さわいみゆうのこえのつや

実写版美少女戦士セーラームーンとそのキャストの魅力を今更ながら綴る

渋江譲二さん in 響鬼~轟く鬼~

2005-05-19 22:25:04 | 渋江譲二
今回の響鬼では、渋江さんの出演シーンはあきら(秋山奈々さん)とおやっさん(下條アトムさん)との絡みと、あとは戸田山(川口真五さん)の爆笑セミヌード後の「たちばな」内の1ショットのみだったと思いますので、レポートというよりは雑談のきっかけ、導入として触れてみたいと思います。

あきらへの配慮、気遣いを素直に口にする渋江さんは相変わらずかっこよく、イブキとしての発言というよりも、むしろあのセリフは渋江さん自身のキャラクター、その気質によって発せられたものなのではないか、とさえ感じてしまうわたしでございます(笑)。ま、そんなワンパターンな、条件反射的な渋江LOVEはともかく、その代わりにふと感じてしまったことがありました。それは、秋山さんは“おばあちゃん顔”なのではないか、ということです。“好々爺”とでも言いましょうか。これだと男になってしまいますが(笑)。

いや、これは断じて悪意に基づいて言っているのではありません。むしろ肯定的、積極的な評価ですし、あとはたとえばりかプリントさんでも紹介されているように、他番組の秋山さんを見れば、もっときゃぴきゃぴした年齢相応の女の子、というような印象を持つであろうという意味において、まったくの主観的独断的限定的感想に過ぎません。秋山さんファンの方、わたしにそういう意図はないとはいえ、もし気分を害されたらごめんなさい。

ただ、あの役柄上の落ち着きようと、表情をつぶさに見ているうちにどこか感じてしまうほんわかとした雰囲気は、なかなか他にはない個性だろうなあと思います。わたしとしては、なんとなく安田美沙子さん的な雰囲気を感じてしまうというか。

安田さんの笑った顔というのは、たとえば目なんかはデフォルメして漫画にすると線1本で表現されてしまうような、そんな“くしゃっ”とした笑みを浮かべられるわけですが、秋山さんも似た特徴を持っているのではないかなあと思います。“おうとつ”がはっきりしているというわけではありませんが、その目鼻の境界線を画しているおうとつが、なんとも印象深く他者に対してrepresentされるというか。そのおうとつは、具体的には境界線たる“しわ”として理解されるものだと思うのですが、しかし“しわ”は一般的に老化の象徴、典型として忌避されるものでありながらも、そのくせしわがあればこそ魅力的になる人もいると思いますし、安田さんや秋山さんはその典型ではなかろうかとさえ思うのです。

ま、いーや(笑)。酔いに任せててきとーなことを言わせていただきました。要は安田さんも秋山さんも、いわゆる絶世の美女などという括り方では到底包摂できないにも関わらず、しかし現実にとてもとてもかわいいということです。とりあえずは、秋山さんの他作品を早く見てみたいですね。それを見たとき、自分の感覚がいかに的外れであったかということについても思い知ることができるでしょう。

さて、ここからは本格的に雑談です。
つい今しがた、仮面ライダークウガから仮面ライダー555までのDVD全巻及び劇場版なども含めて視聴終了いたしました(※追記:ブレイドは途中から実写版絡みで見ておりまして、未見だった部分も今DVDで出ているものまでで一通り見ることができました。あと、響鬼はずっと見てますから“平成ライダーシリーズは一通り押さえた”ということになるわけです)。

いや、見て良かったなと思います。普段このblogを通じてコンタクト取らせていただいてる方々も、多少の違いこそあれ、特撮番組やそれに限らずドラマ(“ドラマ”にも限らなかったりしますが)を多く見ていらっしゃるわけで、であるからこそわたしにとっては示唆に富んでいたり、勉強させていただく機会が多いわけです。

もちろん、先日の更新の際にもやや関連することを述べましたが、別に予備知識が絶対必要であるわけでもありません。それがなくとも十分楽しむことはできると思います。

ただ、これはとある文学研究者の方がとある授業で仰っていたことなんですが(そしてそれはある程度一般性、普遍性のある物言いであると思うのですが)、作品を解釈するときには、読者(視聴者)には3つの自由があるというのです。1つは『何と対比させて読み取ったかという自由』、2つめは『暗示された意味を読み取る自由』、最後は『消された言葉を甦らせる自由』です。

