身体の景色 (karada no keshiki)

「寂しき魚」 演出ノートのようなもの

モノクロの写真がAIによりカラーで復元されていた

原爆投下後のナガサキを写したその数枚の写真
焼け野原を包む空の青の青さがあまりにもキレイで
その同居に引き裂かれんばかりの言葉にならないもの感じた

これらは昔から
そして今尚
僕ら人間のイトナミに含まれている
それは宿命的に

今日のような美しい秋空に
すでに地獄が含まれている
その地獄はこの秋空と等価なのだ

そんな乱暴な話があってたまるか
と僕は思う

のだけれどしかし
宇宙とか、カミとか、森羅万象とか
そんな大きな大きな視点からしたら
やはり
等価なのだろう

老魚が憧れ焦がれ
懸命に必死に命をかけて辿り着こうとした都市の光の下には
こんな地獄も同時に在ったのだ

それを知った老魚はなにを想うだろう

僕の皮膚が老魚のその別の未来を知覚できたとしてもそれを表現するにカタリでは限界がある
が、そこは言葉の景色
松田くんのピアノがあり、馬渕さんのギターがある

音楽の抽象性
言葉という具象
その交わりから上記イメージをも捉える

あと一ヶ月
いよいよ…

来月、本番
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