火(火星)、水(水星)、木(木星)、金(金星)であり、この7日を一つの単位とするのが一週間で、上記のような曜日という物が考え出されました。
ーーーーーーーーーーーーーー

カペラと暦
ちょうど、古代エジプト人がシリウスと太陽が同時に昇るのを見て暦を決めていたのと同じように、メソポタミアでは、カペラを使って新年を定めていたそうです。メソポタミアの暦は、春分前後の新月を新年の始まりとする、というものですが、今から5000年前、カペラは歳差運動によって春分点とほぼ同じ、赤径0時付近にありました。

実際に春分点があったのはおうし座ですが、春分に太陽が通過しますから空で観測するのは無理。カペラは同じ経度でさらに北にありますから、日の出前、日没後すぐに観測することができたはずです。カペラの観測はとても大切だったことでしょう。

暦と天文学が結びついている、というお話のひとつです。
ーーーーーーーーーーーーーー

農作物の不作・豊作を左右する暦の存在が占星術の普及を後押ししていた
占星術の発達は、暦の成立と切り離して考えることができません。
当時の暦は「農事暦」で、大河流域に住みついて農耕文明を興した古代人にとって、種蒔きや収穫の季節を知ることが何よりも重要だったからです。

古代エジプトは太陽暦を使い、バビロニアでは太陰暦が使われていた
古代エジプトでは、初め1年を、12ヶ月、1ヶ月を30日とし、それに5日間の祭日を加えた365日の「太陽暦」を使っていました。

しかし、正確な恒星年の1年は365日と4分の1日であるため、長い間にはどうしても暦と季節にずれが生じてしまいます。
そこで、これを補うために「ソティス暦」を併用しました。すなわち、ナイル河の増水を告げるシリウス星が太陽とともに東天に出現するのを見て夏至を知り、1年の長さを決めたのです。

これに対して、バビロニアでは朔望月(さくぼうげつ)をもとにした「太陰暦」が使われていました。
朔望月とは、月の満ち欠けの1周期のことで、朔(新月)から次の朔、あるいは望(満月)から次の望までの期間を言います。
朔とは太陽と月の合(太陽と月の角度が0度)、望は太陽と月の衝(太陽と月の角度が180度)の時である。
1ヶ月の始まりを細い新月が日没の空にかかる時として、そこから日を数えて1か月の長さを決めていたのです。
ところが、太陰暦の1か月は29日または30日で、1年では354日となり、本当の1年の365日とは11日も差があります。

どうしても1年を正確に計る必要が出てきたのです。
そこで、ある特殊な星が日の出時に出現するのを見て年初とし、1年の長さを決めることにしました。
この星は、現代の研究によると、馭者座(ぎょしゃざ)の1等星カペラ、後には牡羊座のアルファ星ハマルで、春分の頃の東空に太陽に先立って姿を現し、バビロニアの年始「春分正月」を定めたといわれます。
春分点は、黄道360度のスタート地点・牡羊座に太陽が入る1年始まりの日
現代の占星術が、夏至でも冬至でもなく、ましてカレンダーの1月1日でもなく、太陽が春分点に到達する時、すなわち太陽が白羊宮(はくようきゅう・牡羊座)に入る時を1年の始まりと考えているのは、遠くバビロニアの暦法の流れを汲んでいるためです。
ーーーーーーーーーーーーーー

バビロニアの太陰暦
●遡望月
 月は約28日で地球を一周しますが、その間に地球は太陽の周りを巡っているので、 新月から次の新月までの間は平均で約29.5日となります。
●バビロニアの太陰暦
 バビロニアでは、新月から新月の期間を「月(Mounth)」として定めておりました。 遡望月が平均で約29.5日なので、1ヶ月の長さが29日や30日になりました。
 この太陰暦は純粋な太陰暦で、通常「太陰暦」と呼ばれていますものは 正確には「太陰太陽暦」のことをいいます。

