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身体の景色 (karada no keshiki)

カタリという場について

ここでは無い、別の地平を渇望する衝動が
或いはその地平を信じるナニカが、舞台に立つ根本になければ
演者は自我のバケモノに、演技という行為はただの自己顕示に、成り兼ねない

競争原理に満ち、物質主義が生む恩恵に安らぐのであれば
身体の景色が用意する「場」は不要であろう

物質から零れ落ちてゆく目には見えぬナニカをどう掬い取り、舞台という場に昇華するか
そのことについて考えてきた

カタリを続けていると、舞台経験の浅深がさほど関係しないという事実を突きつけられる
年齢キャリア問わず、切羽詰まった(と言うと語弊があるが)そのナニカが空間のリアルに大きく影響を及ぼす

年齢キャリア問わず…
それを想う時、カタリという「場」の、ひとつの、意義を見る

立ち上がる物語の向こうに、演者が生きてきた年輪が重なり
肉体を介し、文学が、まるでウタのように劇場に響く

大きな流れがそこにあり
いくつかの要素がたまたま触れ合い形成される今が、同時にある

今朝4時、うっすらと明るみを帯びゆく東の空を眺めていたら
額の下あたりが、そして首の後ろあたりが熱くなった
その時、少し大袈裟でいけないけれど、ここでは無い、別の地平を信じる確たる熱のようなものが腹に落ちた

感覚褪せぬうちにと急ぎこの文章を走り書く
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