これだけですとなにやらわかりにくところがありますが、そんなに難しいことではありません。かなり強引に簡略化して言えば、①はたとえば人が「美しい」という時、「美しい」という『意味』は究極的には決定できない以上、それは何かと“比べて”美しいと言っているに過ぎないのであり、それを考えることでより深く理解できる、というようなことだと思います。②はわりと分かりやすいですよね。「彼女は百合だ」という表現があるとき、その百合が意味するところを、少し制限はあるものの自由に想像できるということです。そして③は、「なぜそこでそういう表現が使われなければならなかったのか」を考えることです。実写版ファンのわたしに照らし合わせてみれば、なぜact.24のラストシーン、タキ仮面の正体バレの場面で流れるBGMが“ひとみは~いつ~も~じゅえる~”じゃなければならなかったか、を考えるということですね(笑)。もっともこの演出に関してはかなり批判もあったんですよね?(笑)。わたしはまだリアルタイムで知る前でしたので詳細を把握してないんですが、以前も紹介させていただいたこちらなどを拝見する限りでは、もっと別のやり方があっただろうという議論があったようです。いずれにしても、そういうalternatvieを考えること、あるいは今あるものがなぜそれでなくてはならなかったかを考えること、ということですね。

ま、これらはよくよく考えれば当たり前のことで、ある程度はみんな自然に行っていることです。とはいえ、というか、だからこそ、やっぱり平成ライダーや戦隊モノの歴史を知っているとわかることというのもあるんですよね。すぐにでも思いつくのが、あの感動的なゾイサイトの最期の場面となった場所、大きな玉ねぎ木の下ですが、あのロケ地は知っている方には今更なんでしょうけれども、555なら長田結香が最期を迎えた場所っぽい(ひょっとすると違うかも)ですし、今ド忘れしてしまいましたが、他作品でも確かにありました(あぁ何で忘れてるんだ泣!たぶんここは後日追記、修正します)。

それを知っているからこそ初めて、あのゾイの最期が厚みを持ってくるわけですね。いや、知らなくても十分厚い、熱いシーンではありますが…。

ほかにも、実写版せらむんで使われたロケ地(これは素人目にもわかりやすいのでとりあえず挙げてますが、カット割りやカメラワークでも同じことが言えるのではないかと思います)の数々が、平成ライダーシリーズを見るだけでも多々用いられること、これはひとつ解釈の余地を生むと思うわけです。

というわけで長々と退屈な話を続けてしまいましたが、とりあえず平成ライダーシリーズは踏まえましたので、これからの私は実写版1本で参りたいと思います。このところ、ろくに実写版絡みのネタで更新ができなかった分、がんばってまいりますよ!

というのは本音なんですが、実は一気に視聴してしまうと、やっぱり細部を忘れてるんですよね…。だから、その都度見返したりということが頻出すると思いますし、この際昭和のライダーも全部観てやる!という気になってるので、おそらく相変わらず効率は悪いまま更新してゆくことになると思います…すみません。がんばります(笑)。

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2 コメント

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ジョージ渋江 (おとこのおばさん)
2005-05-22 11:44:59
仮面ライダーヒビキって、昆虫→鬼へのモチーフ変換と同時に、新人の登竜門的な性格を薄めてるような気がします。主人公は明日夢なんだろうけど、ストーリーテラー的な立ち位置だし。

新人登竜門は戦隊物に任せて。



東映特撮のその後を見ていると、オダジョーや要潤、永井マサル(あえて「大」ではなく)は別格として、アバレキラー(セカチュー、H2)、五郎ちゃん(H2)、シリアスなカリス役@ハニカミ(アタックNo1)といった方々が高校生役を演じておられたり、デルタが結婚生活ネタしか語ってなかったり、たっくんがWの相手役だったりするのを見るのは、非常に辛いもんがありますね(笑)
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>motowotaさん (石肉)
2005-05-23 22:18:44
2chの書き込みで見た意見なんですが、アギトの木野さん以来のおじさんライダーの系譜(龍騎の香川教授、555の村上社長はそのバリエーションとして見れる、ということで)がここにきて前面に出てきた、という捉え方をしてる人がいました。たしかにそう見れますよね。



いくらイケメンとはいっても、上の方のポジションはまだまだ埋まってるんでしょうね~。上記のほかにも賀集、玉鉄さんなんかは今のクールに出てますけど、まだまだ龍騎の須賀・松田・涼平さんや、挙げ始めたらキリがないくらいかっこいい人がいっぱいいますもんね。…そろそろ供給過多でしょうか笑
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