小説『生活小説』

『生活小説』の実戦・実戦版です。半分虚構、半分真実。

キーワード辞典。「お前」

2006年07月18日 | 小説+日記
ヨシタケは、「お前」と呼ばれることが嫌いだった。彼女は、どんなに愛している男性であったとしても「お前」と呼ばれると、つい、二、三歩、後ずさりしてしまう(実際には、ほとんど二歩)。

彼女を「お前」と呼ぶようなやつらは、西日本出身の連中なんだから、気にするな、とヨシミは言う。言葉の感覚が違うの。あなたが思ってるほど、きつい意味で言ってるのではないの。

そのようにして、ダブル・ヨシたちは、お互いの瞳を見つめ、お互いに、相手の瞳は輝いているなあ、などと思ったりする。

そんな彼女達をぼくらは、遠くから眺めている。あくまで、遠くから。

「お前」と、ぼくは、軽い冗談でダブル・ヨシの片方、ヨシミを読んでみる。「なんだよ、てめえ」とかわいらしい声でこたえるヨシミ。

おお、かわいすぎるではないか。

そのかわいらしさは、ぼくとヨシミの幅をぐっとせばめるどころか、じつは、ヨシミは「人間的」なので、ぼくのような「非人間的」な人間には、彼女のことば、ひとつひとつは切なく、左耳から右耳へ通り抜けてしまうのである。ああ、切ない、切ない。

キーワード辞典。「人間的」

2006年07月13日 | 小説+日記
 ぼくが疲れているのは、「今日から」であって、「昨日から」ではない。「なぜ疲れているのか」と、自分に問い始めると、強い疲労感が襲ってくる。なぜ疲れているのかを知るために疲れるのは、あまり、人間的なことではないだろう。
「人間的」という言葉が何を意味するかは、昨日の、ヨシミやヨシタケのような行動が作り出すものであって、ぼくが、机の前で、ああだ、こうだと、考える類のものではない。

 ヨシミは働き者で、ぼくの数十倍もの働き者で、当然、収入は数十倍もらってもおかしくはないが、世の中というものは、そうは行かないらしく、多く見積もっても、五、六倍である。これが、正しいことであるのか否かは、後世の判断に任せるしかない。仕方ないので、ぼくは、彼女に、苦労をねぎらう言葉を掛けるのである。それは、極めて正しい。

 そのヨシミという女性は、ヨシタケと同じく、「人間的」な人間で、ヨシミとヨシタケとでワンセット、「ダブル・ヨシ」と名付けられ、「ヨシヨシ」などとも呼ばれてしまい、これは、「良し」とも通じることは明白で、やはり、「人間的」な人間は、良心に基づいて行動するということの確証にもなるのであった。

 そういうヨシミは、チャーミングとしてくくられる女性の中でも、はるかにチャーミングであって、ぼくが惚れるのも、当然のことである。

「犬の足はしっぽを合わせると、何本?」
 あるとき、ヨシミは、そう訪ねた。チャーミングである。

 ぼくは、答えなかった。

 それが、「人間的」と呼ばれる人間と、「疲労困憊でミネラル不足」と呼ばれる人間の差である。

ブルガリとヨーグルト。(2)

2005年11月27日 | 小説+日記
「俺っち、馬鹿だから、わかんね」と横山は首を振った。「ほんと、俺っち、馬鹿だから」。
馬鹿だから、かわいいんじゃないの?と藤田は思う。ヤマダちゃんも横山のこと、かわいいって言ってたし、玲子さんも、横山のこと、好きだと思う。嫌いだとしても、玲子さんのことだから、横山のこと、もっとよく知ったら好きになると思う。ただ、高橋くんはダメだ。横山のこと、嫌いなままだ。だって、いかにも、そりが合わなさそうだもん。だから男同士は面倒だ。高橋くんには、横山みたいな、ふにゃふにゃで柔軟なんだけど、キュっと締まるような格好良さないもん。
「藤田ちゃんは、高橋とまだ付き合ってんの?」
「付き合ってるよ」
「じゃあ、帰りなよ」
「なんで?」
「今みたいな感じだと、嫌だから。こんな時間に、今みたいな感じだと、嫌だから。俺、馬鹿だけど、そういうことには、うるさいから」
 私は、横山に無理やり、帰れ、と言われて、店を出た。一人で、とぼとぼ帰る。
 横山の、そういうところが、またかっこいい。いや、泣けるくらいのかっこよさだ。
 暗くて、寒くて、星がチカチカしてる。信号待ちで、高橋くんに電話をかけると留守電。さては、と思い、玲子さんに電話を掛けたら、案の定、高橋くんは玲子さんと一緒だった。
「あ、藤田ちゃん、高橋に電話掛けなおさせようか?」
「いや、いいです。玲子さん、高橋の風邪の具合、どんな感じですか?」
「直接、聞きなよ、隣にいるから」
「あの、玲子さんの見た目でいいんです」
「咳の一つもしてないわよ」
「だって、風邪気味だって、言ってたから」
「そうなの?」
「ごめんなさい、電話切ります」
 私は電話を切ったあと、コンビニに寄って、お金をちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、下ろす。
 高橋くんは、確かに風邪気味だと言ってたから、すごく心配した。とっても心配したから、今日は何度も、頭が痛くなりそうになった。でも、高橋くんは何も言わない。いつも、何か隠してる風なので、とても不安。だから、横山に付き合ってもらって、いろいろ相談にのってもらった。でも、高橋くんは、玲子さんと一緒に飲むくらい元気だった。なんだか、やな感じだ。心配した分、利子が欲しい。ここのコンビニも、もうちょっと、ちゃんとしたカスタードのプリンを売り出してもいいはずだ。なにか、おかしい。「おかしい」と思い出したら、全部おかしい。信じられない。おかげでお腹が空いた。どうしようもなくお腹が空いた。高橋くんは、玲子さんに、ねえねえ、今の電話、誰から?とか聞いてるはず。ぜったいに。それで、玲子さんは、いつもの玲子さんっぽく、そうねえ、誰かしらねえ、なんて、とぼける。ああ、やだ。電話なんか、掛けなきゃ良かった。
 もっと、かわいくなりたい。関係ないけど、かわいくなりたい。今の私じゃ、かわいくない。お金欲しい。腹減った。あと、ヴィレッジ・バンガードで売ってた計算機が欲しい。計算機買ったら、ちゃんと、レシート整理する。誓った。いま、私は誓った。計算機を買う。それで、お金が余ったら、高橋くんになんか、かっこいいキャラクターの時計を買って上げる。たぶん、変に喜ぶ。予想がつく。あいつは単純だ。気の利くプレゼントを上げてたら、なんとかなる。
 私は、郵便受けを開けて、ピザの宅配のチラシだけ取り出して、自分の部屋へ向かった。

ブルガリとヨーグルト。(1)

2005年11月25日 | 小説+日記
 それで、「藤田ちゃんのことを好きか」と言われたら、きちんと答える自信が無くて、じゃあ、なぜ付き合ってるのかと言われると、「好きだから」と自信満々に答えそうな自分に嫌気がさしつつある11月の終わり。
店は午後10時まで開けていなければならないのだが、上司の東尾さんが、「今日はもう、閉めちゃってもいいんじゃない?」といい加減なことを言ったのを幸いに、売り上げをチェックしたあと、9時半に店を閉めることにする。
 このあと、どこへ行くの? いっしょに飲まない? と、客に紛れていた玲子が言う。いや、ちょっと、今日は、ダメかな。あまり酒を飲む気分じゃないんだ、と言うと玲子が、「ほらあ、やっぱり、藤田ちゃんは結構、しばりがきついんだなあ。彼氏に、女友達とお酒を飲ませるぐらいの度量があってもいいんじゃない? そこが子供なのよねえ」と言う。
 お茶はいいけど、お酒は怒るよ、藤田ちゃんは。と、回答にならないことを言いながら、ぼくは携帯電話のアドレス帳から藤田ちゃんを探し出して、メールを送る準備をする。「今夜は、仕事が早くおわったので、このまえ借りてきたビデオをいっしょに見れるね」とか、「明日、どこかへ出かけようか。ぼくんちには車で来た?」などと文面を考えた。
 ぼくが生まれてから、元西武の田辺選手並みのナイスバッティングだったと心から呼べるメールがあって、それは、玲子がまだ、二十五歳のころで、ぼくは同じ年なのに、とくにあてもなく、ぶらぶらしていたのだが、あるとき、特に深く考えずに玲子にメールを送ったら(結構、男が書くにしてはかわいくて、ちょっと心温まるメールだった)、泣きながら玲子から電話が来た。そして、一挙に二人の溝が埋まって、埋まった溝の代わりに深い絆が出来た、という代物だ。それは、たぶん、家の引き出しにしまっている、古い古い携帯にまだ残っている。その携帯電話が充電可能なら、暗い液晶を我慢して、何度でも、読んでみたい代物だが、いかんせん、充電器を紛失したため、読めやしない。
 でも、玲子がこうして、そばにいるのも、そのメールのおかげなわけで、ぼくが藤田ちゃんと付き合ってるのに、いろいろと世話を焼いたり、面倒を見てくれるのもそのせいである。
 玲子が言う。「やっぱり、藤田ちゃんに悪いから、早く帰りなよ」。店の鍵を閉めているぼくに言う。
 この瞬間に、自分の頭の中のスイッチが切り替わった。《理由》は二つ。『寒いから』と『お腹が空いたから』。
「よし、飲もう。玲子、飲もう」
「藤田ちゃんに悪いって」
「自分から言い出しておいて、何だよ」
 何がなにやらわからないが、玲子といっしょに、まだ賑わってる街の方へ足を向ける。《理由》と言うものは、すべて、後付の理由である。

