チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「チェロと宮沢賢治」

2018-10-06 10:14:04 | 独学

 174. チェロと宮沢賢治  (横田庄一郎著 1998年7月)

 私が本書を読んだのは、「バッハとカザルスと賢治と私」という大それた文章を書くためでした。この文章の中心に据えられるのは、「バッハの無伴奏チェロ組曲」のはずでした。

 私は賢治が、「無伴奏チェロ組曲」を聞いていたかを調べるために本書を読み始めました。私は宮沢賢治が「チェロ弾きのゴーシェ」を書き、自身でもチェロを弾いていたことは、知っていました。

 無伴奏チェロ組曲は、バッハがケーテン時代の1720年ころ書かれてとされています。(カザルスによって広められるまで長い眠りについていた)

 一方カザルスは、1876年にカタルーニアのエル・ベンドレルに教会のオルガニストの子として生まれました。子供のころからピアノとオルガンを弾き、11歳ころチェロを弾き始めた。

 1890年カザルス13歳の時、父親とバルセロナで、楽譜を探しているとき、ほこりだらけの楽譜の山から「バッハの無伴奏チェロ組曲」を発見した。

 カザルスはその楽譜を家にもちかえり、組曲を通して弾いてみて、自分の魂に最も近い音楽を見つけたと実感した。カザルスは12年間練習した後、ようやく公衆の前で披露し、この作品の独創性を広めた。(作曲されて、182年の歳月が流れていた)

 そして、レコーデングは1936~39年にかけて行われ、カザルスが63歳の時、レコードによって日本でも聴けるようになった。

 宮沢賢治は、1896年8月に岩手県花巻に生まれ、1933年9月(37歳)で亡くなっている。(生前賢治は、童話作家としても無名で、死後谷川徹三によって認められるようになった)

 従って、私のもくろみは、見事に外れ賢治は、バッハの無伴奏チェロ組曲を聴いていないと考えられる。残念でしたが、賢治と私に三つの共通点があります。

 (1) 三十歳を過ぎてから独学でチェロを学ぼうとした。 (2) 持っていたチェロが、名古屋の鈴木ヴィオリン製のチェロである。 (3) 共に「チェロ弾きのゴーシェ」のように、美しい調べを奏でることは、なかった。

 余談が過ぎました。では「チェロと宮沢賢治」を読んでいきましょう。


 『 賢治のチェロの中に自筆の署名があるということは知られていた。しかも、そこには購入年とイニシャルが製造元のラベルの上に書いてあり、食い違うことの多い証言とはちがって、このうえない重要なデータなのである。(どこで買ったかは、不明)

 しかし、それは人の話だけであって、写真もなかった。宮沢賢治記念館にも問い合わせたが、やはり写真は撮っていなかった。たしかに狭いf字孔から筆を入れて書いてあるのだから、それを肉眼で見るのも大変だ。

 それでも私は自分の目で確かめてみたいという気持ちには変わりなかった。他人の話を聞くのと、実際に自分の目で見るのとはやはりちがう。

 もしかしてガラスのケースから出してくれれば、この目で見ることができ、写真も撮れるかもしれない。宮沢雄造館長に打診してみた。しかし、いままでは館外に出したことはあったが、これからは門外不出だという。

 途方に暮れてガラスの外からチェロを眺めていた。この箱の中には署名があるのに見ることができない。なんとも残念でf字孔を凝視して少し角度を変えたとき、光がこのラベルの上を通ってブルーの署名が見えたのである。

 はっ、と息をのんだ。それは傾いた午後の陽光の反射だったかもしれない。もう一度、角度を確かめてみると、やっぱり見える。取材にもドラマがあるのだ。

 記念館から懐中電灯を借りて光を補うと、さらにはっきり見える。これも賢治との出会いなのだろう。微妙に角度をずらしてゆくと、ラベルの全部を読み取ることができた。

 MANUFACTURED  BY      MASAKICHI  SUZUKI      NAGOYA  JAPAN    No.6

 このラベル(実際には3段に)の上に 「1926.K.M.」と、賢治のサインを入れたのである。チェロは胴にも厚みがあり、筆をf字孔から入れて書くのはかなり難しい。

 字のかすれや太さからすると、筆に何かを継ぎ足して書いたというよりも、賢治は水彩画を描いていたので柄が細くて長い絵筆を使ったように見える。

 さて、この目でたしかに捉えたものを、どう撮影するか。カメラマンの須永孝栄さんに相談した。紙にf字孔をハサミで切って、この細長い穴に懐中電灯を当てるだけです。 』


 『 賢治はチェロを勉強するために上京を決意する。1926年12月2日、みぞれが降る中を教え子沢里武治が、羅須地人協会から賢治のチェロをかついで花巻駅まで持って行った。