 バビロニアでは当初1年は6ヶ月であったらしいのですが、後に12ヶ月となり、 四季を決める太陽暦との食い違いが生じてきました。 
ーーーーーーーーーーーーーー

●カペラとニサンの月
 日の出直前の東の空と、日没後の西の空にカペラが現れるのを観測して1年の長さを測ったといいます。
 これには2つ説があり、春分の頃のカペラの日の出直前昇天を年初とした説と、
            日没後に新月と並ぶのを年初とした説があります。

 カペラは
バビロニアの前代アッカディアでは、「ディルカンイク(光の使い)」と呼ばれ、 
バビロニアでは「ディルカン・バビリ(バビロンの護星)」と、 
ついでアッシリアでは「年の案内者」と呼ばれました。
 また年初を教える星として「マルドゥクの星」と呼ばれました。
ーーーーーーーーーーーーーー

古代シュメール人は木星が12年で天空を一周することを知り、 商品12個を一まとめにして1ダースにして整理しました。一年に13回の 新月があるのに一年を12か月にするのも、午前午後を12時間とした のも、太陽の通り道(黄道・こうどう)に16個の星座が存在するのに 12星座だけを使用するのも,古代シュメール人の風習に従ったものです。
 空の星をつなぎ人間の考えかたを整理して星の絵文字の星座を考え出 したシュメール人は約五千年前に人類初めての 絵文字を考え粘土板に記録し,後に楔形文字(くさびかたもじ) に発達しました。 シュメール人の知能の高さを表現するものとして、右図の女性 を示す絵文字と山脈を示す絵文字を合併して女奴隷という絵文字を合成したことが注目されます。その当時は 北方の山岳地帯から出稼ぎの異民族の女性がシュメール社会の奴隷になったのですが、二つの独立した意味の 絵文字を組み合わせて、新しい内容の文字を創出したことは古代シュメール人が論理的で知能の高い民族である ことを証明しています。
ーーーーーーーーーーーーーー

月も満月、新月をそれぞれ1月とカウントし、年も夏、冬それぞれ1年とカウントするのが自然だな
だとすると、べつに日本限定ではなく、世界中で、昔は2倍年暦だった可能性がある

ただ、農業の上では2倍年暦は不便だから、農業の普及とともに現年暦が普及したのかもしれない
文明は農業と共に普及するものだから、それ以前の年暦が歴史上残らなくても不思議はない
ーーーーーーーーーーーーーー

古代エジプトは太陽暦を使い、バビロニアでは太陰暦が使われていた
古代エジプトでは、初め1年を、12ヶ月、1ヶ月を30日とし、それに5日間の祭日を加えた365日の「太陽暦」を使っていました。