未完成の品ですが。台本用。

2005年03月13日 | 小説+日記
なんとか商事恋愛部(仮題)

高橋 男30代 以前は職場のエースだったが最近はちょっと閑職に追いやられている。塩谷と昔付き合っていた。
塩谷 女30代 高橋と恋愛経験あり。
水谷 女20代 高橋に恋心をいだくOL
西尾 男20代 塩谷に恋心をいだく社員。
部長 男か女50代

水谷モノローグ 「高橋さん、相変わらず、疲れた顔してるなぁ。朝食、きちんと食べたのかなぁ。朝食食べなきゃ、集中力と判断力が低下しちゃうんだぞ。もし高橋さんがミスして、それで、うちの会社が傾いちゃったらどうするんだ。どう責任取るんだ高橋! でも、うちの部署じゃ幾ら失敗しようが傾きようがないわね。でも、あんな歳して独身なんだからなあ。誰かいい人捕まえりゃ、いいのに。かわいくて、やさしくて、わたしみたいな人。もし良かったら、わたしでもいいぞ。わたし、結構、かわいいし。おう、水谷ななえ、いいぞ、プラス思考。落ち込んでいた水谷ななえに、元気な水谷ななえから、パンチ! 略して、ななパン!」
高橋 「よう、水谷。あれ? このコーラ、俺の? いただきまーす。あ、コーヒーか」
水谷 「ねえ、高橋さん、先週、部長から頼まれてた、あの書類の‥‥」
高橋 「なに? あ、あれかぁ‥‥(なんだっけ?)。(気付いた!)忘れてたよ。ごめん、急いで、なんとかするよ。やっちゃったよ、まったく。ありがと」
水谷 「高橋さん、朝食、食べてないでしょ」
高橋 「え? ああ。でも、だいじょうぶ、だいじょうぶ。じゃあ、ちょっと部長のとこ、行ってくるよ。うん、まあ、軽いもんだ(本当は軽くない)」
水谷モノローグ 「ほーらね。朝食とらないからだよ。わたしだったら、高橋さんにスクランブルエッグに、メイプルシロップ付のホットケーキも焼いちゃうんだけどな」
高橋モノローグ 「まずいなあ。まあ、今日中に提出すれば、問題ないよな。あれには、もっと力を入れたかったところだけど、仕方ねえよな。ついてねえよな。そういや、水谷のやつ、朝食がどうのこうのって言ってたよな。最近、遅い夕食なのか、早すぎる朝食なのか、よくわからん食生活だったもんな。気をつけよう。おっと、あんなところに、塩谷じゃん」
高橋 「おい、塩谷」
塩谷 「あら、高橋くん、今日は遅いご出社のようね」
高橋 「嫌味言うなよ。おれはどうせ、お前と違って、暇な部署で、だらだらやってますよ。すみませんね。なにこの饅頭、お土産?いただきます!」
塩谷 「もう! ところで、何の用? わたし、もうすぐ会議なんだけど」
高橋 「(もぐもぐしながら)いや、ちょっとさあ、『塩谷、がんばれよぉ』っとか、言おうかなって思って」
塩谷 「あらまあ、高橋くん、優しいところあるのね(まったくそう思ってない)」
高橋 「ほら、同期じゃん。同期の優しさだよ」
塩谷 「ごめんね、会議始まっちゃうから。その言葉、そっくり高橋君にお返しします。(ちょっときつめに)じゃあね」
高橋モノローグ 「あらあら、行っちゃったよ。冷たいなあ。むかし、付き合ってた仲じゃん。あの頃は結構、まあるい、角のない、こう、なんていったらいいかな、ふんわりした性格だったのに。いまじゃ、まさにキャリアウーマンだよなあ。ああも、ひとは変わるもんなんだな。もし戻ってくりゃ、昔とは違う、素敵な日々でも送らせてあげるんだけどな。根拠はないけどさ」
塩谷モノローグ 「(ぷんぷんして)ひさしぶりに声を掛けてくれたと思ったらなによ、高橋くん。もっと優しくしてくれたって良いじゃない。わたしだって、別れたくて別れたわけじゃないのに。まあ、仕方ないのかな。『わたし、会社のほうを選ぶわ!』なんて、言っちゃったしな。あのときは仕様がなかったのよ、ごめんね、高橋くん。いまだったら、楽しく、二人で過ごせるんじゃないかな、根拠はないけど。まあ、そんなこと考えちゃうなんて、わたしには、贅沢な話よね。」
部長 「おい、塩谷くん、高橋のやつ見なかったか?」
塩谷 「あ、さっき、会いましたよ」
部長 「あ、そう、わかった」
塩谷 「高橋が何かしましたか?」
部長 「書類の期限が今日までなんだが、あいつ多分、わすれてんじゃないか。こまるんだよなあ。高橋。あんなやつでも、入社当時は期待の星だったんだけどなあ」
塩谷 「あ、そうですか‥‥」
部長 「すまんね、呼び止めちゃって」
塩谷 「いえいえ‥‥」
部長 「えーと、たかはし、たかはし‥‥」
塩谷モノローグ 「そっかぁ。高橋君は期待の星だったのか。もしかしたら、わたしが高橋君のこと、ダメにしちゃったのかも‥‥。そんなことはない。そんなはずもない。ありえない(キッパリ)。でも、まあ、5%くらいはわたしのせいか。あのころは、わたし、わがまま、いい放題だったしなあ。それが今では、高橋君はお暇な部署に。ああ、かわいそう。助けて上げられるものなら助けてあげたいわ。あ、ちょっといま、おおげさなこと言っちゃったわ。うそうそ。えーと、『励ましてあげたいなあ』くらい。あらあら、おっと、西尾くんだわ」
塩谷 「西尾くん、早いじゃん」
西尾 「あ、塩谷さん、お久しぶりっス。あ、髪形変えました?(塩谷ちょっと照れる)あ、ぼく、急ぐんですみません!」
塩谷 「はいはい、気をつけてね。行ってらっしゃい。あ、ネクタイまがってるわよ(西尾ちょっと照れる)」
西尾 「‥‥す、すいません、じゃあ得意先、回りに行って来ます。あ、あのお土産のお饅頭、みんなでわけてくださいね。では」
塩谷 「西尾くん、こんど、いっしょに飲もうね」
西尾 「(照れる)え、ええ。ぜひ、ごいっしょさせてもらいます!(がちがち)。では!」
塩谷 「ばいばーい」
西尾モノローグ 「まったく、塩谷さんって、どきどきさせる人だよなあ。みんなにも、そんな感じで接するのかなあ。いや、そりゃないよなあ。いやあ、でも、ほんと、どきどきしちゃったよ。目なんて、見て喋れないもんな。きれいだしなあ。いいなあ、ああいう人がぼくの上司だったらなあ。上司じゃなくても、恋人でも良いなあ。恋人かあ。そりゃちょっと連想が飛びすぎだなあ。まあ、いいや、塩谷さんと、恋愛してるとして‥‥。ああ、だめだ。ドキドキしちゃって、口聴けないよ。ぼくなんて、相手にしてもらえないか‥‥。いかん、そんなことを考えてはいかん。今は、一生懸命、仕事に生きる大事な時期だ!あーあ。でも、いいなあ、ああいう人。(ひとにぶつかりそうになる)あ!すみません!」
水谷 「あら、西尾じゃん!ちゃんと前見て歩きなさいよ!ぼぉーとしてないで。あなたは、わたしたち同期の希望の星なんだから」
西尾 「あ、そ、そうなの? う、うん。じ、じゃあ、ぼく、急ぐんで。また。こんど飲もうね」
水谷 「そうね。久しぶりに。いいわね。じゃあね」
水谷モノローグ 「そういえば、高橋さん、ちゃんと部長相手にうまく立ち回れたのかなぁ。なんだか、心配させる人だな、もう。高橋さん‥‥。なんで、こんなに、さっきから、高橋さんのこと気になってるんだろ。もしかして、これは恋なのかしら?! まあ、そんなことはないだろうけどなぁ(とか言いながら、そうかもしれないと思っている)」