 賢治は、見送りの沢里に「しばらくセロを持って上京してくる。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強してくれ」と語った。

 駅の構内の寒いベンチに二人は腰掛けて、汽車を待った。賢治は「風邪をひくといけないから、もう帰ってください。おれは一人でいいんです」と愛弟子を再三帰そうとしたが、沢里は沢里でこんな寒い夜に先生を見捨てて先に帰ることはできることではないと思い、また二人で音楽の話をするのは大変楽しいことでもあったので、いっしょに時間まで待った。

 改札が始まると、沢里もホームに入って見送った。賢治は窓から顔を少し出して、「ご苦労でした。帰ったらあったまって休んで下さい」とねぎらい、沢里にしっかり勉強しろと何回もいったという。

 「今度はおれは真剣だ」「少なくとも三ヵ月は滞京する」「やらねばならない」と意気込んで上京した賢治のチェロの先生は、当時、結成されたばかりの新交響楽団(現NHK交響楽団)のトロンボーン奏者でチェロもたしなんだ大津三郎だった。

 新交響楽団は十月十五日に結成式をし、年が明けた一月十六日から第一回予約演奏会を開催する運びになっていた。

 しかし、十二月二十五日に大正天皇が崩御したことで、結局予約演奏会を一か月延期することになったが、翌一九二七年六月に荏原に練習場が完成するまで、数寄屋橋の近くにあった塚本商行に事務所を置き、その建物の二階を使って練習していたのである。

 賢治はここにオルガンを習いに行った。父親政次郎あて十二月十二日付けの手紙に次のように書いている。

 「 いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎日少しづつ練習しておりました。今度こっちへ来て先生を見付けて悪い処を直して貰うつもりだったのです。

 新交響楽協会へ私はそれらのことを習いに行きました。先生はわたくしに弾けと云ひわたくしは恐る恐る弾きました。十六頁たうとう弾きました。先生は全部それでいいといってひどくほめてくれました。」

 賢治がオルガンを習いに行っていた塚本商会はクラシック音楽、舞踊界のマネージメントをする一方、ピアノ、オルガンなどの楽器を販売し、社長の塚本嘉次郎が個人的に依頼した教師によってレッスンもしていた。

 このとき賢治を教えたのは誰かわかっていないが、このような塚本商行で、賢治と新交響楽団の接触があったと考えてもおかしくない。

 だが、そうであっても、父親の手紙には一言も触れていないチェロのレッスンは、新交響楽団のメンバーがいきなりやって来た青年に時間をさいてくれるほど、簡単なものではなかったろう。

 ともかくも大津三郎は引き受けてくれたのである。このときから四半世紀もたった戦後の一九五二年(昭和二十七年)、雑誌「音楽之友」一月号に大津散浪というペンネームで「私の生徒 宮沢賢治 三日間セロを教えた話」という手記を発表している。

 少し長くなるが、それ自体がおもしろく、後々関連する記述があるので、ここで全文掲げてみたい。

 「 それは大正十五年の秋か、翌昭和二年の春浅いころだったが、私の記憶ははっきりしない。数寄屋橋ビルの塚本氏が現在のビルの位置に木造建物で東京コンサーバトリー(芸術学校!)を経営していた。

 近衛さんを中心に新交響楽団を結成した私達が練習場の困って居たのを塚本氏の好意で、そのコンサーバトリーを練習場に借りていた時のことである。

 ある日帰り際に塚本氏に呼びとめられて。「三日間でセロの手ほどきをしてもらいたいという人が来ているが、どの先生もとてもできない相談だと云って、とりあってくれない。

 岩手県の農学校の先生とかで、とても真面目そうな青年ですがね。無理なことだと云っても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと云うのですよ。なんとか三日間だけみてあげてくださいよ。」と口説かれた。