しかし、正確な恒星年の1年は365日と4分の1日であるため、長い間にはどうしても暦と季節にずれが生じてしまいます。
そこで、これを補うために「ソティス暦」を併用しました。すなわち、ナイル河の増水を告げるシリウス星が太陽とともに東天に出現するのを見て夏至を知り、1年の長さを決めたのです。
これに対して、バビロニアでは朔望月(さくぼうげつ)をもとにした「太陰暦」が使われていました。
朔望月とは、月の満ち欠けの1周期のことで、朔(新月)から次の朔、あるいは望(満月)から次の望までの期間を言います。
朔とは太陽と月の合(太陽と月の角度が0度)、望は太陽と月の衝(太陽と月の角度が180度)の時である。
1ヶ月の始まりを細い新月が日没の空にかかる時として、そこから日を数えて1か月の長さを決めていたのです。
ところが、太陰暦の1か月は29日または30日で、1年では354日となり、本当の1年の365日とは11日も差があります。
どうしても1年を正確に計る必要が出てきたのです。
そこで、ある特殊な星が日の出時に出現するのを見て年初とし、1年の長さを決めることにしました。
この星は、現代の研究によると、馭者座(ぎょしゃざ)の1等星カペラ、後には牡羊座のアルファ星ハマルで、春分の頃の東空に太陽に先立って姿を現し、バビロニアの年始「春分正月」を定めたといわれます。
春分点は、黄道360度のスタート地点・牡羊座に太陽が入る1年始まりの日
現代の占星術が、夏至でも冬至でもなく、ましてカレンダーの1月1日でもなく、太陽が春分点に到達する時、すなわち太陽が白羊宮(はくようきゅう・牡羊座)に入る時を1年の始まりと考えているのは、遠くバビロニアの暦法の流れを汲んでいるためです。
メソポタミアの南部、シアヌルの地に興隆した古代バビロニア帝国は、初めシュメールとアッカドとに分かれていましたが、アッシリアとの抗争を経た後、前2000年紀にハンムラビ王によって統一されました。
バビロニア帝国は前7世紀、ネブカドネザル王朝の時に栄華の最高潮に達し、前539年にペルシアのクセルクセス王によって征服されるまで、およそ2000年の興亡の歴史をたどりました。
バビロニア帝国で天文観測に従事していたのは、カルデア人と呼ばれる哲学者の集団でした。
カルデア人は明らかにバビロニア人とは別種の民族で、その系統はバビロニア人よりも古く、その知的水準はバビロニア人よりも高かったようです。
彼らは「神聖科学の管理人」と呼ばれ、占星術や天文観測技術だけでなく、医学・薬学・数学・言語学・建築学などの知識の所有者として、バビロニアの知識階級、あるいは聖職者階級を形成していたのです。
天文学と数学が高い知的価値を有するのはインドもバビロニアも一緒だった
カルデア人が擁していた諸科学のうち、特に価値を認め得るのは、天文学と数学です。
ギリシアの哲学者シンプリキオスによると、カルデア人はアレクサンドロスの時代に、1903年に渡る天体の観測記録を残していたと述べています。
カルデア人は月の1日の平均運動速度を13分10度35秒と定め、また朔望月が29日12時間44分毎に起こることをすでに算出していました。
また、恒星の年周運動を観測して春分点を知り、1年の長さが365日6時間11分であることを確認しています。
太陽や月や惑星が、常に天の一定の軌道を通ることに注目して、太陽の通り道である「黄道」(こうどう)を考え出し、「黄道12宮」を設定したことも、カルデア人の偉大な功績です。
ーーーーーーーーーーーーーー

  世界最初の暦は、紀元前3500年前後のメソポタミア文明で、シュメール人によって作成された。
 この暦では、冬至から太陽は次第に高くなり、日が長くなっていくことから、冬至が 1 年の初めとされた。

 北方の古代中国でも、冬至が正月とされていたが、漢の時代に立春正月へと移り、太陰太陽暦のため、立春と合致することなく 正月の日付が移動することになった。

 緯度の高いヨーロッパでも、冬至正月(ケルトの冬至祭)であったが、太陰太陽暦のため、移動し冬至祭がクリスマスの原型となった。
 春分祭はイースターの原型となった。

  メソポタミア文明の、ウル第三王朝(紀元前21世紀)が定めたウンマ暦を起源とする太陰太陽暦、バビロニア暦は春分の頃の新月の直後を元日として、春分を予測するため恒星 カペラの動きを観察していた。

 古代ローマにおいては、農耕の神を祀り、闇を追い払う冬至祭りが行われた。紀元前153年に「ヌマ暦の改革」が行われて、
 12ヶ月の順序が現在のものになった。しかし 1 月年初が定着したのは、シーザーのユリウス暦からであった。
 シーザーは、平年を1年365日とし、4年に1回、1年366日の閏年を設けた。また、奇数月を31日とし、偶数月を30日とした。
 2月は29日と定めた。これが現在の暦の原型となった。