部長 「高橋君、これ、なかなか立派に仕上がってるじゃないか」
高橋 「部長、まあ、これは通常の出来ですけど。これでよろしければ、こちらで。もう少し、なにかプラスします?」
部長 「いやいや、これで構わないよ」
高橋 「ありがとうございます。では」
(廊下)
塩谷 「ねえ、高橋君」
高橋 「あ、塩谷、なに?(ウキウキした気分のまま)」
塩谷 「ねえ、今日、夜、いっしょに食べない?」
高橋 「ああ、いいよ。俺でよかったらな」
塩谷 「なんか、最近なにやってんのかなって思ったから。じゃあ、あとで」
高橋 「おう、じゃあな」
高橋モノローグ 「塩谷のやつ、やっぱり、俺のことまだ好きなのかなあ。まあ、そんなことはないだろうけど(とか言いながら、そうかもしれないとおもっている)。ああ、いかん、たぶん、さっき部長に誉められたから、おれは、そんな妄想に浸ってるんだ。いま、塩谷と食事したら、おれは絶対勘違いする‥‥。勘違いするどころか、家にも帰れない‥‥。または飲みすぎる‥‥、あるいは、かなり荒れる。または、‥‥だめだ、だめだ。食事はいかん。止めた止めた」
西尾 「高橋さん!」
高橋 「お、西尾じゃん。‥‥そうそう、あのさあ、塩谷が食事の相手をさがしてたから、どう? いっしょに、飯食ってあげて」
西尾 「あ、ぼくが、塩谷さんとっスか? 二人でっスか? ぼくと塩谷さんが、二人でですか?」
高橋 「ああ、二人で行ってらっしゃい。じゃあ、たのむわ」
西尾 「は、はい!」
西尾モノローグ 「塩谷さんと、二人で食事かあ。あがっちゃって、食べ物が喉を通らないかもなあ。大丈夫かなあ。でも、なんで、食事の相手がぼくなんだろ。うわあ、なんだか緊張してきた。手に汗かいてきた。でも、塩谷さんは、優しそうなひとだもんなあ。緊張しているぼくもあたたかく包んでくれそうだよなあ。うわぁ。どうしよ。いかん、緊張するな、ぼく、緊張するな、ぼく。塩谷さんはどんな店が好みかなぁ」
水谷 「あら、西尾くん、何、顔真っ赤にして、突っ立ってんの?」
西尾 「わりい、今日、いっしょにメシ、行けなくなっちゃった」
水谷 「いいわよ、べつに」
西尾 「この穴埋めはまた今度」
水谷 「いいって」
西尾 「じゃあ、ごめんね」
水谷 「はーい」
水谷モノローグ 「ああ、よかった。西尾君にこちらから声掛けてたから、断ってくれて助かったなあ。だって、高橋さんに、声掛けられちゃったんだもん。そりゃ、西尾君と高橋さんじゃ、高橋さんのほうをとるわよ。たぶん、きょうも部長に怒られて落ち込んでるんだろうなあ。励ましてあげなきゃ!あー。わたしの高橋さんへの母性本能が目覚めてきたわ。どうしよう(わくわく気味)」
*レストラン
高橋「まあ、偶然この四人で夕飯ってのも、珍しいね。うん、いい顔合わせだ(うろたえ気味)」
塩谷 「なんでこうなっちゃったのか、わからないけど」
西尾 「で、でも、ぼく、たのしいっスよ! たのしいっス、この4人!(かなり無理して)」
水谷 「まあ、偶然って恐ろしいわね(遠くを見ながら)」
高橋 「どう、今夜、これから、この四人で飲む?」
塩谷 「さんせい」
水谷 「わたしも」
西尾 「ぼ、ぼくもさんせいっス!さんせいっス!」
(‥‥)
高橋・塩谷・西尾・水谷「(笑)」
高橋「まあ、なかなか世の中はうまくいかんねえ、西尾君」
西尾「は、はあ。そうっスね‥‥」
四人「(笑)‥‥あーあ(ため息)」
西尾「で、でもぼく楽しいっス!楽しいっス!ほんとに!」(F.O)


軽妙な音楽 
(了)




(33) スリーアウト。1

2004年11月22日 | 小説+日記
 高橋は目を閉じる。息を深く吸って、ゆっくり吐く。
 再び目を開けると、自分が、電車の中で、つり革につかまっていることに気付く。さっきまでの、激しい頭痛は治まっている。窓の外を、景色が流れていく。杉山美香が、高橋の服の袖を引っ張りながら、「大丈夫?」と聞く。ああ、だいじょうぶ。ちょっとめまいがしただけで、べつに、なんともないよ。とりあえず、新宿で、服と本を買って、それからバスにでも乗って、海のほうにでも行こうか。高橋君、そんなに無理しちゃっていいのかな、と杉山美香は言ってみるのだが、高橋がその気になっているなら、多少、無理させちゃえ、高橋君が優しいときなんて、滅多にないんだから、と思う。

 高橋と杉山美香は、デパートの中の書店で、英会話の勧誘につかまっている。もしよかったら、いまから、ご一緒に教室のほうへ行きませんか? そこで、かるくテストを受けてもらって。すぐ終わりますよ。授業も体験できますし。かるいものですから、どうですか、お二人でいらっしゃれば。高橋と杉山美香は顔を見合わせて微笑む。
 はい、ここまでは、営業用のトークでした。美香、じゃあ、後から、また連絡するね、ちょっと遅れるかも知れないけど、いいよね。英会話の営業の女性は杉山美香に軽く合図する。ほらね。ユキちゃんでした。高校の同級生。杉山美香は高橋にささやく。随分、君も顔が広いね。そりゃそうよ。ただ、ぼーっとしてたわけじゃないもん。

 なんだか眠い。なら、寝ちゃいなよ。バスから見える夜景も結構いいもんだね。いいから、いいから、高橋くん、寝ちゃいなよ。ああ。

 ユカリのナイスバッティング! 略して、ユカナイ。栗山っち、もう一球。たのむぜ、ど真ん中へストレート。へいへい、栗山っち、ビビるなよ。ほーら、ほらほら、ユカナイ。
 ユカリちゃんにはかなわないなあ。いやいや、たいしたことないっス。ちょっと調子に乗ってたっス。ユカリちゃん、これからどうする? おっといけない、バイトの時間が近付いてるっス。あ、ユカリちゃん、まだパン屋で働いてるの? いいじゃん、今日は休んじゃえ。だめっス。わたし、パン、好きっスから。結構、責任感強いんだなあ。せっかく会えたのに。申し訳ないっス。じゃあ、送ってくよ。あ、ありがとうございます。
 栗山っち、優しいな、優しいな。でも、わかってますよ、栗山っち。そんなにたやすくバイト先へは送ってくれないってことぐらい。ばればれっスよ、栗山っち。ほらきた、国道。ほらきた、怪しい建物。ほらほら、車、入ってくよ。やっぱ、栗山っち、やってくれるねえ。

