菅井滋円 作品集

絵を始めて半世紀以上の歳月が流れた 絵に向かう時何時も満たされないモノがある その場がここになりつつある。

公孫樹

2015年06月26日 | 菅井滋円 作品集
公孫樹

テセウスの船とは ギリシャの話しであり その話しを種に ギリシャの哲学者たちが 論議したらしい。
話しによると クレタ島から帰還した若者と船を アテネの人々は歓迎し その船を記念に保存した トキの経過は少しずつ木材を朽ちさせて行った。
傷んだ部分を新しい木で補修した 補修に補修を重ねその部分は 船のすべてとなり もとの木材がなくなってしまった もとの木材を失った船は テセウスの船と呼べるだろうか?・・・そのことが論議の的となり それを論点として 哲学者たちは話題を展開した それには恰好な問題であったのであろう。

テセウスの船ではあるまいが ここ十年ほど掛かって 描き続けている 20号の公孫樹の絵だが(この様な絵が何枚かあるのだが・・・) 何度かもう出来上がった と思った そして筆を置いたことがある。
だが2・3日すると嫌になる そして根気よく筆を加え続けて来た その都度描き切れたと思って その日は終えるのだが・・・しかし翌日見ると失望する 困った 困った・・部分に部分の描き込んで行くのだが 描き始めた頃のイマジネーションから離れてしまった。   丁度テセウスの船のように・・ 描きだした精神は何処へいったのか?・・・そしてとうとうこれ以上描けないと 絵が叫びだし 絵は裏返ったまま 壁際に長く置かれてしまった。

4月・5月と入退院が重なり 絵を描く心情にはなれなかった。  入院の間いろいろな本を読んだ 若い日読み残した本を十余冊 読書は病床のわたしを 何よりも慰めてくれた。

帰宅後 壁際の絵と再会した 安穏な筆さばきに 自ら腹が立った スクラッパーと云う用具がある 丁度餃子に用いるコテのようなものだが わたしは何本かのスクラッパーを 持っているが それを用いて剥がしてみたが スクラッパーは上滑りして先が利かない 掻き落そうとしたがツルリと滑り駄目だった 画材屋で売っている用具は 格好はよいが非力なのであった。

長年飼っている瓶のメダカに 餌を与へているとき たまたま居たのが 向かいの住人のKさんであった 何かよい工具が あるのではなかろうか?・・・と尋ねてみた すると工具箱を見せて呉れた その中には スクラッパーの様な工具が沢山あり その中の1本を拝借した。

この拝借した工具で 画面の上(うえ)の層の絵の具を削ぎ落した 荒い画面が無愛想に削り出された  Kさんの工具は流石に大工さんの持ち物――ウーン!と日本の工人の高さを感じさせて呉れた。

それは凝固した油と 絵の具をカリカリとこそぎ落し ボロ布で空拭きから ペトロールで拭き落す そうした作業をした 翌日からコロ―の絵から学んだ グレー(ウルトラマリーンとイエローオカー白を適宜に混ぜる)を用いて描き進んだ。

250ccのバイクで 亀岡の黄葉する公孫樹を見てから 十星霜 テセウスの船を造ったトキのように 描きだした しかしもとの姿は 何処へ行ったのかと思いだしていた いまその画面はシルバー・グレイとなっている。
描いた公孫樹は 亀岡平野の中央にあり 亀岡地方は 霧の名所と謳われている  ここには国分寺があった イマもなお小さな寺はあるが そこには多くの石仏が積み上げられ 往時を偲ぶことが出来る 公孫樹はその国分寺のご神木である。

こうして 描きついでいくと 霧に覆われた公孫樹となった わたしは今度こそ筆を置くことにした。


     


              公孫樹  カンヴァス 油彩
                80.4㎝×65.4



2015年06月19日 | 菅井滋円 作品集




同級生のY君から電話があった
「日曜日11時頃に伺(い)ってもよいか?・・・」
その日曜日 彼が来ることをすっかり忘れていた 幸いその時間には家にいたのだが・・・吾輩のボケ様は かなり進行したようだ 斑(まだら)ボケだろう。
以前に彼と会ったのは 詩人の河本澄一氏が元気な頃であり それにしても・・目の前に居るヒトの腰の曲がり方には一驚した。  寂しいが笑顔だけは そのヒトに間違いないと語っていた。
わたしの前で 楽しげに微笑して 歓談しているヒトを 追い返すことは出来なかったために 多少の拘りがある昼食(菜食を中心にしたもの)は 彼が帰ってからとなり 彼が微笑を残して去った後になった だから昼食は3時半になってしまった。
文庫本を一冊貸してくれと云って持って帰ったが・・「文庫本位は自分で買えョ」と言いたいが 情けないと思いながら・・・おそらく ここが本と別れとなるだろう。