 インドは広大で、伝統的な暦には太陽暦も太陰太陽暦もある。タミル・ナードゥ州では月のサイクルを重視し、新年は春に始まる。
 ケララ州などでは、太陽周期が重視されており、新年は秋に始まる。
 インドの仏教徒のコミュニティは、ヴェーダ暦、後にヴィクラマ暦を採用した。ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の暦は、
 ヒンドゥー暦システムの太陰太陽暦に基づいている。カンボジア、ラオス、ミャンマー、スリランカ、タイの仏暦と伝統的な太陰太陽暦も、
 古いバージョンのヒンドゥー暦に基づいている。
ーーーーーーーーーーーーーー

太陽年と恒星年の差
春分の日を1年の始めとするということは、「1太陽年を採用する」ということです。一方、フンガ星の旦出を1年の始めとするということは、「1恒星年を採用する」ことになります。〈 第1回 暦の始まり 〉で述べたように、両者の差は1年でたった 0.0142日です。

読者の皆さんもここで計算してみてください。初めてのものごとを理解するにはまず大雑把に捉えることと、手を動かして計算してみることが大切です。大雑把に1年を360日とみなすと、「1日=1度」となります。つまり、太陽は黄道を1年かけて一周します。したがって1日に約1度移動します。ですから、1年で 0.0142日の遅れは、

0.0142度 = 0.0142×60分角 = 0.852分角
= 0.852×60 秒角 = 51秒角

の遅れとなります。分度器を見てもらうと分かりますが、1度はほんの小さな角度で、51秒角はその1度の 60分の 1 よりもさらに小さいのです。古代の天文学者は、このような微小な差を識別できたのでしょうか? 1年で 0.0142日遅れるということは、

1 ÷ 0.0142 = 70.4

ですから、70年で1日の遅れです。このようなわずかな差はとても一人の観測者が発見できるものではありません。紀元前2000年頃の春分の日(年始)は、フンガ星の旦出の9日後でした。紀元前600年頃の新バビロニア王朝時代には、春分の日は9日ほど先行して、フンガ星はもはや春分の日の前触ではありませんでした。フンガ星はおひつじ座のα星で、「おひつじ座」は、星占いの最初の星座です。シュメール時代にすでにおひつじ座は春を告げる最も大切な星座となっていたのです。

閏月の挿入による補正
古バビロニア時代の粘土板に、ハンムラビ王の詔みことのりとして次のような記載があります。「1年は場所から離れている。来月にエルルIIの名を書きとめさせよ。」エルルは月の名で、「春分の日が離れて来たから、来月に“第2のエルル月”を追加せよ」という命令です。ハンムラビ王の時代はこのように王の布告によって閏月が挿入されていました。

ハンムラビ王の少し前のウル第3王朝のときに、8年間に3回閏月を挿入するという「八年三閏じゅんの法」による暦が作られていました。

年の初めは「フンガ星の旦出の日の後の最初の月」と決め、「月の初めは新月」と定めると、暦は自動的に決まります。夕方西の空に現れる細い月を観測することによって新月が決まります。一朔望月は 29.53日と整数ではないので、新月の細さは毎回微妙に違いますが、29日か30日ごとに新月となります。長く観測を続けることによって29日と30日を交互に繰り返せばよいことが分かります。また、この新月はフンガ星の旦出(春分の日)の後 29.53日以内に起こります。もしこれを越えるようになったら閏月を挿入すればよいのです。このように定めると、暦は観測によらなくても自動的に定まります。何百年も繰り返すうちに暦は観測によらなくても自動的に定まるようになります。千年以上これを繰り返せば「八年三閏じゅんの法」よりもさらに正確な、19年に7回閏月を挿入するという「十九年七閏じゅんの法」が自然に得られたのではないかと思われます。

ーーーーーーーーーーーーーー

旧暦と立春
立春は旧暦1月1日だという勘違いがあるが、ほとんどの場合は正しくない。旧暦1日は必ず朔(新月)だが、立春は朔に関係なく定められるため、多くの年は1日にならない。