 当時私は新響でバストロムボーンを担当して、図書係を兼務した上、トロムボーンの休みの曲にはセロの末席に出るという多忙さで、住居と云えば、荏原郡調布村字嶺(現大田区千鳥町)と云って、当時は大層不便な所だったので一層条件が悪かった。

 塚本氏の熱心さに負けて遂に口説き落とされて私が紹介されたのは三十歳位の五分刈頭で薄茶色の背広の青年で、塚本氏が「やっと承知して貰いました大津先生です」と云うと「宮沢と申します、大層無理なことをお願い致しまして……」と柔和そうな微笑をする。

 「どうも見当もつかないことですがね、やって見ましょう」微苦笑で答えて、扨(さて)、二人の相談で出来上がったレッスンの予定は、毎朝六時半から八時半までの二時間ずつ計六時間と云う型破りであった。

 神田あたりに宿をとっていた彼は、約束通りの時間に荏原郡調布村まで来るのは中仲の努力だったようだが、三日共遅刻せずにやって来た。八時半に練習を終わって私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる……これが三日つずいた。

 第一日には楽器の部分名称、各弦の音名、調子の合せ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階、第三日目にはウエルナー教則本第一巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、帰宅してからの自習の目やすにした。

 ずい分と乱暴な教え方だが、三日と限っての授業では外に良い思案も出なかった。三日目には、それでも三十分早くやめてたった三日間の師弟ではあったが、お別れの茶話会をやった。

 その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立ったか、と訊ねたら「エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏にと思ってオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりもセロの方がよいように思いますので……」とのことだった。

 「詩をお書きですか、私も詩は大好きで、こんなものを書いたこともあります」と私が書架からとり出したのは、大正五、六年の「海軍」と云う画報の合本で、それには軍楽隊員時代の拙作が毎月一篇ずつ載っていたのである。

 今日の名声を持った宮沢賢治だったら、いくら人見知りをしない私でも、まさか自作の詩らしいものを見せる度胸は持たなかっただろうが、私はこの時詩人としての彼を全く知らなかったのだ。

 次々に読んで行った彼は「先生の詩の先生はどなたですか」と云う「別に先生はありません泣薫や夜雨が大好きな時代もありましたが、今では尾崎喜八さんのものが大好きです」と答えると、彼は小首をかしげ乍ら、大正五年頃にこんな書き方をした人は居ないと思っていましたが……」と云って私に示した一篇は――古い日記——と傍見出しをつけた舊作で南大平洋上の元日をうたった次のようなものであった。

 冴えた時鐘で目がさめた—午前四時―  釣床の中で耳をすますと  舷側で濤がおどりながら

 お正月お正月とさんざめく

 士官次室から陽気な話声がきこえる  今、艦橋から降りたばかりの〇〇中尉が  除夜の鐘ならぬ正午の鐘をうって

 艦内一の果報者と羨まれて居る (絶世の美人を女房にもてるげな) (中略)

 風涼しい上甲板の天幕の下で  天皇陛下の万歳を三唱し  大きな茶碗で乾杯したあとは

 金盥にもられたぶつかき氷が一等の御馳走だ  南緯三十三度のお正月はとにかく勝手が違う

 ——明日は Newzealand の島山が見える筈ー—

 といったもので、全くマドロスの手すさびにすぎないものだが、篇中の——と( )を指して、大正五、六年にはまだ使われて居なかったように思う、と云うのであった。

 当時、私の家は両隣に二、三町もある一軒家で割合に広い庭には一本のえにしだと何か二、三本植わていたのに対して、彼はしきりに花壇の設計を口授してくれた。

 そして、えにしだの花は黄色ばかりだと思っていた私は、紅色の花もあることをその時彼から教わったのだ。

 ウェルナー教則本の第一と信時先生編のチェロ名曲集一巻を進呈して別れたのだったが数日して彼から届いた小包には、「注文の多い料理店」と渋い装禎の「春と修羅」第一集が入って居て、扉には 