最近風邪などひいて 体調がもうひとつだったが 前に描いていたものを取り出し加筆し出した。
厚さ2センチ位の古材に描きだしていた 蝋を用いていた 所謂蝋画――種明かしをすると 熱した蝋にテレピン油を混入してポマード状にし 顔料を用い描き込み バーナーで焼く――古代の技法を工夫したものは 描き詰めて最終段階にあった。
発想の原点は中央アジアの壁画からの牛だが イマではその意図から 随分はなれ 独り歩きをし出したらしい 立派な但馬牛(たじまうし)になっていた この日サインだけを入れて結語とした。

           

牛  合板縦54.3㎝×横95.3㎝  厚さ2.3㎝
麻布貼り 石膏地 密蝋・油彩により補筆

辛夷

2015年06月12日 | 菅井滋円 作品集
辛夷

手術台の上で医師は 左手の針を抜き 右手に刺す様に促した 刺されていた1ツの針痕と もう1ツ1本針が 2ツは紫色に腫れていた 看護婦は 指示の通り残された 針を抜きながら私に話しだした 彼女の持つ注射器は わたしの右腕の奥深くへ刺し込まれていった。
グリーンの天井に 白く塗り込まれた 手術用のライトが照らされていた
「菅井さん いつもナニをしてるの?・・」
「いつもか・・そやな~ コナイダ(最近)から四国・九州へ旅行したなァ・・」
「ヨイナァ~四国の何処・・」
「四万十川の方から 九州へ・・ヤマザクラも辛夷も開いていた・・トテッテモ・・」
話しながら 南山を見たという陶淵明を思い出していた 突然口から
「こんど 行ましょうヵ?・・」
不用意に飛び出した言葉だった
「ソレ デート?・・」
まさっか・・

私は手術台の現実に返っていた。

医師とは初対面であり 作業は淀むことなく続けられていた。
この2・3ケ月 私の頭を支配していた 憂欝は小浜へ逃げ そしてこの度の四国・九州への逃避であった 逃げられる事柄ではないと よくよく知りながら・・・アホ このアホと自らを罵りながら

病院の○○室から 歩いて出てくるヒトはいないであろう と思はれる部屋へ入れられていた 与えられたのは その入り口の脇にベッドがあり 病室全体は 強い臭気を放っていた 臭気は汚物や体臭や様々なモノが ブレンドされたものであった 部屋の先住者たちは 耳が遠いのだろう やたら大きな声で喚いて 看護婦を呼び付けていた。

先月は肝臓であり ここは膀胱と重なり ウンザリしていた ただわたしに利くモノは足がシッカリしていることであり  目の前の憂欝を忘れ去ることは 旅に出ることであった ・・・逃げる場を失いイマここに至ったわけである。

手術病室から出ると 迎えの看護婦が来ていた キャスターの上で
「菅井さん こちらの部屋に換えておきました」
と 部屋に換えられていた。 ドストフスキーの「死の家の記憶」のような部屋から抜け出すことが出来た。

麻酔は夜には消えていた 部屋の看護婦が
「夕食は・・」
「要りません」
絶食の三角柱の文字はそのまま置かれていた。

3泊4日予定通り 支払いを終えて 無事 朝退院となった。
朝の9時半病院を後にした 一歩外に出ると 外人や観光客ばかり 誰も病人は歩いていない 自らに強く命じた
「もうここからは 病人でない サラバ!」
キャスターを引きながら 京都駅のバス・ターミナルへ行った。
たまたま来たバスは 急行であり ウマク 座席を占めることが出来た 急行はいくらかの停留所を省き白梅町に至る 下車した  フレスコで買い物をし 4日前に閉じた自宅を開けた。

この度で膀胱では38回目か・・・








         九州国立博物館


JIEN'S BLOG 再開について

2015年06月05日 | 菅井滋円 作品集
JIEN’S BLOGの再開

何処まで続くかは まことに心もとのない話しだが 
JIEN’S BLOGは再開をするコトにした。
はじめに この春開かれた 師匠の薄田芳彦先生の紹介から始めることとしよう。

薄田芳彦遺作展
さる3月24日~29日京都府文化芸術会館において 薄田芳彦遺作展が開かれた。

薄田芳彦先生は私の師匠でもあり 孤高と俗塵を払う画業に 深い尊敬を持っている ここにその足跡を紹介したい。
作品の一部を展示・紹介し 先生の画業をご高覧頂きたいと思う。

      2015年 5月
                  菅井滋円
          2015年6月5日
薄田芳彦略歴
1898年 岡山県に生る。
1920年 東京美術学校 西洋画に入学する。
1921年 二科展に入選する。
1926年 京都に定住する。
1928年 第9回帝展に「花さす娘」入選する。
1935年 京都市西京区桂にアトリエを設ける
1971年 京都府文化芸術会館に個展開催する。
1982年 享年84歳にて逝去。
1998年 岡山県立美術館に「夢見るピエロ」収蔵さる。
2015年3月24日~29日 京都府芸術文化会館
薄田芳彦遺作展 開催される。
作品は「薄田芳彦遺作展」において滝本和彦氏の写したモノを提供された その内より一部を紹介する。