ただし約30年に1度、立春が朔と重なり、旧暦1月1日になる年がある(朔旦立春)。近年は1954年・1992年がそうで、次は2038年と予測される。

旧暦(中国・日本の太陰太陽暦)では元日が立春前後に置かれる。それは立春のころを年初にし、春の始まりと年の始まりを一致させるためである。これを夏正(かせい)という。古代中国夏王朝の正月という意である。平気法ではそのために、立春の次の雨水を含む月を正月(1月)とする。定気法での月名の定義はやや複雑だが、結果はやはり、雨水を含む月が正月となる。

節切りにあっては立春が年初となる。四柱推命や風水などの占いでは、節分までは前年に属し、立春をもって年が改まるとしているものが多い。節分の豆撒きは立春を年初として、新しい年の幸運を願っての昔からの習慣である。

二十四節気の「立春」は、『暦便覧』では「春の気立つを以って也」とされるが、時候的な解説では、「大寒から立春までは一年のうちで最も寒い季節であり、立春を過ぎると少しずつ寒さが緩み始め、春の気配が忍び入ってくる」とされるのが一般的である。ただ注意が必要なのは、このような気象的事象のゆえに「立春」が定められたのではなく、冬至から春分への中間点として、暦法上の要請から定められたものだということである。
ーーーーーーーーーーーーーー

暦について/暦の発見(太陰暦から太陰太陽暦へ)
  
 太陰太陽暦を考える前に簡単に暦の成り立ちを考えてみたいと思います。現在、私たちが使っている暦法は大きく分けて三つあります。一つが人類最古の暦法といわれる太陰暦。二つ目が太陰暦に太陽の運行を加味した太陰太陽暦、そして三つ目が現在私たちが供している太陽暦です。
 では、私たち人類は暦という概念をどのようにして持つに至ったのでしょうか。
 道具が発明され、言葉を使い文字を作り出した人類は、やがて農業などを行うようになり、人と人のコミュニケーションや集団生活を行うようになると、いくつかの約束事が必要になってきます。その一つに日を数える必要も生まれたと考えられます。まず、太陽が昇り朝を迎え、日が沈み夜となる。そしてまた日が昇り朝を迎える。この規則的な繰り返しを通して、古代の人類は一日という概念を得たと思われます。

 暦の語源が「日読み(かよみ)」からきているといわれるのも頷けます。また、カレンダー(Calendar)の語源といわれるラテン語のカレンダエ(Kalendae)は「宣言する」とか「叫ぶ」という意味で、古代ローマでは太陽暦が採用されるまで、新月が出ると「月が出た!」と知らせていたところから、いわゆる「最初の日(朔日)」という意味を持つようになり、今のカレンダーにつながったようです。
 また、英語の月<moon>や一ヵ月<month>の語源はラテン語の「暦の月<メンシス=mensis>」からきているし、英語の測る<measure>も、月経も、すべてラテン語の「測る」を語源としています。つまり「月」とは、測るものの基準であったことがうかがわれます。因みに英語の時をあらわす time と、潮汐をあらわす tide も同じ語源だそうで、月や潮汐が時を測るのに広く用いられていたことがわかります。

