菅井滋円 作品集

絵を始めて半世紀以上の歳月が流れた 絵に向かう時何時も満たされないモノがある その場がここになりつつある。

作品 5

2016年07月01日 | 菅井滋円 作品集
作品 5
花園のアパートの押し入れに詰め込んでいた作品と 義母の家 また自宅にも 併せて絵の山を築いていたが 友人が自慢げに話していたが 自らの描いた絵を大型ゴミと呼んで処分したと 大型ゴミと自身で名付けながら 絵を描くのは あまりにも無神経に思えるのだが どうだろう・・・?自身の評価は時間と他人に任せる事柄だとおもうのだが・・・
また私ども後輩に
「日本の宝を造っている心算で描いている」
なぞと云う先輩もいたが まさか酔っ払いもせずに そのような反り返って語るのは・・・傲慢であり肩が凝る。

自分の出来ることは  絵は自己陶酔をし易い 当然マズイ絵も出来る その絵を明くる日見ると ウンザリする 見るに堪えず また描き改め加筆する ただ他人に媚びてはイケナイ とはいつも思っていた。

この度は柏野へ屋遷りをした経緯を語ろう。
「四十不惑」と云う言葉があるが わたしはそれ位の年齢に達していた 義母の残した柏野の家をアトリエに改装した。  それは この平屋は女房に兄弟はない どうすることもできない絵の山を 兎に角当座のでも絵を描き収納できる と云う目的であったが そうは簡単に行かない 未完成のもの これらをどうかするか・・?   修正出来ない絵は止むを得ず破棄した。

その家はまことに落語に出て来そうな八軒の長屋で 路地奥にあり その昔は織機を置き 極めて少人数の人が仕事と生活をしたところであった。
ささやかな路地の一番奥にあり 幸い家の前を行き交う人は無い その長屋もいまでは三軒となった。
「大隠は路地に住む・・」か!
ただ竟の棲みかの心算であったが そのまま今日至ったが ここが住めば都となった。   ここは登記簿によれば 明治5年に建てられたものと記録があるが おそらく江戸の頃は藪か原っぱであったであろうと想像する。
知り合いの大工さんにお願いして ささやかなアトリエとなった 大きさは15畳よりやや狭い 絵を置くため頑丈な収納できるようにしてもらった だから絵を描く場所は結局六畳くらいの大きさである 明治5年は多分屋根裏の梁などにあるのだろう。

花園で描き次いできた裸婦が数枚あった 屋遷りのときに何枚かは反故にしたが その中の一枚は 叢の間に眠る女 遠くで遠雷が轟いている と云う背後を描き込んだのが「遠雷」である。
花園から柏野へ持ちこしたものでこれを柏野で完成した。

 遥かなるもの みな青し
 海の青 はた空の青
           (草野新平)

という詩のフレーズとなった。