 午後6時を過ぎるとすっかりあたりも暗くなり、ネオンはちかちか輝くのだけど、高橋君はスースー、寝息を立てちゃってるし、バスは揺れるし、私の化粧はうまくのってない。

(32) インディアン・サマーの前。 3

2004年09月10日 | 小説+日記
 ユカリはパン屋でのバイトを終えると自転車をこいで駅まで向かい、急行に乗って帰ってくる、栗山を待っている。もしもし、ユカリです。今、駅にいます。この留守電聞いてますか? 聞いてたらメールください。今、どこですか? ぱくぱくぱくぱく。しばらくして、ユカリの携帯にメールが届く。「名古屋は楽しかったよ。もうすぐ着きます。ユカリちゃん、荷物を縛るゴムひもは持ってきた?」。ユカリは再び、栗山に電話する。着信音がしばらく鳴った後、留守番電話サービスに切り替わる。はいはい、了解。ひもはもってきてるよ。はやく帰ってきてね。ぱくぱくぱくぱく。以上でーす。さっき、着信してるとき、栗山のポケットの中で、携帯がブルブル震えてたんだろうな、と思うと、ユカリは楽しくなってくる。きっと、くすぐったくて我慢できないぜ、栗山っち。もう一回、わたし、かけちゃいます。ごめん。ユカリはまた栗山に電話をかける。着信の合図が鳴る。しばらくして栗山が電話に出る。おいおい、着いたよ。もうすぐ改札。はい。栗山さん、待ってますから。はい、はい。改札に、旅行かばんを二つ携えた栗山がやってくる。ユカリは手を振る。栗山は笑顔で応える。ユカリちゃん、お待たせしました。お土産もあるよ。あ、ちす。ども。それ、持ちます。いいよ、いいよ。俺、自分で持つから。二人は駐輪場で、ユカリの自転車の荷台に旅行かばんをのせ、ゴムひもでくくりつける。じゃあ、この自転車、俺が押していくよ。いや、いいっスから。わたしが、やりますから。ユカリちゃんも相変わらずだなあ。電車の中で、携帯をあんなに鳴らされたのは初めてだよ。ユカリは心の中で、まばゆい光に包まれたかのようなときめきを味わう。やさしー、やさしー、栗山っち、やさしー、ぜんぜん、おこらないでやんの。すげー、やさしー。栗山は、ユカリが自転車を押している後ろで、荷台を支える。ユカリちゃんは、俺と二人になると口数減るんだね。なんだか、ユカリちゃんって面白いね。いや、そんなことないっス。なんか、照れるんだけど。あれですよ、愛の表現ですよ。栗山さんへの愛の表現です。栗山はそれを聞いてクスクス笑う。ユカリは自分で言った台詞に耳を真っ赤にする。それで、ユカリちゃん、留守電の「ぱくぱくぱくぱく」ってなんだったの? あ、それも愛の表現っス。ユカリちゃんは、楽しいね。そういう人って、俺も好きだな、すごく。やりー、やりー、栗山っち、わたしに惚れてる。ぜってー、惚れてるって。うれちー、うれちー。不幸なユカリへ、幸せなユカリから、幸せパンチ。ユカリパンチ。通称ユカパン。あの、栗山さん? なに?ユカリちゃん。栗山さんは、そういうことは好きですか? え?そういうことって?え?そういうことって?と杉山美加は高橋に尋ねる。だから嫌いなわけじゃないし、君に魅力が無いわけじゃ全然無いんだよ。じゃあ、安心していいの? もちろん。良かったあ。杉山美香は高橋の横に転がる。天井の一メートルを超える大きさの鏡が二人を写しだす。部屋に流れる勇壮な音楽が急にカウントダウンに変わる。「ホテル・ノーチラスは緊急事態。全員、配置に着け!」。ナレーションが聞こえる。5、4、3、2、1、0。ゼロと、ナレーションが告げた瞬間、爆発音とともに、ストロボライトが炊かれる。チカチカするなかで、高橋の動く姿がストップモーションに見える。きれいだな、と杉山美香は思う。そして、部屋は徐々に明るくなっていく。「作戦終了。作戦終了」。301号魚雷室は、急に静かになり、赤い照明でぼんやり照らされている。ずいぶん、派手な部屋だね、ここは。高橋は笑いながら、杉山美加の髪をいじる。さっきの話なんだけど。ああ、その話か。だからね、事故のせいで、機能不全になったんだよ、うん。だから、君の魅力とか、君のことが嫌いとか、全然、関係無いの。治らないの? わからない。困らないの? ぼくは困らないけど、相手は困るんじゃない? わたしは困らないよ。そういうことは無くてもいいもん、ぎゅっとしてくれれば。ぎゅっとしてるだけで、済むといいけどさ。出来ないときは他のことが、いろいろ出来るようになるもんだよ。そう言うと、高橋は杉山美加に覆い被さる。最中に、高橋の頭の中には、ホテル・ノーチラスの屋上のことが蘇る。まあ、あのとき、ぼくは死んじゃったようなもんだもんな。何回死にそうになってんだよ、おれ。まあ、今回は自分の意思だから、意味合いは違うけどね。杉山美加は、高橋の肩に噛み付いたり、背中をぱちぱちと叩いたりしながら、なんだか、高橋君は面白い人だよなあ、と思う。高橋君とはなんだかんだといろいろあったけど、なんだか、奥が深いし、一緒にいても全然飽きないなあ、と思う。わたしが高橋君と初めて会ったときから、高橋君は高橋君だけど、絶対に中身は同じ高橋君じゃない。毎日のようにころころ高橋君は変わる。わたしも変わったのかな。そう、強くなったもん、強くなった。杉山美香は高橋の首に抱きつく。高橋の首から背中が汗で濡れている。再び、部屋は暗くなり、計器が点滅した後、「魚雷発射用意」とのナレーションのあと、すさまじい爆音がとどろく。