■太陰暦
 純粋な太陰暦とは、人類にとって太陽と共にもっとも身近な月の運行、つまり月の満ち欠け(朔望)をもとにした暦です。新月を朔日(一日)とし、満月を経て次の新月にいたる月の朔望の周期は約29.53日ですので(半端な1日はありませんから)、ひと月は29日と30日で成り立っています。身近な存在である月の満ち欠けの周期は、日を数えるには格好の素材であったに違いありません。新月から次の新月までの周期、いわゆる朔望月を通し、1カ月という区切りを編み出したのでしょう。ということで人類が最初にもった暦の概念は月の運行をもとにした純粋な太陰暦でした。
 しかし、月の満ち欠けの周期は太陽の動きとは関係がないため、12回朔望月を繰り返しても約354日しかならず、1太陽年に対して約11日足りません。このため、太陰暦では3年で一カ月強、十数年たつと春が秋となり、夏が冬になってしまいます。この純粋な太陰暦はイスラム暦など一部の地域で現在でも使用されています。
■太陰太陽暦
 太陰太陽暦とは、月の運行(太陰暦)と太陽の運行(太陽暦)の周期を組み合わせ季節が大きくズレないように工夫された暦で、古くはもっとも広範囲に使われていた暦です。
 特に農耕民族にとって、季節は種を蒔いたり収穫する上でも重要で、暑さ寒さの予測、その繰り返し、陽の照射角度の変化、天候の変化などの規則性から、太陽との関連性で1年が365日強という概念に気づきます。しかし、太陰暦でいうところの朔望月を12回繰り返すだけでは約354日にしかならず、太陽の1年とは約11日の開きがあります。そのまま放置すれば、3年で約1カ月、十数年たてば冬が夏になり、春が秋になり月だけの観測で編み出された太陰暦では季節が特定できなくなることも知ります。
 こうして、月と太陽を観察することによって暦は進化を遂げ、太陽との季節のズレを修正するため、3年に一度、正確には19年に7度(メトン法、中国では章法)ある月の後に1ヵ月、閏月として加え、その年は13ヵ月とし暦と季節が大きくずれることを防いでいます。これが太陰太陽暦です。古代バビロニアやユダヤ、古代ギリシャ、古代中国でほぼ同じころに生まれたといわれています。しかし、それでも太陰太陽暦の1年は354日から384日と変動し、季節感は毎年11日から30日近く変動します。
 いずれにしても太陰太陽暦とあるように、月の運行(月の満ち欠け)をもとにしつつ太陽の運行を加味した暦ということができます。
 こうして人類は、月と太陽を代表とする天体の観察をとおして、1日を太陽の動きから、1カ月は月の満ち欠けから、そして1年は太陽の動きから導きだし、暦の概念ができあがったのです。しかし、この後、暦は大きく分けて二つの流れを生み出しました。それが太陽暦と太陰太陽暦でした。

