菅井滋円 作品集

絵を始めて半世紀以上の歳月が流れた 絵に向かう時何時も満たされないモノがある その場がここになりつつある。

作品 9

2016年07月22日 | 菅井滋円 作品集
作品 9
平面の中を支配する形象は何時も孤形である。
わたしの愛する詩人達  阮籍 陶淵明 李白 高啓これらの人々も亦 詩は孤高を貫いていた。

展覧会に出さず 独りで描いているわたくしを友人 知人たちは 不思議にさえ思えたのであろう そして親切に○○会に出しては・・・と教えてくれた。
絵の出来 不出来よって褒美を与えて その出来栄えを他人が決めるモノだろうか・・・?
絵は自ら決めるものだ と思うのだが・・・?

わたくしは朝食に雑穀の潰したモノを牛乳に入れ煮る さらに蜂蜜を入れ朝食とする。
そして形象の孤独を描く。
20年という病と孤独の中で描き続けたが それも もう少しで 終わりの幕を下りることになった。

高啓の詩を掲げて自らが設けた このコーナーを閉ざすことにした。
永きにわたりありがとうございました。


  水を渡り 復(また)水を渡る

  花を看 還た花を看る

  春風江上の路

  覚えず 君が家に到る


       尋隠胡君  高啓  明


   





作品 6

2016年07月08日 | 菅井滋円 作品集

作品 6
柏野は北区であり 紙屋川沿いの東側になる 洛中洛外では土塁の内になるから 洛中の北西の端になる。   秀吉が紙屋川の堤に土塁を築き 京都の護りに備えた。
北大路公園で写生をしていると 話しかけた老人がこんなことを話していた 北大路の橋より高さは現在よりさらに10m上であったわたしの描いている大樹はその近くにあった と語って杖の先で2~3本残された欅を示した。
千本通りは今出川から北では 東は問屋の家があり 西は機織り職人の街であった また東西の通りである 寺の内通りを中心に 細い道はさらに枝別れし 何本かの路地がある 小さい家から織機のケタタマシイ音を発していた アトリエの向いのFさんも織屋で オバサンが織機を織っていた 織機の音は単調で長く 絵を描いていても気にならいときは 順調に描けているが 絵の調子が良くないときは 如何にも暑苦しい そのオバサンのもいまは故人となられた 他の路地の住人もいまは何処へ 閑静な隠者の棲みかとなった。

ここは長閑な一面もあった  いまは想像もできないが この近辺は七野と云って「野」のつく地名が七つある 内野 北野 平野 上野 連台野 紫野 〆野の七がそれである  「野」は畑もあり 大方は藪であったと思はれる 草花が咲き この辺り一円は叢であったのだろう。

アトリエの少し北に鞍馬口通り 蓮台寺で僧侶の話しでは 鞍馬口に門があったと話してられた 平安京の人々は 連台野辺りで死者を弔ったのだろう。

宮本武蔵が吉岡憲法の左手を奪った また源頼光が土蜘蛛を退治したところも この連台野の近辺と聞く 町外れは さまざまなことが起こるところである。

わたしはアトリエヘバイクで通いっていた 七野のほぼ真ん中にある 散歩は連台野 紫野 清少納言の天下第一と誉め称えたと云う船岡山へはよく登った。

花園の持つリリシズムはここにはなく エブリ―と云う喫茶店へは毎日コーヒーを呑み それからアトリエに入る 客は勿論西陣のオバチャンばかりで この蜘蛛の巣のように出来た街は フランスのリヨンに倣ったとのことである 細路が多いのもそのせいだと云うことである。
この先の細かい路は抜けられるかな・・・と進んでゆくと突き当たりと 思っていると 思いもよらぬ方向へ路は抜けられる 迷路のようである  ときにはその細い道は人間臭い その街をよく彷徨い歩いた。

まだまだ西陣には元気が残っていた 力織機の音はガンガン鳴っていた。 春夏秋冬絵が上手く行っているときには応援歌のように聞こえるが 何時も調子がよいわけではない 鬱陶しくもあった。

西陣の人は声が大きい 織機の間では大声になるのである  ソコソコの年配の方で声の大きい人が多い  ここでも銭湯によく行ったが 銭湯はその後何軒も無くなった 時の変化はこの町でも例外ではない 西陣とて同じであった。

この度はライフワークにして描き続けた 樹木を見て頂こう。



   


   



作品 5

2016年07月01日 | 菅井滋円 作品集
作品 5
花園のアパートの押し入れに詰め込んでいた作品と 義母の家 また自宅にも 併せて絵の山を築いていたが 友人が自慢げに話していたが 自らの描いた絵を大型ゴミと呼んで処分したと 大型ゴミと自身で名付けながら 絵を描くのは あまりにも無神経に思えるのだが どうだろう・・・?自身の評価は時間と他人に任せる事柄だとおもうのだが・・・
また私ども後輩に
「日本の宝を造っている心算で描いている」
なぞと云う先輩もいたが まさか酔っ払いもせずに そのような反り返って語るのは・・・傲慢であり肩が凝る。

自分の出来ることは  絵は自己陶酔をし易い 当然マズイ絵も出来る その絵を明くる日見ると ウンザリする 見るに堪えず また描き改め加筆する ただ他人に媚びてはイケナイ とはいつも思っていた。

この度は柏野へ屋遷りをした経緯を語ろう。
「四十不惑」と云う言葉があるが わたしはそれ位の年齢に達していた 義母の残した柏野の家をアトリエに改装した。  それは この平屋は女房に兄弟はない どうすることもできない絵の山を 兎に角当座のでも絵を描き収納できる と云う目的であったが そうは簡単に行かない 未完成のもの これらをどうかするか・・?   修正出来ない絵は止むを得ず破棄した。

その家はまことに落語に出て来そうな八軒の長屋で 路地奥にあり その昔は織機を置き 極めて少人数の人が仕事と生活をしたところであった。
ささやかな路地の一番奥にあり 幸い家の前を行き交う人は無い その長屋もいまでは三軒となった。
「大隠は路地に住む・・」か!
ただ竟の棲みかの心算であったが そのまま今日至ったが ここが住めば都となった。   ここは登記簿によれば 明治5年に建てられたものと記録があるが おそらく江戸の頃は藪か原っぱであったであろうと想像する。
知り合いの大工さんにお願いして ささやかなアトリエとなった 大きさは15畳よりやや狭い 絵を置くため頑丈な収納できるようにしてもらった だから絵を描く場所は結局六畳くらいの大きさである 明治5年は多分屋根裏の梁などにあるのだろう。

花園で描き次いできた裸婦が数枚あった 屋遷りのときに何枚かは反故にしたが その中の一枚は 叢の間に眠る女 遠くで遠雷が轟いている と云う背後を描き込んだのが「遠雷」である。
花園から柏野へ持ちこしたものでこれを柏野で完成した。

 遥かなるもの みな青し
 海の青 はた空の青
           (草野新平)

という詩のフレーズとなった。