(31) インディアン・サマーの前。 2

2004年09月09日 | 小説+日記
 なんだか、疲れちゃった、と杉山美加は言う。ここから、家に帰るまで、どれくらいかかるかな、三、四時間かかっちゃうかな? そんなにかからないとは思うけど。いいよ、美加、ここら辺に泊まろうよ。なんだか、いろいろあるけど、高橋君はどこに泊まる? ぼくは別にどこでもいいよ。そういう場所には何のこだわりも無いから。じゃあ、あの潜水艦のネオンのホテルがいいな。ホテル・ノーチラスと書かれた看板をくぐって、中へ入る。なるべく安い部屋を探して、その部屋の写真についているボタンを押し、鍵を受け取る。「お泊りですか?」「ええ」「301号魚雷室です」「え?なんですか?」「301号魚雷室です」「あの、301号室、ということですか?」「まあ、そういうことですが、301号魚雷室なわけです」。ふたりはエレベーターにのり三階へ向かう。高橋は途中で、きつく美加の手を握る。痛いよ、高橋君。痛いってば。じゃあ、美加、キスして。馬鹿じゃない? と美加は笑いながら高橋にキスをする。部屋の入り口の上に「301」と書かれたランプが赤と青に点滅している。ドアを開けると、部屋の中には、パイプが張り巡らされていて、計器類があちこちに取り付けられてあり、メーターが揺れている。随分、凝った作りだね。わたし、座りたいんだけど、椅子とかソファーは無いのかな? と美加は言う。あれかな、あの狭い二段ベッドが椅子代わりかな? なあ、美加、そうじゃない? じゃあ、そこで寝ろっていうの? いいや、ベッドはほら、向こう。高橋が指を差した先には巨大なベッドがある。うわあ、四、五人、眠れちゃうんじゃない? すごいなあ。美加と高橋は、二段ベッドの一段目の上に座って、テレビを見ている。高橋は、思いついたように、ちょっと俺、外に出てくる、と言う。どうしたの? お買い物? まあ、そんなところ。美加は怪訝そうな顔をする。高橋はフロントに電話して、ドアを開けてもらう。じゃあ、すぐ、戻ってくるから。はあい。高橋は建物の階段を見つけると、上へのぼる。八階で階段は終わる。高橋が、八階にある、鉄の扉を開けてみると、そこは屋上で、暗闇の中で巨大な潜水艦の模型に赤いネオンが光っている。高橋は潜水艦に近寄って、ポンポンと胴体を叩く。下を覗くと、ホテル・ノーチラスの前の道路を、何台もの小さい車が行き交っている。さて。高橋は屋上の縁に腰を掛け、足を空中にブラブラさせる。今、飛び降りた方が、良いのかな? それとも。高橋は考える。まあ、いろいろあったけど、楽しかったし。頭痛がして、もう何も書けないかもしれないけど、そこそこ納得は出来てるし、美加はかわいかったし、まあね、そんなもんでしょ、人生とか、そういうものって。だから、いいんじゃないのかな、今、飛び降りても。足をブラブラ。痛いなあ、まだ痛むよ。手術跡を撫でる。何だかどうでも、いいや、別に。ねえ、ちょっと待ってくださいよ、そりゃないっスよ、と高橋の耳に、若い男の声が聞こえる。高橋さんがそういう風になっちゃったのは、こっちの責任もあるんですから、困るんですよね、そういうの。だから、お返しが出来るまで待っていていただきたいんですよね。とうとう幻聴まで聞こえるようになっちゃったかな、と高橋は思う。高橋さんも空手とか、やられたらいかがですか、楽しいもんですよ、体も丈夫になるし、当然、喧嘩も強くなるし。高橋はなんだか、可笑しくなってきて、その幻聴に返事をする。うん、わかったよ。空手、やってみるよ。ずいぶん変わった幻聴だな、と高橋は笑いをこらえる。そうですよ、空手、ぜひ。いい道場、紹介しますから。ありがとう。だから、まずは、部屋に戻りましょうよ、ね、高橋さん。高橋さんがそんなことじゃ、ナカムラさんだって悲しんじゃいますよ。ナカムラ? ナカムラかあ。そうだよな。あいつは絶対、人一倍悲しむ奴だもんな、わかった、わかった、幻聴さん、ありがとう。部屋に戻るよ。わかったよ。幻聴だ、なんてひどい扱いですね、判ればいいんですよ、わかれば。高橋は階段を下りて、フロントまで行き、部屋のオートロックを開けてもらう。「301号魚雷室、ただいまロックを解除致しました」。ドアを開けて中に入ると、美加は二段ベッドで、テレビをつけたまま横になっている。高橋は、彼女の頬と髪を撫でる。耳を美加の胸に当てて、心臓の鼓動を聞く。それから、彼女の手を握る。美加の目が急に開いて、寝てると思ったのか、このスケベ高橋。そう言って、高橋に飛びついて抱きつく。帰ってくるのが遅いから、心配したよ。こっちもいろいろあるんだよ。男の事情。なによ、それ。美加、早く、休もうよ。高橋君が、休もうって言って、素直に休んだためしはないじゃん。そりゃ、当たり前だろ、こういう場所なんだから、覚悟しておけよ、と言って高橋が部屋の明かりを消すと、計器類が、細かく緑や赤や青に点滅して、スピーカーからサイレンの音や、勇壮なマーチが流れ出す。なんだか変なホテルだな、と美加はポツンとつぶやく。高橋が、まあ何事も、結果良ければ、全て良し、うん、素敵なホテルだよ、と答える。ほんと、素敵なホテルだよ。

(30) インディアン・サマーの前。 1

2004年08月30日 | 小説+日記
 高橋と杉山美加は、ふたりで観覧車に乗っている。下の客室では子供連れの家族が、上では年の離れたカップルが、窓の外を眺めている。ねえ、高橋君、どうしたの、黙り込んじゃって。いや、別に。ほら、ディズニーランドが見えてきた。あれが、スプラッシュマウンテン。ほら、海。すごい、すごい、海、すごいね。ねえ、ほら高橋君、海だよ。高橋君、海好きじゃん。僕は海、好きだよ。ね、ね、好きでしょ、いいよね、海、広くて、青くて。船、船、ほら、昔の船。なんて言うんだっけ?帆船だよ。そうそう帆船。うわあ、よし!くぁ!と高橋は声を出した後、首を振って、両手で頬を叩く。どうしたの、高橋君?!びっくりするじゃん。いや、ごめん、目が覚めた。寝てたの?いや、そういうことじゃなくて。なあ、美加、キスしよう。いいよ。下の窓から子供がのぞいている。美加、あっちが新宿?そうだね、だから、あのあたりが、事務所かな。そうだろうな。じゃあ、あっちが俺の家あたり?それで、その向こうが美加の家かな。うん、そうだね、高橋君の家だね。美加、もう一度、キスしよう。うん。下の客室で、子供がこちらの二人を指差し、窓を叩いてはしゃいでいる。親がそれを止める。高橋君、見世物じゃないんだから。ごめんごめん。ねえ、ほら、あれがスプラッシュマウンテン。そうだね。なんだか、ここ、傾いてない?ほんとね。そろそろもっとも高い位置に到達します、とアナウンスが流れる。水族館があそこで、あっちがスプラッシュマウンテンね。美加、ディズニーランドにこだわるね。だって、いっしょに行きたいじゃない。いいんだよ、別に行ったって。なんか、とげのある言い方するのね。杉山美加の携帯電話が鳴る。杉山美加は、着信の相手の表示を見て、留守番電話に切り替える。いいんだよ、出たって。例のあいつからよ。うちの事務所の羽田君。もう、ほんとにしつこい、しつこい。ふん、いいじゃん、そいつとディズニーランドに行けば。美加とだったら、美男美女で、さぞかし、ミッキーとミニーも嫉妬するんじゃないの?うわ、なんか、いやな感じのこと言うのね。でも、明日、羽田君と仕事で会うのよね。憂鬱、憂鬱、すごい憂鬱。いいんじゃないの?別に。変に意識するからだめなんだよ。ほおっておけよ。そう、出来ればいいけどね。出来ないかもしれないの?そんなんじゃないけど。だから、当分、俺とどこかに行こうって言ってるのにさ。無理よ。わたし、仕事好きだもん。俺より?うーん、ディズニーランドよりは好き。ほら、スプラッシュマウンテン。おい、美加、ごまかすな。ごまかすなよ、しっかり、数えろよ、空手青年。ナカムラはソファに横になりながら、計算機にむかっている空手青年を眺めている。ナカムラさん、どうします?結構な額になりますよ。じゃあ、とりあえず、適当に手続き済ませて、うまく流して、あとは、あっちにお任せ。どうする?お前、リムジンでも乗る?あんまり、そういう無駄使いはいやだなあ、成金みたいじゃないですか。しょうがねえじゃん、成金になっちゃったんだから。税金対策にいろいろ使うよ、悪いけど。ナカムラさん、そういうの嫌いじゃなかったの?いいの、いいの。とりあえず、次の仕事をうまく仕切れれば、なんてことはないよ。ナカムラさんにそういう才能があったとはね。いや、才能は全然無いよ。とりあえず、もうどうなったっていいと思ってるから、変な度胸がついちゃってさ。ふん、そんなもんですかね。そんなもんだよ。