イギリスのソールズベリー草原のストーンヘンジ
古代の天文台ともいわれ月や太陽の運行を正確に観測できたという。

■太陽暦の発見と改暦
●古代エジプト暦(ナイル川の氾濫と季節の予測)
 太陽暦は、古代エジプト(紀元前2900年頃)で生まれました。正確には太陽ではなくシリウスという恒星を観察したようですが。この古代エジプト暦は太陽の1年365日を30日一カ月として12ヵ月(太陰太陽暦の一カ月が29日か30日で成り立っていたので)、余った5日を13月とした変則13ヵ月の太陽暦でした。太陽暦には基本的には一カ月の概念がありませんから一カ月を30日としたのは当然月の満ち欠けから生まれた概念をそのまま太陽暦に応用したのです。この暦はかなり正確に太陽を観察していたようで、すでに一太陽年は365.25日と認識していて、4年に一度閏日を置き、その年の13月目は6日としていました。
 なぜ、エジプトで最古の太陽暦が生まれたのでしょうか。
 元来エジプトの気候は乾燥した亜熱帯気候で、四季というより二季で、太陰暦の弱点である季節感をそれほど必要としない国でした。エジプト、とりわけナイル川デルタ地域では年間を通して降水量は非常に少ない地域でしたが、ナイル川の上流域エチオピアは熱帯モンスーン気候で、6月頃から雨季に入り、これによってナイル川下流のデルタ地域は7月中旬頃決まって洪水に見舞われました。そのため、正確に季節を予測する必要に迫られていたのです。もちろん太陰太陽暦は太陽の運行を加味した暦なのである程度季節を予測することもできますが、太陽暦に比べればいささか複雑すぎました。
 話はそれますが、この氾濫によって、上流地域から肥沃な土が運ばれ、デルタ地域ではその堆積物の蓄積によって農業に適した土地ができあがったのです。さらには、氾濫が治まると農地を元通りに配分するため、測量学と幾何学が発達したとも。
 しかし、1970年、ナイル川の上流にアスワン・ハイ・ダムが完成し、ナイル川の氾濫は調整され、デルタ地域では通年耕作が可能になりましたが、肥沃な堆積物は減り、ダムによって生ずる土砂に悩まされることにもなりました。人類の叡智は多くの繁栄をもたらしたことも事実ですがそれによって生じる負の遺産も受けざるを得ないのです。
●ユリウス暦
 この暦法に目をつけたのがご存知ジュリアス・シーザーでした。紀元前46年頃、古代エジプト暦をもとにユリウス暦を制定しました(ユリウス暦とはジュリアス・シーザーのローマ読み=ユリウス・カエサルからきている)。この時、古代エジプト暦にあった余分な13月の5日分を他の月に振り分け1年を12ヵ月としました。ユリウス暦の一太陽年も365.25日で、4年に一度閏年を入れていましたが、その入れ方を間違えていたといわれ、アウグストゥス・オクタビアヌスは紀元前6年ころ修正を加えています。暦制定に当たってシーザーは誕生月でもある7月をjulyとシーザーの名を残し、アウグストゥスも改暦に当たって、アクティウムの戦いの勝利にちなんで8月にaugustと名前をつけ、今日に至っています。
 ユリウス暦はキリスト教と一体となりヨーロッパ各地、地中海沿岸の地域に広まり、キリスト教徒の手によって週(7曜)の制度も導入されました。
 因みにユリウス暦以前の古代ローマ暦の新年は3月から始まり、2月が1年の終わりの月だったため、カエサルが新しい暦を制定したときに、平年とうるう年の日数の調整に使われることになりました。当時平年の2月は29日でしたが、閏年のための1日は、29日のあとに30日として加えられたのでが、皇帝アウグストゥスは自分の名前をつけた8月(August)を1日増やすために、2月の日数を1日削ってしまいました。
 それ以外にも、1年が3月から始まっていたころの名残りがあります。9月から12月は英語でSeptember、October、November、Decemberといいますが、これはラテン語の数字である7(septem)、8(octo<ご存知音楽でいうオクターブは8度音程を表しています>)、9(novem)、10(decem)からきています。September、October、November、Decemberがそれぞれ7、8、9、10番目の月であったときの呼び名がそのまま残っているのです。
●世界標準暦――グレゴリオ暦
 いずれにしてもこのユリウス暦は、欧米を中心に広く用いられていましたが、一太陽年を365.25日として、4年に一度閏年をおいていましたが、実際の太陽年はそれより少し短く、約365.2422日のため、16世紀ころには10日ほど狂いが生じてしまいました。このため、欧米諸国でもっとも大切な復活祭(春分の日の後の満月の次の日曜日)を算出するのに不便が生じ、1582年、ローマ法王グレゴリオス13世によって改暦されました。グレゴリオ暦は、4年に一度ある閏年を100で割り切れかつ400で割り切れない年は調整年として、閏日を置かないというものです。もっともこのグレゴリオ暦への改暦は宗教的要因が強かったため、世界標準暦になるにはいささか期間を必要としました。ベルギーやオランダ、ドイツなどのカトリック系では比較的速くグレゴリオ暦に移行しましたが、イギリスやアメリカは18世紀半ばであったし、ロシアやギリシャにいたっては20世紀に入ってからのことでした。

ーーーーーーーーーーーーーー

北條教授は「高度が高い冬の満月」を神聖な存在としてあがめ、これを道しるべに、当時の人たちが稲作や祭りの時期を把握しようとしたのではないかと考えています。
北條教授
「稲作を行う際には暦が不可欠です。春分を過ぎてから、夏至、そして秋分になるまでの間はこまやかな手入れを水田に行っていく必要があり、どういうタイミングでどんな作業をするかを知ることが絶対に必要だからです。弥生時代のように『無文字社会』であっても高度な時間の管理が可能なようにする工夫が、吉野ヶ里遺跡では認められるのかなと考えています。当時の中国側の暦の計算法を基本にしてまねをしていた可能性も非常に高いので、具体的にはどうなんだろうかというところが今後の研究課題になります」
CGを使って“遺跡×天体”
北條教授は、遺跡調査の中に天文学を取り入れ新たな研究領域を切り開いてきました。遺跡と天体をつなぎ合わせたのがCGを使った新たな調査の手法です。
これは、4000年前の星空までさかのぼることができるシミュレーターの画像です。その眼下に、吉野ヶ里遺跡が広がっています。

