チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「会話を楽しむ」

2012-11-23 08:53:22 | 独学

22. 会話を楽しむ (加島祥造著 1991年発行)

 『 「対話は興あらせたきものなり」森鴎外(智慧袋)

    話(talk) と会話(conversation)』

 
 『 人と人が言葉を交わしあうこと――それが会話だとすれば、会話とは大きな社会活動であり、すべての国の人々が、毎日行っており食事とセックスの次に人間が古来から親しんでいるが、前の二者ほどは考察されてない、興味の対象になってない。

 しかしこの下手な会話でひとつ大切なものは、人間の対等観と心の開放を内にもつこと、そして相手の考えをつかむことだ。その上で自分の考えを明確に言い表すことだ。

 フランス在住の桐島敬子さんに、フランス人の会話意識とは?
「フランス人は会話では常に説得(persuasion)を意識している」

 英語圏の会話では、相手のお喋りを遮って自分も喋るのであり、こういう「やりとり」が会話の運びの基になっている。

 私は時おり「チョットマッテ」と日本語でいいつつ手をあげて、それからPardon me,but…とか、Wait a minute、Wait a secondなどの遮り用のきまり文句を言う。

 相手ははじめてさっきの日本語の意味を知って、こっちの発言を待つ態度になる。この方法のほうが、じかにPardon me,but…というより、私には心理的に楽になった。』 


 『 会話の最大のこつは相手の話を聞いてやることだ。これはよく言われることで、また間違ってもいないが、なかなか実行しがたい。
 
 元来会話とはひとつのボールを投げたり受けたりすることだけれども、まず大切なのは相手の球をしっかり受けとめてやることだ。

 こちらがそうしていると知ると、相手は安心して球を投げてくる。あるいは全力投球してくる。それをしっかり受けてゆっくりと投げ返してやる。

 あなたがそういう受け手になったとしたら、あなたと会話する人はみな喜びと満足を感じるだろう。「あの人は話の分かる人だ」というだろう。

 しかし問題はそれであなたが喜びや満足を覚えるかどうかだ。多くの人は、相手が自分の話をしっかり受けとめ、口数少なく答えてもらいたいものである。』


 『 私たちは、会話で「なぜなら」をしばしば省略する。英語の会話では当然に「……だ、なぜなら(because)……」とつづくべきところを、私たちは「……だ」で終えてしまう。

 英語の会話では、because……を省略した言い方は、しばしば、対等でない間柄におこるものであり、それは無礼な言い方ととられがちだ。

 彼らは対等の立場から会話しようとするから、疑問に思うことは、問いただす気持を持ち、先にbecause(やfor,since)を用いて先に説明する。』


 『 会話で大切なのは、その場での自分の意識である。自分がいまなにを喋っているかだけは、意識していたい。その意識はしばしば薄れてしまうけれども、夢中で喋っている自分を、時おり、自分で目覚めさせる意識だけは、持っていたい。

 いつも冷静でいろというのではない。いつも冷静な人間の会話はたいていつまらない。時には夢中になり、空想に脱線し、そんな自分に驚いたり笑ったりするのも、会話には欠かせないことだ。だが根元には自分がいま何を口にしているかを自覚する能力がほしい。

 英語で喋っていると、時おり相手が、「君はいま自分が言っていることが分かってるのかね?」”Do you know what you are talking about?”などとたしなめたりする。」

 「会話というものは、軽いものであれ、荘重なものであれ、慌てた早い喋り方だと記憶が混乱して取りとめのないものとなりがちで、逆に、ゆったりした話し方は、表情や口調が美しいばかりか、記憶も確かだから、聞く人にこちらの知性に高さを感銘させることになる」(サミュエル・ジョンソン)』


 『 生きた会話と開いた心とは、非常に大切な関係にある。会話と知性との関係も大切であるが、それ以上に言える。
 
 なぜなら知性が足りなくとも、開いた心からは、すばらしい会話が生まれるが、どんなに知性が高くとも、閉じた心かは、いい会話が生まれてこない。

 それでは開いた心とはなにか。根本をたずねれば、「受け容れる心」そして「自我自執のない精神」と言えそうだが、少し具体的に考えてみたい。

 会話には当意即妙の閃きや、空想力や創造性、経験や体験からくる他への共感力、情緒やユーモアへの転化など、数々の要素がその場に応じて織り込まれてゆくが、それらは己れひとりの頭脳の働きだけでは生じない。

 共に楽しむ開いた心が第一条件なのだ。もし開いた心の男女幾人かが集まって、ゆったりとした食事やお茶の中で話しをはじめそれがやがて空想力で一転したり、想像力で伸張したり、情緒の深みやユーモアの軽さで綾どられながら、つづくとする。そのような会話を私は「輝かしい会話」という。』


 『 老子は「道」(タオ)を説くにあたって、それを捉えがたいものとし、玄妙の境と言った。会話と老子――これは意外な組合せであるが、老子の哲学は会話のエッセンスを捉えていると思う。

 老子は水のもつ受容性と変化を生命力の根源の想としてとらえ、それが人に現れる時は女性なのだと語っている。

 そして会話とは本質的に女性性に深く根ざすと私には思われてならない。』(猿の文化は、母親によって伝達され、言葉も母親を通して、伝達されるからではないか?)(第23回)


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