(29) 誰かの存在と、その時間。 3

2004年08月25日 | 小説+日記
 もしもし、羽田ですけど、美加さん? あのお、羽田さん、折角、いつも電話頂いてるんですけど、すみませんが、あの、もう、こちらの電話には掛けていただきたくないんですよね、ちょっと、こちらも事情がいろいろありますし。いや、別に僕は怪しいものじゃないですよ、美加さんも知ってるでしょ? 僕なんて、美加さんに比べれば、吹けば飛ぶようなランクの人間ですから。いや、そういうことじゃないんです。あ、彼氏に気兼ねしてるの? いやあ、美加さんらしくないなあ、いろいろ聞いてますよ、美加さんの噂。あの、ほんとに、やめて頂けますか? 隣でユカリが、電話を切っちゃいなよ、という身振りをしている。すみません、ほんとすみません。そういって、美加は電話を切る。ほんと、困っちゃうのよね、ああいうタイプの人って。美加は言う。ユカリは、でも、美加、まんざらでもないんじゃない? 羽田さんって、先月号に載ってた人でしょ? かっこいいじゃん、いいなあ、美加はいいなあ、華やかだなあ、うらやましいなあ。馬鹿。美加はユカリの頭をコツンと叩く。痛いなあ、もう。痛いなあ、もう。変な切られ方しちゃいましたよ、永田さん。あなたの電話の仕方が悪いのよ、とマネージャーと打ち合わせ中の永田が振り返って言う。参ったなあ。なんとかして、杉山美加を落としたいんだけど。ねえ、永田さん、彼女の住所、知ってるでしょ? 知らないわよ。またまた、そんなこと言っちゃって。まあ、教えるも教えないも条件次第によるけどね、と言い、永田は不敵な笑みを浮かべる。笑みを浮かべて、高橋に金の無心をする、自称親戚を前に、高橋は困惑している。あの、僕も、ひと月ひと月を過ごすので精一杯なんですよ。まあ、そこをなんとか。うちの子も手術を重ねててね、大変なんだよ。高橋君、子供の頃、覚えてるかな? うちの階段からよくジャンプしてたよね、なつかしいなあ。とりあえず、高橋は、杉山美加との旅行に使うはずだった、数万円を「自称親戚」に渡す。両親に問い合わせたら、確かに、高橋家の親類のものだという。でも、なんでまた、僕のところに来たんだろう。保険が下りたことをどこからか聞きつけたのかな? まあ、そんなところじゃないかしら。気をつけなさいよ。ああ、大丈夫だよ。高橋は再び頭痛に襲われて、洗面所で嘔吐したあと、薬を飲む。急に心細くなり、杉山美加に電話をする。電話の向こうから、すこし怒気を含んだ杉山美加の声が聞こえたので、どうしたのか、と聞くと、ああ、高橋君かあ。あのね、さっきから、変な電話が来てね、大変だったんだから。なあ、美加。お互い、仕事休んで、半年くらい、のんびりしないか? それくらいの蓄えは何とかあるし。どうしたの? 急にそんなこと言い出して。いや、あのさあ、もう、うんざりなんだ、こんなことには、うんざりなんだ。高橋君、どうしたの? 大丈夫? とにかく、今日の高橋君はおかしいと思うんだけど。いや、おかしくないよ。当然のことを言ってるんだよ。おかしいのは周りのほうだよ。こんなことっておかしくないか? この頃、全部がおかしいよ、全部。なんなんだよ、まったく。高橋君、落ち着いて。ねえ、落ち着いてってば、大丈夫だってば、わたしがついてるってば。ごめん、ぼく、疲れてるみたいだ。多分、明日には元に戻ってると思う。ごめん。電話が切れる。ユカリは、どうしたの? と、聞くが杉山美加は、ひとことも答えない。高橋君のこと、わたしはどれくらい分かってて、高橋君はわたしのこと、どれくらい分かっててくれてるのかな? わたしが甘えちゃってるのかな? 高橋君がわたしに甘えてるのかな? と、眠りに付く前に、杉山美加はベッドの中で思う。

(28) 誰かの存在と、その時間。 2

2004年08月23日 | 小説+日記
 特に問題はありませんよ、たぶん、精神的なものが影響してらっしゃるんでしょうね、とりあえず、頓服のお薬を出しておきますから、ゆっくり、休んでください、いえいえ、こういうことはよくあることですから、まあ、仕方ないでしょうね、とにかく、休むのが一番です。そう医者は言う。高橋は受付で薬をもらう。付き添っていた、永田に説明する。ごめんね、ありがとう、でも、大丈夫だからさ、いいよ、一人で帰るから。永田は心配そうに、高橋の目の奥をのぞきこむ。高橋は永田の肩を、ぽん、と叩く。永田は、うなづいて、去っていく。後ろ姿を見送りながら、高橋は、自責の念にかられそうになりながらも、電話でタクシーを呼んで、仕事場へ向かう。流れていく景色を見ながら、少しめまいを起こしそうになる。信号待ちをしている間に近寄ってくる人間がいたので、誰かと思うと、仕事仲間だった、栗山で、コツコツと窓をノックするので、ドアを開けてもらう。やあやあ、高橋、久しぶりじゃん、なにやってたの? あ、新橋までお願いします。逆方向だよ。高橋は財布の中のタクシークーポンを確認する。すまんすまん。なあ、高橋、このあいだの建築うんぬんの話、知ってる? ああ、聞いたけど。あれ、決まったよ。名古屋での仕事だけど、なんだか、いい話だよ。へえ。だから、週に二日は俺、名古屋なの。はあ。でも、一人で名古屋はつらいよな。お前のとこの、杉山美加とか永田ちゃんみたいな、彼女を連れて行ければな。へえ。そしたら、人生、楽しいだろうな。優しそうだし。そうかな。そりゃそうだよ。あの子たちの顔見れば分るよ。へえ。なあ、高橋、お前どうなんだよ、最近。いい女とかいるの? いや、別に。お前もさあ、もう若くはないんだから。大きなお世話だよ、栗山は女の話かプロレスの話しか出来ないの? そんなことないって。あのさあ、なんだか、頭痛がしてきた。高橋君、また、そんなこと言っちゃって。いや、本当に。ごめん。降りるよ。おいおい、大丈夫か? 高橋はタクシーから降りると、道端で嘔吐する。あらあら、高橋、酔ってたの? いや、薬飲めば大丈夫だから。大丈夫だから。高橋君はそんなに簡単な人間じゃないから。杉山美加は、ユカリを相手に、コーヒーを飲んでいる。ダメだよ、ダメ。ちゃんと、美加が、縛り付けておかないと、高橋君、すぐどこかに行っちゃうよ。そういう問題じゃないって。あのさあ、ユカリは恋愛の話か、ファッションの話しか出来ないの? そんなことないって。私だって、結構、真面目にいろいろ考えてるんだから。美加にそんなこと言われるなんて思わなかったなあ。最近、なんだか、美加、真面目だもんね。そんなことないけどさ。携帯電話の着信音が鳴る。あ、羽田君かな? 美加、また新しい男? ちがうの。仕事先で一緒になったひとなんだけど、どこからか電話番号知ったらしくて、しつこく電話掛かってくるのよね。美加、そんなの無視しときなよ。でも、なんだか、悪いし。はい、杉山ですけど、ああ、どうも。

(27) 誰かの存在と、その時間。 1

2004年08月23日 | 小説+日記
 こうして、二人きりで、喋るのって久しぶりじゃない? と永田が言う。そういえば、そうだね、と高橋。二人のそばを、五十歳を超えていると思われるウェイトレスが、せかせかと動き回っている。まあ、特に、急用があるという訳ではないんだけど。永田は、窓から、曇り始めた空を見る。ただ、なんとなく、高橋さんと会っておかなきゃいけないんだろうなあ、と思ったのね。別に合う必要はなかったと思うんだけど、と高橋が言う。近くまで来たし、会っておくのが筋だとは思うし。悪いことではないと思うけど。それから、会話は、仕事の話になり、事務所の話になり、高橋が今、取り組んでいる企画の話になった。永田ちゃんはどうなの? これから、どうしていくの? いままで、通りにやっていくわよ。だけど、たまに辞めたくなるときがあるけど。全部、なにもかも、やめて、どこかへ行きたい。遠い、とおい、どこか。別に、距離が遠いところじゃなくて、なんか、こう、精神的に遠いところ。そこで、どうするの? まあ、少しのんびりしようかな、と永田は微笑む。高橋さんにも捨てられちゃったしね。おいおい、捨てたのは君でしょ。わたし、そんなに器用な人間じゃないし。頭もよくないし。おまけにずるいしね。うつむき加減に、時折、髪に手をやりながら、永田は言う。そんな永田を高橋は見つめている。多分、いいことあるんじゃない? なんの根拠もないけどさ。ウェイトレスがやってきて、空いたお皿、お下げしてよろしいでしょうか、と言う。あ、どうぞ。ついでに、私自身も片付けてもらおうかしら。意味分らないよ。わたしも、自分で言っていて、意味がわからなかった。二人は笑う。少し、混乱してるみたい。ぼくだって、混乱してるよ。どうも、最近、混乱してる。でも、仕様がないよ。全部、自分が積み上げて来た結果だもの。別に後悔してるわけじゃないし。あ、ごめん、ぼく、ちょっと、トイレに言ってくる。うん。高橋は立ち上がるが、どうも、歩き方がふらついているなあ、と永田が思った瞬間、高橋は倒れる。永田はすぐに駆け寄る。いやいや、大丈夫だから、と高橋は言うものの、まっすぐに立てない。とりあえず、タクシーで病院に行きましょうよ。いつもの病院でいいんでしょ? すまないね、ほんとに。高橋と永田を載せたタクシーは、総合病院へ向かう。もっと、急げませんか?任せておいて下さい。任せておいてください、と杉山美加は山崎に返事をする。なんだか、最近、急成長だね、美加ちゃん。評判いいよ。ありがとうございます。なんだか、このごろ、調子も良くて。それは何より。なんだか、業界でも君のファンは多いんだぜ。あの、なんていったかな、企業用のVTRの件でうちにきた、そう、ナカムラさん。彼なんて君のかなりのファンなんだぜ。ああ、ナカムラさんですか。そうですか。ええ。そういうのは大事にしておくと、あとあと助かるよ。ええ。そうですね。杉山美加はトイレの鏡に自分の顔を映す。笑みを浮かべたり、不機嫌な顔をしてみたり、怒った顔をしてみせる。高橋くんは、今、何をやってるのかな? 明日は何をするのかな? 明後日は? その次の日は? わたしも高橋君もどんどん、進んでいくけれど、どこか、方向が違う気がする。でも、それは悪いことじゃないし。わたしが高橋君のことを大事にして、高橋君がわたしのことを大事にしていれば、二人の距離はなんとでもなるし。甘いかな? わたしの考え、甘いかな? だけど、絶対、どうにかしてみせるよ。絶対に。