遺跡と当時の空を組み合わせることで、弥生時代の人たちに見えていた景色を再現することが可能になりました。

CGの作成にはドローンが使われ、空と陸から得られたデータによって、方角や位置情報が精密に再現されました。

北條教授と共同で研究を進めてきた国立天文台の関口和寛教授は、天文学を取り入れることで、造られた構造物の一つ一つの意味が、解明できるかもしれないと考えています。
国立天文台 関口和寛教授
関口教授
「わざわざ大きな構造物を造る時やその方向を定める時には、身近な存在であった天体に影響されていたのではないかと考えています。そこから、古代の人がどのように考えていたかというのにつなげるには、実際に現地で計測することによって同じ眺めを体験できるよう、再現してみることが重要です」
海外の遺跡でも進む 天体との組み合わせ
こうした天体と遺跡を組み合わせた研究は海外でも、盛んに行われてきました。
「月のピラミッド」と「太陽のピラミッド」(メキシコ)
メキシコを代表する古代遺跡テオティワカンの「月のピラミッド」と「太陽のピラミッド」。

その名のとおり、月や太陽の軌道にあわせて巨大な建物や道路が造られたとされ、天体が文明に与えた影響について研究が進められてきました。
「ジッグラト」遺跡(イラク)
また、イラクの古代都市ウルの「ジッグラト」は、世界最古の文明の1つ、メソポタミア文明が栄えた地域にある、ピラミッドのような構造物です。

当時の「くさび形文字」には、月などの天体の運行に影響されたとみられる記述が残っていたことが分かっています。
関口教授
「世界的に見ても、天体と遺跡の関係でよく言及されるのは中南米の遺跡のピラミッドとかヨーロッパではイギリスのストーンヘンジなどがあります。過去にさかのぼって空の景観と合わせて見てみると、影響を受けているのは月なのか太陽なのか、もしくはほかの天体なのか。何を考えて配置されたものかといったことをいろいろ試してみては検証できます。広い視点を持って、昔の人は遺跡をどのように捉えていたかというのを理解するのにシミュレーションを活用するのが非常によいと思います」
はるか昔の星空を追って
取材の終わりに私は、弥生時代の吉野ヶ里遺跡の上空を再現したプラネタリウムが上映されるというので、観てきました。

ドームの中では、遺跡の北内郭から見えたであろう空が投影されていました。
じっと眺めていると、先人たちが暦につながる規則性を求め、懸命に夜空を見ていたのはしごく自然なことだったのではないかという気がしてきました。

“遺跡×天体”の研究は、吉野ヶ里遺跡以外でも進められています。

北條教授は、弥生時代よりもさらに古い縄文時代の、青森県・三内丸山遺跡でも、遺跡と天体の関係を調べてきました。
東海大学 北條芳隆教授
北條教授
「吉野ヶ里遺跡ではかなり細かなことがわかってきたのですが、日本列島にある同じ時代の似たような多様な性格の遺跡はどうなのか。調査や分析は、まだまだ、これからになりますね」
街の明かりがなかった弥生時代には、美しい夜空が広がっていたはずです。

古代の人たちは、はるか遠くに浮かぶ天体から何を読み取ろうとしていたのか。見えてきた謎から目が離せません。
佐賀放送局記者
藤岡信介
2008年入局
青森局や科学文化部を経て2022年8月から現所属
佐賀平野の地平線と満月の組み合わせが好きです

ーーーーーーーーーーーーーー


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「旅行」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事