こんばんは、安井ふみです。
50代独男です。
※見出し画像はドイツの詩人『ハイネ』でwikipediaから拝借しました。
ブログタイトルは今回のブログ記事内容の要約みたいなもので、そのものに意味はないです。
昨日のブログ記事ではいつもながら話の着地点が見つらず、芹洋子氏の『四季の歌』を引っ張り出してみて、何とか締めくくりことが出来ました。
ただ今回『四季の歌』の三番、『秋』のパートのみの引用でしたがそれでも色々考えたことがあり、今回はそれについて書いていこうと思います。
この歌はかなりの大昔、姉がよく口ずさんでいたので幼い頃の私の記憶に強烈に刻まれています。
当時から四季を身近な人になぞる例え方が子供ながら面白く分かりやすくて。
ただこの三番だけはやけに私にはハードルが高かったような気がします。
それは『秋を愛する人』として例える人が恋人で、幼い私にはそんな存在が到底いる訳もなく(何十年経った今でもいませんがね。それに寿命が後百年延びたとしても私にはいないような気がしますわ)、かなりの絵空事に覚えていました。
その時もちろん『ハイネ』が何なのかわからず、歌詞の一番の『春』パートではスミレが出てくるので、“多分『ハイネ』もアネモネやミモザと言った花の外国名だろう”くらいにしか思っていなかったです(今でこそ詩人とわかりますが)。
やはり歌詞の一番と同様で、恋人をある『花』に例えることの方が素敵で分かりやすくピッタリな気がします。
なのにあらためて今回『四季の歌』をピックアップしてみて、『ハイネ』は男性の詩人で、その人が恋人の例えとは驚きです。
もちろん『ハイネ』は『心深き』『愛を語る』の例えで、ハイネ自身ではないことは重々承知です。
作詞家はせめて分かりやすく『僕』とあるだけに、相手の恋人は女性の詩人(いや女流詩人とするべきか?いやいや女流なんて言葉、今時ではないか?)をここに当てはめようとはしなかったのか?とちょっと思ったものです。
詩人のことや事情はほとんど知らないですが、
女性詩人には、『心深き』人で思い当たる著名な人はいないのか?
私だけが知らないだけで、女性詩人たる者はもともと『愛を語る』ことなんてまどろこしいことはいないのか?
等々色々考えてしまいました。
そもそも私が男性の自分呼びを『僕』と決めつけてイメージしているだけで、たまたまこの歌の『僕』とは、自分を『僕呼び』する女性なのかもしれません。
だったら歌詞上から恋人について『ハイネ』をふとイメージすることになっても違和感がないでしょう。
それとも歌の主人公はそのまま男でいっそう『ぼくはゲイ、同性愛者』でいいのかもしれません。
そうやってさらっとさりげなくカミングアウトしているのかもしれません。
…書いていて何だかわからなくなってきました。
一つだけはっきりしているのは、wikipediaを読めばハイネ本人はゲイではないことです。誤解なく。
ええと、結局私今回うだうだ長く書いてみて脇道に逸れながら気がついたことは、
何があろうと何のイメージがあろうとそれは恋人同士本人達の自由で、
今回の私のように何かわかった風に決めつけで知った気になろうとしても、それは私の自己満足なだけ、案外本人達は他人になんて理解してもらおうなんて最初から無理と諦めて、自分達の世界だけを生きているのかもしれません。
なんだか『秘密の花園』みたいですわ。
なんかムフフですわ。
ついに私の頭の中にも春がやって来ましたかね…。
もうすぐ春ですもの。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
まぁ、あなたに愛を優しく語りかけてくるハイネの姿をイメージしても何も間違いではないでしょう。