さわいみゆうのこえのつや

実写版美少女戦士セーラームーンとそのキャストの魅力を今更ながら綴る

沢井美優、または掠れる声の…その9

2005-02-09 17:56:50 | 沢井美優
さて、そろそろ締めに入りたいのですが、すんなりと終わってくれるでしょうか…。何はともあれ始めましょう。
今回は基本的に「文學界」2003年11月号掲載の柄谷行人氏「カントとフロイト トランスクリティークⅡ」に依拠しています。強引に短絡的解釈を施す部分があるかもしれませんので、詳細はそちらを参考にして頂きたいと思います。

act.35,36の沢井さんの沈痛な叫び――「美奈子ちゃん!」――はどのように捉えられるものなのか、というのが前回の終尾で設定したテーマでした。ではここで、これを考える上で参考となる柄谷さん(によって参照されたフロイト)の言葉を引用したいと思います。

「『快感原則の彼岸』において、フロイトは、本来なら不快であり避けられるべき行為が反復される事実に注目した。すなわち、不快な災害の場面をくりかえし反復する外傷性神経症の患者や、母の不在という不快な体験を遊戯によって幾度もくりかえす子供の例である。彼はそこにある反復強迫が快感原則より第一次的で根源的なもの(欲動)に由来すると考えた」(前掲)

やや話が前後しますが、フロイトに関する一般的な理解ってどの程度なんでしょうね。なんとなくですが、「男は母のような女性を愛する、女は父のような男性を求める…、つまり人間の基本的な行動ってえのはぜんぶ『性的欲動(≒リビドー)』に則ってんだ。要するに、どんなにかっこつけてたって俺もお前もチ○○マ○○野郎ってことさ!」ってところですかね(笑)。で、これはあながちすべて間違いというわけでもないんですよね。特に“前期フロイト”にはこのような側面がたしかにあったようです(詳しくは専門書をご覧下さい笑)。

しかし、柄谷さん曰く“後期フロイト”、つまり「快感原則の彼岸」以降のフロイトは、それまでと変わって大きく転回しているということです。「快感原則の彼岸」以降というのは“第一次大戦後”なんですね。戦争神経症患者のカウンセリングを行っていたフロイトは、患者たちが繰り返し見る悪夢が、“快感原則”や“願望実現”の観点では説明がつかないことに気づきます。言われてみればたしかにそうで、戦争(や幼児虐待など)によるトラウマが原因となって見る悪夢と、「あ~女子高生のパンツ見てえな~」と常日頃考えてる人が、夢で盗撮してるところを警官に見つかって逮捕される…というのは、どちらも悪夢には違いないかもしれませんが、まあ明らかに異質なんですね(笑)。後者は「厳禁された願望実現のかわりにそれが当然受けるべき処罰を置くにすぎないのであり、したがって拒否された本能衝動に反応する罪意識の願望実現である」(同前)わけですが、しかし前者は「忘却されたものと抑圧されたものとを呼び出そうという願望に支えられ」(同前)たものなんですね。

ということで、「反復強迫が快感原則より第一次的で根源的なもの(欲動)に由来する」という考えに至るわけです。赤ん坊が好きな「いないいない、ばあ」は、母の不在という不快を前提するもので、ある意味で赤ちゃんはわざと自分にそれを課しているとも言えます。また、幼児期に性的に虐待されたことのある女性が売春したり、ポルノワーカーになったりすることも多いようです(最近の「週刊プレーボーイ」でも加藤鷹さんが少し関連することを言ってました)。これも反復強迫とのつながりで捉えられるものでしょう。

さて、そこで沢井さんのあの声です。
わたしが何度も繰り返し聴いたあの叫びは、少なくともわたしには(今までの文脈でいうところの)反復強迫的な響きを持って届きます。だとすると、あの声はいったい何を「呼び出そう」とするものなのでしょうか。「忘却され」「抑圧され」たものとは何なのでしょう。

わたしが1つの仮説として用意しているのは、あの声はまさに「赤ん坊が母親を呼ぶ声」(のアナロジー)である、という解釈です。夜泣き的な声、と言ってもいいかもしれません。うさぎが、自らが心酔し敬慕しているアイドル=偶像:美奈子に対して上げる声と、赤ちゃんが母親に何かを必死に伝えようと上げる声は、同一であるとは容易く言うべきではありませんが、しかし相似的な関係を持っているように思われます。あいにくわたしはまだ子供がいないので夜泣きで苦しんだ経験もありませんが、想像するに、夜中にいきなり泣き出してほとほと困らせてくれやがる赤ん坊の泣き声は、時に憎らしいほどのものであるのではないでしょうか。けれども、その憎らしさは単純な憎悪とは異なり、どこかせつなさ・やりきれなさを暗に湛えつつ、同時に一方的な赦し(愛?)を与えるにやぶさかではない、というような心の変容を執拗に促すものであると思います。ま、簡単にいっちゃえば、「まったくもう~」と言いながらも、そのおかげで赤ん坊を嫌いになることなんてありえず、それでも惜しみなく愛を与えるのがまったく「自然」だということです(虐待やノイローゼが起こるときは色々あるでしょうが…)。

沢井さん=うさぎの「美奈子ちゃん!」が喚起するのは、そういった心のありようです。
やや強引に具体的に言っちゃうと、子育てを経験したことなんかないにも関わらず、わが子が強く必死に自分を求めてどこかで叫んでいて、もうどうにもいたたまれねーよ、というような感覚を呼び起こすということであり、あるいは赤ん坊・幼少時代の記憶なんてほとんどないにも関わらず、かつて母親や父親を泣き叫んで呼んだ、あるいは探し歩いたような記憶が、まさに現実のものとしてそこにあるかのように思い起こさせる…ということです。

今わたしは記憶はほとんどない、と言いました。が、おそらく上記と似たような状況を、実は何度も経験しているのでしょう。「忘却され」「抑圧」されたものとはまさしくこれらのことであり、それらが不意に甦ってきそうになるから、先のような「痛み」にも似た、ある種の感情を抱くのだと思います。

沢井さんの叫び、響き渡る声は、そのような痛みを伴うものです。そしてそれは「美・崇高さ」に大きく関係するものです。次回、そのことについて補足しつつこの駄文を締めたいと思います。

…あー長い…。

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