(26) 彼あるいは彼女は、それを何と呼ぶのか。 5

2004年08月18日 | 小説+日記
 高橋は杉山美加の運転する車に揺られている。窓の外には、家路を急ぐ中学生達が白いヘルメットをかぶって、自転車をこいでいる。ずいぶん遠くに来たね、と杉山美加が言う。高橋は黙って、窓の外を見ている。ファーストフード店で食事を済ます。二人はわずかな言葉をかわすだけ。ほら、あの山並み、きれいだね。杉山美加は返事を期待しないで、この土地について説明する。高橋はたまに形式的な返事をする。高橋から、久しぶりに届いた長いながいメールを杉山美加は大事に保存して、たまに読み返す。そして、いま、隣に高橋がいることを、当然に思う。わたしはとても強くなった。何事にも負けないと思う。自分の中に、しっかりとした柱が出来ている。もう、ふらふらもしない。どんなことが起きても堂々と、乗り越えて行けるのだ。なんだか、わたし、かっこいいなあ、てへっ。杉山美加は、信号待ちの間に、高橋の頭の手術跡を見つめる。そして、指でなぞってみる。痛かった?そりゃもちろん。大変だったね。うん。二人はそれから、再び黙り込む。杉山美加は、目標へ向かう道を何回か間違える。高橋に地図を見てもらい、正確な方角を確かめる。なんだか、人生みたいじゃん、と杉山美加は思うが、高橋には言わない。夕焼けがきれいだね、と高橋が言う。ほんとだ、きれいだね、と杉山美加は答えて、夕焼けがよく見えそうな場所を探してみると、近くにちょっとした高台を見つける。二人は降りて、そこのベンチに腰掛ける。遠くでは、今まさに、太陽が沈もうとしている。二人はオレンジ色に染まっている。少しむこうで、太った女性が犬を連れて散歩している。たまにその犬が、頼りない響きの鳴き声をあげるので、それがなんだかおかしくて、杉山美加がくすくす笑うと、高橋も微笑む。ああ、今日、はじめて高橋君が笑ったなあ、と思う。あのさあ、いままで、一度も言ったことがなかったけど、と杉山美加。高橋は何かを察したのか、身体をびくんと震わせたのがわかる。あのさあ、わたし、いままで、意地を張って一度も言わなかったけど。また、びくん。高橋君のこと、好きだよ。本当に、好きだよ。いままでごめんね。だからさあ、高橋君も。そこまで言いかけた時には、いつの間にか、高橋は、杉山美加のひざに顔を突っ伏して、嗚咽を上げて泣き出していた。よしよし。杉山美加は高橋の頭をなでる。なおも高橋は泣き続ける。高橋君は傷つけられたかもしれないけど、誰も高橋君に傷つけられた人なんていないよ。みんな味方じゃん。みんな、高橋君のこと、好きだよ。そして、わたしも。杉山美加は高橋の頭を撫で続ける。よしよし。高橋の頭の無数の手術跡を見ながら、杉山美加も、自分の目に涙が浮かんでくるのを押さえられない。大変だったんだね。なおも顔をあげられない高橋を抱きしめる。遠くで、救急車のサイレンが途中で止まる。犬が情けない鳴き声をあげる、うるるうぉーひん、わふわふ。杉山美加は泣き続ける高橋の背中をぽんぽんと叩いたが、そのリズムと全くいっしょに街灯が点っていくさまが、ちょっと楽しくて、自分が笑顔になったのがわかる。さて、と杉山美加は思う。これから、いいことがどんどん起きていったらうれしいし、なにも起きなかったら、それはそれで、いいことだし、悪くなっていったとしても、まあ、高橋君がいれば、なんとかなるだろう、と思う。どうしようもなくなったら、ごめんなさいと、ぺこりと頭を下げて、この車で二人で逃げてしまえばいいのだ。ほらほら、泣くな、高橋。あんまり泣きすぎると頭痛がするぞ。杉山美加は高橋の頭をこつんと叩いてみた。そこはまだ治ってないんだ、と高橋がしゃくりあげながら鼻声で言った。

(25) 彼あるいは彼女は、それを何と呼ぶのか。 4

2004年08月16日 | 小説+日記
 高橋さん、ただいま。お帰り。晩飯作っておいたよ。ああ、うれしいな、高橋さんの料理、久しぶり。まあ、永田ちゃん、ビールでも飲みながら。あのさあ、高橋さん。なんだよ、急に改まった口調で。あ、いいの、もうちょっと後で話すわ。いいよ、いま話しなよ。あのさあ、高橋さん、どうして、そんなに最近おかしくなっちゃったの?急に偽悪的になっちゃったり、かと思うと、急に優しくしてくれたり、なんだかおかしいよ。別におかしくないさ、普通だよ。それで、私が喜ぶと思うの?高橋さん、ねえ、私がつらいの分かってるでしょ?何言ってるんだよ、永田ちゃんのほうこそ、永田ちゃんらしくないよ、どうしたんだよ、いきなり。おかしいのは、最近の高橋さん。ねえ、ちょっと、やめてよ。また、そうやってごまかそうとするんだから。ねえ、高橋さんのこと、私、すごく、好きなんだよ、美加さんなんかより、ずっと好きなんだよ。ずっとずっと一緒にいたいんだよ。だから、最近の高橋さんには耐えられない。あのさあ、永田ちゃん。ぼく、恐いんだよ。どうしたって言うのよ。永田ちゃん、ぼくのそばにいてくれないかな?ぼくも君と一緒にいたい。いま、高橋さん、なんて言った?一緒にいたい。ダメかな?お断り。お断りです。もう、私が、高橋さんのそばにいる理由が、今、すっかりなくなりました。お断りです。さようなら。高橋は部屋に一人取り残される。テーブルの上の料理はとうにさめていて、ビールの泡も消えていた。永田は少し泣きながら、マンションを出たけれども、同時に、自分の心が軽くなっているのを感じる。高橋さんはあの瞬間、私を必要としていた。確かに必要としていた。それだけで十分だ。永田はそう思う。そして、私は対等に高橋さんに接することができるのだ。次第に永田は、いままで失われていたものを、取り戻した感覚を得る。そして少し微笑む。微笑んだ表情が素敵なんですよ、彼は。杉山美加は言う。高橋君とは、今は全然、喋ってもいないけど、多分、いつもの、あの時のような日がまた、来ると思うんです。へえ、そうだといいね、永田は形式的に相槌を打つ。あ、そろそろ、仕事始まるね。急ごうか。そうですね。永田は杉山美加への優越感を覚えずにはいられない。彼は私に、あんなにぶざまな格好をして、一緒にいて欲しいと言ったのだ。ねえ、美加さん、もうちょっと背筋を伸ばし気味のほうがいいんじゃない?そうですね、ありがとうございます。ありがとうございます、うれしいです。応援、これからもよろしくね、と杉山美加は握手を求めてきた若い女性と手を振って別れる。わたしは今、誰にも負けはしないんだ、と杉山美加は思う。沸々とやる気が起きてきてるし、なんだかとても気持ちがいい。他人のことを心配することが出来ている。そんなことは今まであまりなかったな。自分のことで精一杯だったし。煙草もやめたし。とにかく、今が充実している。今の自分が一番好き。そして、周りの人も大好き。高橋君はきっと、わたしのことを待っててくれてる。もし、待っててくれなくても、高橋君のことをわたしが追いかける。そして、ちょっと、高橋君にお説教してやるのだ。そして、それから、ぎゅっと抱きしめる。でも、高橋君のことが好き、なんて絶対に言ってやらない。でも、高橋君には、わたしのことを好きと言わせてやる。とにかく、今のわたしは自信に満ちあふれているのだ。わたしは絶対に負けない。絶対に。絶対にナカムラの勝ちを確信していたよ、と会長が言う。まあ、分け前は、君が決めて構わないよ、君が賭けに勝ったんだから、君の自由にしなさい。じゃあ、全部、わたしが頂きます、とナカムラは言う。随分、大胆なことを言うね、君は。気に入ったよ。とりあえず、君に任せてみるとするか。ありがとうございます。ナカムラは、自分が着実に、成功への階段を昇っていっていることを当然のことだと思う。車が近寄って来て、運転手が扉を開ける。ナカムラは颯爽と乗り込む。死ぬ気でやれば、なんとかなりますよ。空手青年の声が聞こえる。確かにそうみたいだな。ええ、ナカムラさんなら、大丈夫ですよ。でも、なんとかなることとならないことがあるから難しいよ。また杉山美加のことですか?そういうことは僕はよくわからないな。分からなくていいよ。車は、法定速度を超えて、都心を走る。

