四日市空襲殉難碑 (鵜の森公園)
1945年6月18日未明、四日市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29による空襲を受けました。
これは、東京、大阪、名古屋などの大都市に続く、地方中小都市空襲の最初でした。およそ1時間にわたる爆撃の被害は、死者736名、重軽傷者1,500名、行方不明63名、被災者47,153名といわれています。この後も8回の空襲があり、市街地は廃墟となりました。
鵜の森公園に、犠牲者の慰霊と平和祈念の殉難碑が建立されたのは、1980年でした。以後、毎年6月18日に、碑の前で慰霊の献花式がおこなわれています。
■空爆(空襲)の歴史
1903年ライト兄弟による飛行機の発明は、戦争に劇的な変化をもたらします。
1911~12年のイタリア・トルコ戦争では、イタリア軍が飛行機から手榴弾を投下するなどの攻撃をおこないました。その後、ヨーロッパ諸国による植民地戦争などで飛行機による攻撃が重視されるようになります。攻撃する側の被害はほとんどなく、最大の効果が上げられることから、その利用は、ますます激しさを増しました。
そして、日本もまた、加害としての空爆の歴史を歩みます。1914年、日本軍は、中国の青島(チンタオ)市街を、海軍機3機で爆撃しました。1937年、日中戦争における日本陸海軍の空爆は、さらに激化し、上海、蘇州、杭州、南京など中国全土の都市に大空襲が敢行されました。 特に、1939年5月の重慶市街地への爆撃では、2日間で死者3991人、負傷者2287人といわれています。その後も重慶への空爆は、1943年8月まで200回以上を数え、その被害は甚大なものでした。
四日市空襲の苦難を思うとき、私たちはまた、重慶の、そしてイラクの、ガザの苦難を思うことができるのではないでしょうか。
(2005年9月記)
2013年6月18日
【参考】
『伊勢の海は燃えて 海軍燃料廠と四日市空襲』 第三文明社1978
『四日市にも戦争があった 四日市空襲の記録』 四日市革新懇話会1991
図録『四日市空襲』 四日市市立博物館1995