Jr.に別れを告げたその日の夜。俺はまだベルリンの街に居た。
他の用事などある筈もない。
だが、すぐに戻ったところで、電話の前で悶々と立ったり座ったりを繰り返す。そんな、情け無い自分の姿をつい想像してしまい、帰るに帰れなくなったのだ。
適当に宿を取り、小さすぎるベッドに腰掛け、そのまま後ろに倒れ込む。黄ばんだ天井。部屋に染み付いた煙草の匂いに、久々に吸いたくなるが、生憎持ち合わせてはいなかった。
もしあの時、ソファでなくベッドに腰掛けていたら、全く別の展開だったのだろうか。
そんな、くだらない”たられば”が浮かんでは消える。
やはり煙草が欲しい。仕方なく体を起こし、ロビーの売店に向かった。
肺いっぱいに吸い込んだ紫煙を天井に向かって吐き出す。それを二度、三度。
久しぶりなせいで、軽い目眩のような感覚が頭を襲う。
だがお陰で、ようやく思考が落ち着いてきた。
遂にこちらから身を引いた。
始めは確かに頭に血がのぼっていたが、あとは勉めて冷静だったと思う。
だから、後悔は無いーーと、思う。
ーー長すぎた。ただ、それだけの事だ。
もう一本、と、箱に手を伸ばしかけるが思い直して再びベッドに身を投げた。
ーーこれでいいんだ・・・。
喪失感、なのだろうか。
だが、だったら俺は、何を失ったというのだろう。
次の日。一睡も出来ずーーと思いきやそれなりには寝て普通に目覚めた俺は、改めて帰路に着く事にした。
ホテルの支払いを済ませ外に出る。良い天気だ。車が走り、人々がそれぞれの目的の為に何処かに向かって歩いている。何一つ変わりばえしない朝。まあ、よっぽどの事件でも起きない限り、少々誰かが路頭に迷おうが、殺されようが、この風景は変わらない。
まして、俺がそこそこ落ち込んだ気持ちでいることなど、蟻程の意味も無いのだ。
ーーくだらねぇ・・・帰るとするか。
そう思い、しかし時間を持て余した身で急ぐ必要の全く無かった俺は、気の向くまま鉄道で帰る手段を選び、近場の駅を目指した。
確かこっちだったと、大通りから一本脇に入った。
その時だった。
明らかに自分を見ている。そんな気配を、背中に感じた。
「・・・・・・何だお前?」
「おじさんて、超人だろ。強いのか?」
流石の俺も、まさかJr.が息を切らして自分を追って来たーーなどという、三流映画ばりの展開を想像したりはしなかった。
振り返ると、そこには見知らぬ小さなガキが立っていた。
声を掛けてしまった不運。ガキは俺のすぐ手の届くところまで駆け寄って来た。
首をほぼ九十度曲げて見上げてくる緑の目だけがやたら眩しかったが、薄汚れた安物の服に、やはり薄汚れた顔と手足。取るに足らない、貧しい部類の子供だと思った。
「フン・・・。金なら恵まねぇし、迷子なら他を当たれ」
「親はいない。金じゃなくて、オレ強くなりたいんだ。おじさん絶対超人だろ。強いなら戦い方教えてよ」
「お前、俺が誰か知ってんのか?」
「知らない。でもすげぇ強そうだ。なあ、戦い方教えてよ」
「・・・」
あの最後の戦いから十数年。かつて誰もが知る超人だった俺も、最近はさほど声を掛けられる事も無くなっていた。
もちろん、馬鹿デカい体に二本の角は、今でも必ず、すれ違う人の目を惹いた。だが殆どの場合それだけの話で、ましてこんな小さな子供が俺を知った上で寄って来るなど、皆無に等しかった。
ーーガキは嫌いなんだ。全く、面倒なのに捕まっちまったもんだ・・・。
つい昨日まで、ある意味未だに子供のままな男を十年以上も気にかけ構い続けた自分。
そんな俺が、”嫌い”というだけの理由でこのガキを切り捨てようとしている。それも妙な話ではないのかと、一瞬笑ってしまいそうになるーーが、嫌いなものは仕方がない。
俺は軽く舌打ちすると、さも迷惑だと言わんばかりの表情を作りつつ、ガキの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「いいか、ガキ」
「ガキじゃない。ちゃんとジェイドって名前があるよ」
「うるせぇ。あのな、俺は一応強いがガキが嫌いだし、そもそもこの辺に住んでる訳じゃねぇんだ。今から自分の国に帰る。格闘技がやりたいなら、その辺のジムか道場ででも習うんだな」
「ダメだよ。だってオレも超人だもん」
「・・・何!?」
一見分からなかったが、確かに体の其処此処に、人間には無い特徴と気配があった。
その、奴の体を観察する僅かな間を、”教えるかどうか迷っている”と勝手に解釈したガキは、俺にさらに食い下がってきた。
「なあ、じゃあオレも連れてってよ」
「はぁ!?連れて行く訳ねぇだろ。さっきも言った通りガキは嫌いだし、いくら親がいねぇからって、人さらいの疑いまで掛けられちゃ迷惑だ。この国にだって超人はごまんと居るんだ。その誰かを頼るんだな」
「だっておじさん強そうじゃん。オレ本当に強くなりたいから、強い人に教えてもらいたいんだよ」
「知るか。じゃ、あ、な」
いい加減苛立ちを抑えられなくなった俺は、拒絶の言葉を一文字ずつ念押しし、腰を上げるや背を向け歩き出した。
だが諦めの悪いガキは、飛びかかるように俺のシャツの裾を掴んできた。
「っ・・・お前!いい加減にしろよ。殴られてぇのか」
「だってオレ・・・あ、じゃあそうだ!じゃあ、このへんで一番強い人知らない?」
「んなもん、知らーー」
その無邪気で必死な問いかけに俺の脳裏をよぎったのはただ一人、Jr.以外にいようはずもなかった。
しかも今の姿ではない。俺の前で生き生きとリングを駆け抜け、最後は敵と一緒に目の前で落ちていった。あの、最後の戦いの奴だった。
「・・・・・・」
「おじさん?」
掴んでいたシャツから急に力が抜けた事に驚いたガキは、その手を引っ込めると俺の前に回り込んできた。
相変わらず目だけはキラキラしたガキ。
だが俺は、もっと綺麗な光を放っていた目を思い出していた。
「知ってはいる・・・が、もう過去の話だ。だからガキ。諦めな」
「知ってるの?その人、どこにいるの?」
「もういねぇよ」
「死んじゃったの?」
「死んではねぇ。隣の地区にいる・・・が、もう死ーーって、おい!?」
諦めたのか、ガキは俺の目の前から消えた。
大した足の速さ。確かに超人だと思った。
俺はしばし、そこに立ち尽くした。
そして意もせず思い出してしまった面影を引きずりながら、再び駅へ向かって歩き出した。
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