(24) 彼あるいは彼女は、それを何と呼ぶのか。 3

2004年08月16日 | 小説+日記
 何度、携帯を見つめても、高橋からの着信も、メールの返信も来ていない。センターに問い合わせをしたり、電話を振ってみたりしても、なんの変化もない。杉山美加は思う。わたしは、わたしをすごく大事にして、支えてくれる人がいないと頑張れないのだ。本当の自分を出せないのだ。だから、一人ぼっちのときのわたしはわたしじゃない。本当のわたしを出せてないし、すぐ疲れるし、すぐ座っちゃうし、煙草も吸っちゃうし、他人にあたるし、とても寂しい。寂しい、寂しい、すごく寂しい。でも、わたしのことを大事にしてくれる人がいる時は、本当の自分。明るいし、何をやっても楽しいし、仕事は、どんどん、がつがつ、頑張れるし、周りの景色がキラキラしている。そっちが本当のわたし。だから、なんで、連絡くれないんだ、高橋のバカ。今すぐ来てくれたら、今まで、高橋君がわたしにくれた優しさの2倍の優しさを高橋君にあげる。すると、高橋君はわたしにその2倍の優しさをくれる。そして、わたしは、またその2倍をあげる。高橋君はさらに2倍をくれる。こうやって、わたしたちは、どんどん、優しくて幸せになっていくはず。幸せがぐるぐるぐるぐる。「わたしたちは幸せスパイラル」スプリング24号98ページ。ああ、優しくされたい。支えて欲しい。早く、連絡よこせ、高橋。でも、わたしは自分が高橋君に嫌われているなんて、少しも思っていない。高橋君は、わたしに連絡をしたくてうずうずしているはず。それには、確信がある。確信って、英語でなんだっけ。なんだっけ。なんだっけ。そうだ、コンフィデンス。オリコンの「コン」はコンフィデンスのコンだったんだ。オリコン。わたしのオリコン。なんだそりゃ。そう、高橋君は絶対、今、つらい思いをしている。わたしに連絡できないんだもん。多分、すごい事情があるはず。山崎さんと永田さんが、高橋君について話してるの聞こえちゃったもん。いつでも待ってるから、早く連絡よこせ、高橋。早く、はやくはやくはやく。自分の頬を幾筋もの涙が伝っているのを拭おうとしないでいた杉山美加は、いよいよ、声をあげて泣き始める。近くにある毛布をかぶる。何度もしゃくりあげて泣き続ける。しゃくりあげるたび、杉山美加を包んだ毛布が揺れる。ごめん、高橋君、ごめん、高橋君。悪いことしちゃってごめん、全部わたしが悪いのは知ってるよ。ごめん、ごめん。毛布の塊が激しく、形を変えて動く。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。ごめんごめんごめん。毛布から手が伸びて、たたんで置いてある高橋のシャツを掴んで、毛布の中にひきずり入れる。しばらく静かになったあと、ふたたび周期的に毛布は動く。高橋君、ごめん、ごめん、ごめん。ごめん、高橋さん、遅れちゃって。仕事が長引いちゃったの。永田ちゃん、お帰り。疲れたでしょ、休みなよ、ぼくもちょうど仕事がおわったとこ、ほら、原稿用紙でこんなに。ペンだこできそう。あのさあ、高橋さん、ちょっと聞いていい?ああ、いいけど、何?杉山美加さんのことなんだけど。ああ、どうしたの?あのさあ、どうして、連絡してあげないの?永田は心の中に杉山美加に対する優越感を感じながら、あえて聞いてみる。別に連絡する必要がないから。今日、たまたま山崎さんと高橋さんのことを話してるときに、美加さんが来て、ちょっと最近の高橋さんのことを教えてあげたら、びっくりしたみたいで。あれっ?美加さん、知らなかったの?高橋さんと付き合ってるんでしょ?と言ったんだけど、なんだか、美香さん、顔色変わっちゃって、大変だったんだから。へえ、そうなんだ。高橋さん、杉山美加さんのこと、どう思ってるの?高橋は少し沈黙したあと、あのさあ、そういう質問やめてくれるかな、と永田に後ろから抱きつき、首筋に軽く噛み付く。ほら、すぐそうやってごまかす。ねえ、永田ちゃん、一時間だけ、完全にぼくのものになってくれるかな?意味がわかんない。文字通りだよ。完全に。まだわかんない。なってみればわかるよ。どんなことでも、ぼくの言うことを聞くんだよ。どうしようかな。選択の余地はないよ。じゃあ、一時間だけなってみる。音声を消して、つけっぱなしにしてあるテレビが二人の後ろで、歌番組を放送している。このひと、こんなに売れるとは思ってなかったなあ。こういうのが、今は受けるんだな、どうしたの、杉山ちゃん、そんなに目を腫らしちゃって。うちの大事な商品なんだから困りますよ、と山崎は言って、今日、企業用のビデオへの出演の件で、代理店の人が来てるから、ちょっと顔、出して。そのまえに、その顔なんとかしとけよ。はい。杉山美加は目を氷で冷やす。はいはい、いらっしゃったよ。早く、はやく。すみません、遅れました。わたくし、杉山美加です、この度はお世話になります。はじめまして、ナカムラです。杉山美加の前に、ナカムラが立っている。こちら、ナカムラさん。仕事の話はつつがなく進んでいく。杉山美加は少し気が動転したけれども、気分を持ち直す。会議室の電話が鳴る。すみません、ちょっと席を外しますね、と山崎が出て行く。ナカムラは杉山美加に言う。ひさしぶり。ずっと連絡を待ってたんだけど、こちらから電話をするのもなんだし。そして、今はなぜか、こういう仕事だよ。普通の髪型に、普通の格好をしてるから、誰だかわからなかったわよ。ひげも無いし。ああ、ずいぶん前に剃った。似合うんじゃない?そうかな。でも、どうして連絡くれなかったんだよ。わたし、もう分かったから。何を?いろいろ。ふん、いろいろか。高橋君に悪いもん。そうだよな、高橋に悪いよな。わたし、いままでとは、違うから。そうか、違うのかあ。しっかりしなきゃ、ダメだし。そうだよな。しっかりしなきゃな。もう、ふらふらしたくないし。そうだよな、ふらふらしてちゃだめだよな。だから、今は頑張るんだ、わたし。そうか、頑張れよ。そこへ、山崎が戻ってくる。お待たせしました。話は順調に進む。いや、こちらも不慣れなところがあると思いますけど、どうぞよろしくお願いします。いやいや、こちらこそ杉山をよろしくお願いします。契約のあと、ナカムラは山崎と、杉山美加に握手する。山崎が目を話した隙に、杉山美加の耳元に、「おれは、お前のこと、絶対あきらめないから」とささやく。杉山美加の目に力がこもる。ナカムラは事務所を出る。ああ、ふられちゃったのかな、なあ、空手青年よお。なに言ってるんですか、これからですよ。はじまったばかりですよ。そりゃそうだけどさあ、はじめがこれじゃ、きついよな。高橋のこと言われたら、なにも言えなくなるよ。また、ナカムラさんらしくない。これから、すごいことになって行くんでしょ、ナカムラさん。もちろん、そうだよ。ナカムラは慣れない手つきでネクタイを締めなおす。