和泉市人権平和事業実行委員会

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■アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(博物館)レポート

2015年11月27日 | ■情報・お知らせ

戦後70年~戦争の歴史から学び、平和を考える学習会

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AUSCHWITZ-BIRKENAU

アウシュヴィッツ=ビルケナウ

強制収容所(博物館)レポート

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【日時】2015年(平成27年)12月15日(火)

    午後1時30分~3時30分

【場所】和泉市立人権文化センター(ゆう・ゆうプラザ)

    4階視聴覚教室 (参加無料、事前申し込み不要です。)

 現地を訪れて撮影したビデオや写真をもとに、視覚的にわかりやすく学習します。

 [解説(デジタル紙芝居)]坪倉宏夫さん

 

→〒594-0023 大阪府和泉市伯太町6-1-20

JR阪和線「信太山(しのだやま)」駅から200M

府道30号線(大阪和泉泉南線“通称13号線”)沿い

 

[主催]和泉市人権平和事業実行委員会

    事務局:和泉市 人権・男女参画室 人権国際担当

(電 話)0725-99-8115

(FAX)0725-45-3128

[URL]http://blog.goo.ne.jp/izumixpeace

     http://twitter.com/izumixpeace

 

 

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アウシュヴィッツ=ビルケナウ

ナチス・ドイツの強制・絶滅収容所

 

「負の遺産」として

 

 ポーランド語でオシフィエンチム(Oświęcim)というこの町は、ドイツ語名であるアウシュヴィッツ(Auschwitz)の名称で世界中に知られています。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツが百万以上におよぶ人々を虐殺したヨーロッパ最大の絶滅収容所がこの町にあったためです。1979年、アウシュヴィッツは、第二次世界大戦において人類の起こした悲劇の証拠であり後世に語り継ぐべき「負の遺産」として世界遺産に登録されました。今も世界中から多くの人々が、追悼と平和を願って訪れます。

 

世界遺産登録: 1979年、文化遺産

アクセス: クラクフから鉄道・バス利用

 

□収容所の歴史

 

 アウシュヴィッツは、ヒトラー占領下にあったヨーロッパ地域で最大の強制・絶滅収容所です。ここに運ばれてきた人の数は数百万人に及ぶとも言われています。この場所で、主にポーランド人とユダヤ人を対象にした民族完全絶滅のための集団虐殺計画が実現されていったのです。

 

 ナチス・ドイツがオシフィエンチム市で「アウシュヴィッツ第1強制収容所(基幹収容所)」の建設に着手したのは1940年のことです。1940年6月には、ポーランド人政治犯を乗せた最初の移送列車が到着しました。その後、囚人数の増加と共に、収容所は拡張されていきます。1941年10月からは、オシフィエンチムの郊外約3kmほどに位置するブジェジンカ村(Brzezinka)に絶滅収容所として悪名高い「アウシュヴィッツ第2強制収容所ビルケナウ」の建設が始まりました。1942年春からは実際に絶滅計画が開始されています。さらに1942~44年にかけて、ドイツの大企業の製造プラントなどが併設された「アウシュヴィッツ第3強制収容所モノヴィッツ」が造られました。その他にも近隣に合計40以上の補助収容所が設けられました。

 

 当初の囚人たちはポーランド人が中心でしたが、その後、捕虜になったソ連兵、ロマ、その他の国からの収容者が増えてゆきました。

 

 1942年以降、アウシュヴィッツ収容所はヒトラーによるユダヤ人の最終的解決の一環として、ユダヤ系市民を大量虐殺するための場所となっていったのです。この収容所には『アンネの日記』で有名なアンネ・フランクも一時収容されていたことがあります。また、戦前に長崎でキリスト教の布教活動に携わり日本人に親しまれていたコルベ神父も、ここに収容され、ある囚人の身代わりとなって亡くなりました。犠牲者数の特定は今となっては大変難しく、28カ国の110万人以上に上るといわれています。そのうち圧倒的多数はユダヤ系の人々で、ポーランドだけでなくナチ占領下の様々な国からここへと輸送され、虐殺されたのです。

 

 終戦直前に、ナチスは自分たちの蛮行を隠すためにガス室や死体焼却場を徹底的に破壊し、重要書類の処分を行い、歩ける収容者をドイツ方面へと連行してゆきました。アウシュヴィッツ収容所は1945年1月27日にソ連軍によって解放されます。

 

□世界遺産登録の経緯

 

 終戦後間もない1947年、ポーランド国会においてアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所を後世への教訓のために保管することが決定し、アウシュヴィッツ博物館が設立されました。そして1979年にはユネスコによって世界遺産に登録されます。

 

□現在公開されている施設

 

 第1収容所の跡地には、収容棟と「Arbeit macht frei(働けば自由になる)」の文字を掲げた門が残されています。「アウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館(Państwowe Muzeum Auschwitz – Birkenau)」として公開されている一部の収容棟内には、大量虐殺(ジェノサイト)という犯罪のおぞましい証拠が保存・展示されており、見学者はナチスが犠牲者たちから没収した私物(身分証明書、写真、旅行鞄、眼鏡、杖、靴、宝飾品など)、義手・義足、髪の毛の山などを目の当たりにすることになります。

 

 第2収容所ビルケナウの広大な敷地には、今日ではわずかな数のバラックと焼却炉の瓦礫が残されているにすぎません。1967年に除幕された犠牲者の追悼のための国際受難記念碑(Międzynarodowy Pomnik Męczeństwa)が目を引きます。

 

 アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館では、毎年、諸民族の融和の証である「生者の行進」が催されています。ここにはさまざまな国から数多くの巡礼者がやってきます。博物館では日本語を含む各国語でガイドを受けることができ(要予約)、前世紀 最大の「負の遺産」として戦争の悲惨さと愚かさを知るための教育の場となっています。

 

出典:ポーランド政府観光局

http://www.poland.travel/ja/

 

参考図書:

『アウシュヴィッツ博物館案内』中谷剛著(凱風社2012年)