と、声をはげましていった。この言葉が、小一郎の顔をむざんなほどに濡らした。涙が、とめどなく流れた。小一郎にすれば、秀吉のそのひとことで、自分の生涯が意味づけられたとおもったのであろう。
「―あの日、兄者は」
と聞きとれぬほどの声でいった。秀吉はそれを聞くために、唇もとへ耳を寄せてやった。
「縄……縄のあぶみで、参られましたな」
なにをいっているのか、と秀吉は理解しかねたが、とにかくも、そうだ、といってやった。その意味がどうやら三十年のむかし、秀吉が清州から故郷の中村にはじめて錦をかざってもどったときのことを小一郎はいっている、そうらしいということに秀吉が気づいたのは、その翌月二十二日、小一郎が死んでからのことであった。あの日、小一郎の脳裏には、ふるさとのその日の真青な天がありありと映っていたのであろう。
(略)
葬儀はそれから六日後、郡山城でおこなわれた。公卿や諸大名がおびただしくあつまり、死をきいてむらがりあつまってきた庶人の人数だけで二十万人といわれた。参列した諸大名のたれもが、この大納言の死で、豊臣家にさしつづけてきた陽ざしが、急にひえびえとしはじめたようにおもった。事実、この日から九年後、関ヶ原の前夜にこの家中が分裂したとき、大阪城の古い者たちは、
-かの卿が生きておわせば。
と、ほとんど繰りごとのようにささやきあった。
司馬遼太郎「豊臣家の人々」より
交通:近鉄橿原線「近鉄郡山」から徒歩10分
管理人メモ: 豊臣秀吉の弟、豊臣秀長の一節からの抜粋でした。
数少ない秀吉の縁者であり、心強い存在でした。