 献大津三郎先生  宮沢賢治  と、大きな几帳面な字で記してあった。

 春と修羅を読んで行くうちに、私の生徒が誠に尊敬すべき詩才の持主であることを感ぜずには居られなかった。妹さんの臨終を書いた「永訣の朝」などは泪なしには読めず(あめゆじとてちてけんじゃ)という方言がいつまでも脳裏を離れない。 』


 『 「宮沢賢治の素顔」を書いた板谷栄紀さんは、遠野の料理店「一力」で沢里と酒杯を酌み交わす機会があった。そこで、賢治のチェロの腕前が気になっていた板谷さんは話をそちらへ差し向けた。

 校長先生だった沢里は口ひげを生やし、背筋をピンと伸ばして、「それは、なかなかのものでしたよ」。確かに賢治が何曲か弾いたという話もある。

 二人は酒杯を重ねていった。賢治はビブラートについてどうでしたか、と問いかけたのに対しは、「いや、それは無理だったようです」ということだった。さらに話が進み、沢里は声をひそめて打明けた。

 「実のところをいうと、ドレミファもあぶないというのが……」。ドレミファもあぶない——この話は、「セロ弾きのゴーシュ」で、金星音楽団が今度の町の音楽会に出す第六交響曲を練習していて、ゴーシュが楽長からしぼられるくだりを思いさせるではないか、少し原作を引用してみよう。

 「 「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教へてまでゐるひまはないんだがな。」 みんなは気の毒さうにしてわざとじぶんの譜をのぞき込んだりじぶんの楽器をはじいて見たりしてゐます。

 ゴーシェはあわてて糸を直しました。これはじつはゴーシュも悪いのですがセロもずゐぶん悪いのでした。練習が終わって、ドレミファのほかにもいろいろいわれたゴーシェは粗末な箱みたいなセロをかかえて壁の方を向いて、口をまげてぼろぼろ涙をこぼしました。

 それから二日目の晩に、そのゴーシェの町はずれの川ばたにある壊れた水車小屋の家に、くゎくこうが、「音楽を教わりたいのです」とやって来る。

 「音楽だと。おまえの歌は かくこう、かくこうというだけじゃあないか」と、少しやりとりがあって「何もおれの処へ来なくてもいいではないか」とゴーシェがいう。

 すると、くゎくこうは「ところが私はドレミファを正確にやりたいんです」というではないか。「ドレミファもくそもあるか」とゴーシェはいったものの、結局は根負けする。

 「先生どうかドレミファを教えてください。わたしはついてうたいますから。」「うるさいなあ。そら三ぺんだけ弾いてやるからすんだらさっさと帰るんだぞ。」

 ゴーシェはセロを取り上げてボロンボロンと糸を合わせてドレミファソラシドとひきました。するとくゎくこうはあわてて羽をばたばたしました。「ちがいます。ちがいます。そんなんでないんです。」

 ゴーシェは散々だ。楽長から「きみにドレミファを教へてまでゐるひまはないんだがなあ」といわれ、くゎくこうから「ちがいます。ちがいます。そんなんでないんです」と三度も繰り返して否定される。

 くゎくこうとゴーシェは、どちらが生徒か先生か。ゴーシェは手が痛くなるまで弾いて、「こら、いいかげんにしないか」といってやめる。

 しかし、くゎくこうは「どうかもういっぺん弾いてください。あなたのはいいやうだけれどもすこしちがふんです」と粘る。で、ゴーシェはもう一度だけ弾いてみせる。くゎくこうはまるで本気になって実に一生懸命叫ぶ。

 そのうちゴーシェは、はじめはむしゃくしゃしていたが、いつまでも続けて弾いているうちに、ふっと何だか鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかな、という気がしてくる。弾けば弾くほど、くゎくこうの方がいいような気がするのだった。

 最後はいきなりぴったりとやめつと、くゎくこうは恨めしそうにゴーシェを見て「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ」という。

 もう一ぺんの願いにゴーシェはどんと床を踏み、「このばか鳥め。出て行かんとむしって朝飯に食ってしまふぞ」と追い出しにかかる。くゎくこうは硝子にぶつかり、くちばしの付け根から血を出してしまう。 』


 『 賢治が教壇に立った当時の花巻農学校の跡地は、現在、銀どろ公園になっており、花巻市文化会館が建っている。近くには賢治が眠る身照寺がある。

 生誕百年の十月十六日、この文化会館で米国の名チェロ奏者のヨーヨー・マがファミリーコンサートを開いた。ヨーヨー・マは英訳された何冊かの宮沢賢治を読んでいたという。

 プログラムはシューベルトのピアノ五重奏「ます」より、宮沢賢治生誕百年記念作品である「やまなし」、サン=サーンスの「白鳥」、エルガー「愛のあいさつ」、バッハのブランデンブルグ協奏曲第五番第三楽章といった内容で、語りや道化が舞台に登場する演出効果に富んだステージだった。

 アンコールにこたえ、舞台に登場したヨーヨー・マが持っていたのは賢治のチェロだった。この日、賢治記念館から貸し出されたもので、事前にヨーヨー・マは念入りにチェロを点検していた。

 「セロ弾きのゴーシェ」に出てくる「トロイメライ」が鳴りだした。約八百人の聴衆は驚き、胸を熱くし、聴きほれ、ため息をついた。涙を流す人もいた。

 聴衆の中には実弟清六さんの姿があった。「どうしても聴きたくて」と、わざわざ花巻まで聴きに来たチェリストの藤原真理さんもいた。ある女性は「賢治さんのチェロが、あんなにきれいな音を出すとは。

 いままでにも賢治さんのチェロを聴いたことはあったのですが、ヨーヨー・マが弾くと……」と、この時の感激を話す。賢治がチェロを弾くとき、心の中では、きっとこのように鳴っていたのだろう。

 そして、この花巻農学校跡の市民会館でヨーヨー・マが自分のチェロを弾いているとき、賢治はどこかで聞いていて、あの象のような目を細めて「ホーホー」といい、「こんなことは実に稀です」といったにちがいない。 』


 『 「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」 「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教へてまでゐるひまはないんだがなあ。」

 「今の前の小節から。はいっ。」 「ではすぐ今の次。はいっ。」 こんな調子で楽員に指示を飛ばし、いきなり足をどんと踏んで、「だめだ。まるでなってゐない。

 このへんは曲の心の心臓なんだ。それがこんながさがさしたことで。諸君。演奏まであと十日しかないんだよ」と怒鳴りだす楽長である。

 たっぷりしぼられたゴーシュは壁の方へ向いて口を曲げて涙をぼろぼろ流すのだが、こんな楽長の姿は徹底的に練習に打ち込む斉藤秀雄の練習風景を見事に活写しているのだという。

 近衛秀麿の指揮ぶりとは大分ちがうようだ。「そこ、ヴィオラもうちょっとお弾きくださいまし」「フリュートはもっとお吹きになってもいいんじゃないですか」といった調子が近衛流だそうだ。

 これではオルガンの練習のときに賢治が見ていて、あの金星音楽団の楽長のようには書けないだろう。この楽長の印象の強烈さといったら、ゴーシュが自分の水車小屋にやって来た動物たちに対し、楽長と同じ態度をとるほどである。

 楽長にどんと足を踏み鳴らされたゴーシュが、三毛猫やくゎくこうに対して、どんと足を踏み鳴らすのである。強烈な印象というんは伝播するものなのだろうか。

 賢治はここで、オーケストラ音楽における指揮者の存在をはっきり認識している。オーケストラにあって、ただひとり楽器をもたず、そのくせオーケストラに君臨しているのは指揮者である。

 ここに描かれている楽長の個性は公家の近衛より、強烈な斉藤秀雄こそふさわしい。ただし、斎藤がドイツ留学から帰国して、新交響楽団に入ったのは1927(昭和二年)九月だった。

 賢治がチェロを習いにいった1926年末には斉藤はいなかった。従って、斎藤の練習風景を見たのなら、賢治が伊豆大島にいった1928年六月の上京が注目される。

 そこで「嬉遊曲、鳴りやまず斉藤秀雄の生涯」を書いた中丸美絵さんは、賢治が三月上旬に上京したと仮定すると、田園交響曲の練習風景をみていたはずです。

 演奏までもうあと十日しかない、と「セロ弾きのゴーシュ」で楽長がいうのも練習日誌と一致します。 』(第173回)


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